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ミサを味わう(2)

第2回 「ミサとは何か」

「神の愛の記念、新しい契約であるミサ」

 ミサについて語る際、誰でも最後の晩餐の出来事について触れないわけにはいかないでしょう。なぜならミサで祝われる聖体の秘跡は、まさに最後の晩餐におけるキリストの命令に依拠しているからです。
「取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡される、私の体である。」「私の記念として行いなさい。」「飲みなさい。これは、あなたがたのために流される私の血。」「この杯は、多くの人の罪が赦されるように流される、私の血による新しい契約である。」 
イエスは、ご自身を人々の罪のゆるしのために捧げられる生贄として弟子たちに示されています。ミサにおける感謝の典礼で、私たちは、まさにこのキリストの奉献そのものに結ばれるのです。イエスは、他でもない、この私のために、この私が罪から解放され真の幸いに生きることができるようにと、ご自身を捧げてくださっているのです。

 よく考えてみてください。罪に弱く、無理解、無慈悲、無関心、不寛容なこの私のために、イエスは命を捧げてくれたのです。そして、そんな私が、もう罪と悪に留まらぬように、悲しみや不安、怒り、絶望に飲み込まれて死なないように、そして喜び、信頼、ゆるし、柔和、希望、永遠の命に生きられるように、父なる神は御子キリストを復活さられたのです。

 私たちは、この愛の御業を記念するために、それを伝え続けるためにミサを祝わねばならないのです。ここで聖書に出てくる記念と訳される言葉は、日本語のそれとニュアンスが違うことに注意が必要です。それは過去の出来事を単に思い起こすという意味合いを超えて、その出来事を現在の自分のものとする、という意味合いがあります。そのためミサにおいて、私たち一人ひとりが、自らを裂き与えられるキリストの愛の犠牲を自身のものとして実感すべきなのです。

 こうして、聖体と聖血の内にキリストが現存されるというカトリックの教理を決して無味乾燥なものとして鵜呑みにすべき理屈などでないことがお分かりいただけるでしょうか。聖櫃のうちに、主キリストは、いつも私たちと出会い、語らうために常に現存され待ち続けておられるのです。聖パウロはコリントの教会の人々に次のように語っています。「キリストは、私たちの過越の子羊として屠られた。・・・その祭りを祝おう」(1コリ5・7−8)。「私たちが祝福する祝福の杯はキリストの血との交わり、私たちの裂くパンはキリストの体との交わり。・・・生贄を食べる者はそれが捧げられた祭壇と交わる者になる」(1コリ10・16−18)。私たちのそこに真のキリストの血と肉、命そのもの、愛そのものを実感できていなければなりません。


またキリストの言葉の通り、ミサは神との新しい契約でもあります。キリストの血と肉を介した神と信じる民との契約です。ここで、かつて旧約の民が神との契約を交わした際に、罪のゆるしとして祭壇で捧げられた子羊を共に食べた出来事(出エジプト12章)を思い起こす必要があります。私たちはミサを祝うたびに、屠られた子羊キリストを拝領して、各自が罪と悪から離れ、主なる神にこそ付き従いますと言う約束、契約をおこなっているのです。

「天の国の祝宴」における「キリストとの交わりの体験」

かつて教皇ヨハネ・パウロ2世は、教会が祝う「典礼とは地上における天国の体験」だと語りました(1996年11月3日のお告げの祈り)。教会でミサ聖祭が捧げられる時、私たちはこの世にあって天の国の幸いを味わっているのです。確かに教会は、典礼は単に地上の礼拝だけでなく天上のそれでもあることを教えています(『典礼憲章』8章)。それは、たとえ聖堂の音響の調子が悪かったり、聖歌の歌い手が調子外れな声を出したり、子供の泣き声や他の信者の挙動が気になったりして集中を妨げられていたとしても、あるいは司祭の態度がぞんざいであったり説教がまるで心に響かないのをただじっと耐えているような状況にあったとしても、ミサは天国の体験なのです。


 事実、ミサの聖体拝領を始める際に、司祭は「神の子羊の食卓に招かれた人は幸い」と宣言します。これはヨハネの黙示録のクライマックスで宣言される「子羊の婚宴に招かれた者は幸いである!」(19章9節)という天使の言葉を司祭が参列者に向かって告げているのです。ミサを祝う時、地上のそれぞれの教会共同体は、時空を超越した天上の祝宴に一致しているのです。

 みなさんは、ミサのこの瞬間に自分が神の子イエス・キリストの「婚礼の食卓」すなわち婚宴に与る者とされているのに気づいているでしょうか。黙示録はここで「婚宴」という言葉を用いていますが、花嫁と花婿はいったい誰でしょうか?聖書のテキストをみると、花婿は屠られた子羊であるキリストだと分かるかもしれませんが、では花嫁は誰でしょうか?それはそこに招かれた神の民全体、私たち一人一人なのです。私たちは、この宣言の後、祭壇の前に聖別され裂かれたパンの形色のもとに現存するキリストと一つになる(communio)ために、聖体拝領の列を、まるでバージンロードを歩くように進むのです。その先に待っているのは私たちを愛してやまない主イエスご自身です。こうして私たちは、皆、神の子キリストと一致する幸いに与るのです。
 ミサが天国の体験であるというのはこれだけではありません。先ほどのヨハネの黙示録のテキスト全体が示している天上と地上の教会のビジョンは、ミサの諸要素と密接な関わりがあることに気づくでしょう。白い衣、祭服をつけた司祭(祭司)たち、神の民、祭壇、7つの燭台、香、巻物(聖書)・聖書朗読、聖杯、十字架の印、悔い改め、栄光の讃歌、アレルヤの歌、聖なるかな(感謝の讃歌)、アーメン、神の子羊(平和の讃歌)、聖マリア・天使と諸星人の取り次ぎ、沈黙、子羊の婚宴など。黙示録のテキストをよく読んで確認してみてください。

「神の民全体の業、愛の奉仕であるミサ」

 すでに述べたように、ミサは全ての神の民の祝宴です。地上に生きるキリスト者のみならず天上の諸聖人たちとも一緒に祝う壮大な宴です。私たちは皆キリストとの交わりのうちに一つになる(communio)ように招かれています。そのためにミサに集うキリスト者は、各人各様、自身の受けたカリスマ(信仰の恵み)のうちに互いに仕え合うこと、愛し合うことが求められています。そもそも典礼と訳される言葉リトゥルジア、レイトオルギアは、人々の務め、民の奉仕を意味します。ミサは、決して聖職者の独壇場としての儀式、信徒は良く分からずただ受け身の姿勢で与っていればそれでよい、典礼の奉仕もまるで他人事で済ませてよいというものではありません。ミサは神の民全員が共に祝う信仰の業の最たるものなのです。司祭も含めて全ての信者には、神様から呼ばれたそれぞれの役割があり、それを従前に果たすことで、愛のうちに互いに仕え合い、神の国の完成に向けて歩むよう招かれているのですが、ミサはその最たる場なのです。

「信仰の源泉であり頂点であるミサ」「キリストからの派遣」
 私たちキリスト信者は洗礼によって、上述したキリストの愛の奉献に結ばれて救いに導かれます。それゆえ、信仰の源泉ならびに教会のあらゆる救いの働きの原動力は、まさにミサ聖祭において示され与えられる神の愛の御業に依拠しています。上述した通り、信仰の目指す頂点、到達点、永遠の至福たる救いもまたこのミサ聖祭によって示され与えられているのです。ただそれらは、既に実行開始されてはいるものの未だに完全なものとしては達成されていないのです。

 そのため、教会は世の終わりまで共にいると約束されたキリストと宣教の使命に生きています。教会はまさに本性として宣教的な存在なのです。宣教とは、ただ単に教理を教え洗礼を授けるという乾いたイメージのものではなく、人々を神の愛の体験に導くこと、福音に生きる喜びへと招く美しい務め、信仰の熱意溢れる働きです。それは、ひいては罪と悪、不正、憎しみや争い、無理解を取り去り、いつくしみと愛、正義と真理、善、ゆるしと平和、相互理解へと人々を導き、世を聖化する神の働きの協力にほかなりません。まさにキリストは世の命のために来られたのです。

 しかし、その原動力は、決して人間の善良さや主義主張などであってはなりません。まして教会で「宣教月間」というポスターが掲げられて、思い出したかのように慌てて何かをすることでは決してありません。宣教は組織の計画や義務感からするものではないのです。本来、宣教とは、自然とほとばしる各人の信仰の表れにほかなりません。神がキリストを派遣されたその御心がキリストの弟子たちをも突き動かしたように、もし私たちが、ミサの中で示される壮大な神の愛に深い感動と感謝のうちに生きる真のキリスト者であるのなら、キリストの死と復活の神秘に結ばれた本物のキリスト者であるのなら、特別な企画によるまでもなく、信者の生き方のうちに自ずとキリストの愛の証が現れ出ることでしょう。ミサ(ラテン語:Missa)とは、信じる者が、主イエスに、出かけて行って私の福音を人々に述べ伝えなさい、福音の光でこの世を輝らしなさいと派遣されていること(ラテン語のミサの最後の言葉:ite missa est=行きなさい、派遣です)そのものを意味しているのです。


次回からは「ミサの開祭の儀」について扱います。第三回は「十字架のしるし」、第四回は「典礼における挨拶」です。


プロフィール

田中 昇(たなか のぼる)

田中昇神父のコピー

カトリック東京大司教区司祭
カトリック北町教会主任司祭、東京管区教会裁判所副法務代理

上智大学神学部・同大学院神学研究科、南山大学人文学部(在名古屋教皇庁認可神学部)、東京カトリック神学院にて教会法学の教鞭をとる

工学修士(応用化学)、教会法学修士、宗教法学会、アメリカ教会法学会(CLSA)会員

行政書士、終活アドバイザー、墓地管理士、火葬技術管理士1級、甲種危険物取扱者などの知識・経験をもとに、教会の現場において市民法、教会法双方の視点から信者の生活を支援する司牧活動に取り組んでいる

[主な著作]
R.E.ブラウン『ヨハネ共同体の神学とその史的変遷――イエスに愛された弟子の共同体の軌跡』(湯浅俊治監訳、2008年、教友社)
M.ヒーリー『カトリック聖書注解 マルコによる福音書』(湯浅俊治監訳、2014年、サンパウロ)
『カトリック教会における婚姻――司牧の課題と指針』(2017年、教友社)
L.サバレーゼ『解説・教会法 信仰を豊かに生きるために』(2018年、フリープレス)
『教会法神学論集 教会法から見直すカトリック生活』(2019年、教友社)
『カトリック教会の婚姻無効訴訟 ローマ控訴院の判例とその適用』(ダニエル・オロスコ、髙久充共訳、2020年、教友社)
『ミサ聖祭 聖書にもとづくことばと所作の意味』(エドワード・スリ、湯浅俊治共著、2020年、フリープレス)
『ゆるしの秘跡と内的法廷 免償を含む実践上の課題と指針』(2021年、教友社)
『2020年の教皇庁国際神学委員会文書における信仰の欠如と婚姻の無効』(2022年『南山神学』45号)


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