ミサを味わう(3)
田中昇(東京教区司祭)
第3回 「十字架のしるし」
十字架のしるし
聖パウロが言う通り、「十字架につけられたキリストは・・・神の知恵、神の力」(1コリ1:24)です。十字架は、まさに信仰の要となるしるしです。
実はこの行為それ自体が、私たちの生活に計り知れない恵みをあふれさせるための強力な祈りでもあります。十字架のしるしをするという動作をしているとき、私たちは神の臨在を求め、神が私たちを祝福し、支え導き、またすべての災いから守ってくださるよう神に願い求めているのです。神学者テルトゥリアヌス(A.D.160-225年頃)は、一日中十字架の印を自身にしるしていた初代教会の信者の習慣について以下のように述べています。
また古代の教会の信者にとって、十字架のしるしは敬虔な神の民である証であり、魂を悪の力から守るものだと考えられていました。たとえばエルサレムのキュリロス(313– 386年頃)は、十字架の印について以下の2つの側面に注目しました。すなわち、世俗からの分離と神の加護という側面で、十字を切る行為を、「忠実のしるし」と、私たちに害を与えるようとする「悪魔に対する脅威」の両方であると考えます。
私たちの印として、大胆に、そして常に、指で額に十字を描きましょう。私たちが食べるパンの前で、私たちが飲むコップの前で、帰宅するとき、外出するとき、眠る前、横になるとき、立ち上がるとき、帰り道で、そしてじっとしているときに。十字架のしるしをすることは強力な守りの手段です。なぜならそれは神からの恵みであり、忠実な僕の証であり、悪魔に対する脅威だからです。十字架を見るとき悪魔は、十字架にはりつけにされた人のことを思い出します。悪魔は、「蛇の頭を打ち砕いた」人を恐れているのです。[2]
エゼキエルの印
十字架のしるしをするという行為は聖書、中でも旧約聖書のエゼキエル書に示されていると考える教父がいました。エゼキエルは、エルサレムの多くの指導者たちが主の神殿で太陽や他の偶像を礼拝し、地が暴虐で満たされている幻を見ました(8章)。人々が神の約束を破ったために、町は罰せられ、人々は流浪の民となります。しかしながら、エルサレムのすべての人が、町の邪悪な道に進んだわけではありませんでした。エルサレムの醜態を嘆き、神に忠実に仕えることを選んだ人々もいました。これらの正しい人々には、不思議なしるしがつけられました。すなわちヘブライ語でtahv―Ⅹあるいは十字の形―が、彼らの額につけられたのです。この霊的なしるしは、正しい人々と、堕落した文化に溺れる人々とを区別するためのものであり、神の加護の印となりました(エゼ9:4-6)。最初の過越で神がエジプトに下した罰からイスラエルの家族を守った、入り口につけられた子羊の血のように、エゼキエル書9章の額のしるしは、神の裁きがエルサレムの町に下されたときに、正しい人々を守ったのです。
新約聖書のヨハネの黙示録では、エゼキエルのイメージを用いて天の国の聖人たちの額には印が押されていることがと描かれています(黙7:3)。エゼキエルの時代のように、この印は、神の正しい人々を邪悪な人々と区別し、来たる裁きから彼らを守るのです(黙9:4)。
エゼキエルの忠実な人々が、彼らの額につけられた十字架のようなしるしで守られたように、キリスト信者は、洗礼によって刻印されたキリストの十字架を自分の自らの体になぞることによって守られるのです。そして、この十字架のしるしをするという行為は、計り知れない効果があるのです。聖書的な視点からは、私たちが、十字架の印を己の体になぞるたびに、2つのことをしているのです。
第一に、私たち自身の日々の生活において、この世の堕落から自分を切り離したいという切なる思いを表現しているのです。エゼキエルの時代のように、神の人々の中には、この世界にあふれる空虚な生き方に従いたくないという人々が多くいるのです。私たちの時代は、貪欲、自己中心、孤独、問題に満ちた結婚生活、そして崩壊した家庭生活に特徴付けられる時代ですが、十字を切ることにより、世間の基準ではなくキリストの基準に従って生きることへの確固たるコミットメントを表現することができるのです。世俗は、金、快楽、権力、楽しみなどを、良い暮らしを表すには欠かせないものとみなしますが、キリスト信者は、ゴルゴタの丘でキリストが犠牲となった愛―十字架の印に象徴される愛-にのみ見いだされる真実の幸福へ通ずるより高潔な生き方を求めます。
第二に、私たちは自身に十字架のしるしをするとき、自分の生活が神に守られるよう請い求めているのです。私たちは、この印によってすべての害悪から私たちをお守りくださいと神に願い求めます。何世紀にもわたって、多くのキリスト信者が、誘惑に打ち勝つ強さを求め十字架の印に頼ってきました。苦しみや大きな試練のただ中で、神の助けを求めるためにそうしてきたキリスト信者もいます。多くの親が、神の祝福と加護を求めて、我が子の額に十字架をなぞります。
神の御名の力
十字架のしるしをしながらキリスト信者は、「父と子と聖霊の御名によって」と唱え、神の御名において祈ります。忠実なイメージで訳せば、これは「父と子と聖霊の内に」です。私たちは主の御名の内にあって共に祈るのです。
聖書では、主の御名によって祈るということは、礼拝を象徴し、しばしば祈りと犠牲に関連づけられます。アダムの息子セツと彼の子孫は、主の御名によって祈ったと記されています(創4:26)。族長アブラハムは、神の祭壇を築き、彼に約束された地を清めているときに、主の御名によって祈っています(創12:8、13:4、21:33を参照)。アブラハムの息子イサクは、ベエル・シェバに祭壇を築いているとき、主の御名によって祈っています(創26:25)。
聖書では、名前はある特定の人を示す一般的なものではありません。名前は、ある人の本質を象徴的に表し、その人がもつ力を伝えるものです。したがって神の御名のうちに祈るということは、神のご臨在と神の力を請い求めることなのです。それゆえ古代のイスラエル人たちは、主をほめたたえ(詩148:13)、主に感謝する(詩80:18、105:1)ためだけでなく、人生において神の助けを求める(詩54:1、124:8)ために、頻繁に主の御名によって祈ったのです。同様に、私たちが神の御名によって祈るときはいつでも、神の聖なる臨在を願い求め、日々直面する幾多の苦しみにおいて神の助けを求めているのです。詩編の作者と同じく、私たちは、「私たちの助けは、天地を作られた主の御名にある」ことを認識しているのです(詩124:8)。
このことから祈りの初め、特にミサの初めに十字架の印をする意味について理解することができます。祈りの始めに、私たちは自分たちの中に神を強く招き入れるのです。私たちは厳かに主の御名において祈り、神の聖なる臨在と力を請い求めます。これは、私たちは今から始まる自ら生活の時間を主に捧げ、ミサで行うすべてのことを主の御名において行うと言っているようなものです。私たちがすることすべて―私たちの思い、望み、祈りそして行い―を私たち自身が好き勝手に行うのではなく、「父と子と聖霊の御名の内に」行うのです。さらに、主を礼拝するときにその聖なる御名を呼び求めた古代イスラエル人たちのように、私たちはミサの聖なる神秘への参加に備えて、主の御名を呼び、主の助けを求めるのです。
新約聖書では、イエスの名は、聖性と神の力と同じものであることが明らかにされています。そもそもイエスの名は、悪霊を追い払う力を持っていました(マコ9:38)。聖パウロは、この名を「すべての名にまさる名」と言っています(フィリ2:9)。彼は、この名はすべてのものをキリストに服従させる力があると言います「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリスト』は主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(フィリ2:10-11)。
その他の新約聖書の箇所でもこの点が指摘されています。イエスの名によって病人は癒され(マコ16:17-18、使3:6)、罪人は許しを得(ルカ24:47、使10:43)、悪霊どもは服従する(ルカ10:17)のです。イエスご自身が、イエスの名によって祈る人には誰にでも応えようと約束されています。「あなた方がわたしの名によって願い求めることは何でもかなえてあげよう」(ヨハ14:13、15:16、16:23, 26-27を参照)。さらにイエスの名において集う人々の間に、イエスが共にいる、臨在するという幸いが約束されています。「二人、三人が、わたしの名において集まるところに、わたしも共にいる」(マタ18:20)と。これこそ、私たちがミサの始まりにいつも行っていることです。すなわち、私たちは神の子の御名において集まります。私たちが神を信頼して自分たちの必要や願いを神の前に持ち出すとき、先ず私たちは自分の中にイエスの臨在を願い求めているのです。
丁寧に十字架のしるしをしよう
十字架のしるし、父と子と聖霊の御名における祈りは、イエスが弟子たちに与えた宣教命令の実行でもあります。「だから、あなたがたは行って、全ての国の人々を私の弟子にしなさい。そして父と子と聖霊の御名において洗礼を授けなさい」(マタ28:19)。この言葉は、私たちが洗礼を受け、私たちの魂が最初に聖三位一体の神の生命に満たされたときに語られる言葉でもあります。ミサの始めに、いつもこの言葉を繰り返すことによって、私たちは、自分の力によってではなく、神が洗礼を通して私たちに惜しみなく与えてくださった超自然的な命によって、典礼のなかで全能の神に近づくという深遠な事実を認識します。私たちは、自分自身や誰かの名によって集うのではなく、私たちのなかに住まわれる三位一体の神の御名において集うのです。私たちはまた、自身の内のこの神の生命が成長することをも祈ります。十字架のしるしをするとき、私たちは、私たちの人生すべてを、より一層神と調和したものとして生きることができるように―私たちがすることはすべて神の御名においてすることができるように―とも祈ります。
ですから、私たちはいつも丁寧に、集中して、敬虔な気持ちで十字架のしるしをすべきです。この行為が意味することすべてを考えたならば、急いでおざなりに十字を切ることはやめるべきです。
(続く)
[1] テルトゥリアヌス『兵士の花冠について』 30番
[2] エルサレムの聖キュリロス(チリロ)『教話』13, 36
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