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ミサを味わう(16)

田中 昇(東京教区司祭)

第16回 「感謝の典礼」
交わりの儀(1)主の祈りと副文


主の祈り
 主の祈りは、福音書の中で唯一イエスによって明確に教えられ(マタ6:9-13; ルカ11:1-4)、幾世紀にもわたってミサの中で使われてきた祈りです。『ディダケー』によれば、初期キリスト者は、日に3回この祈りをささげていたようです。キリスト信者の中には、この祈りは、子供の頃から習った型にはまった祈りであり、また日曜日ごとに単純に繰り返す形式的な文言になっているという人もいるかもしれません。しかしそうであっても、当たり前のように何も考えずにこれを唱えてよいというものではありません。私たちが主の祈りをささげる前に、私たちがこうして御子キリストと同じ言葉で神に語りかけられるということが、いかにすばらしい特権をいただいていることなのかを心に留めるよう、主司式司祭は次のように注意を促します。

「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう。」

 この「つつしんで・・・唱えましょう」は原語audemus dicereの翻訳で、「畏れながらも、あえて言いましょう」という意味です。つまりこの招きは、御定まりの祈りを何にも考えずただ唱えればよいものなのではないことがわかります。
 「主の祈り」の最も顕著な側面は、いかに私たちに神を「父」と呼ばせているかということです。確かに、古代のユダヤ人たちは神をイスラエルの民の父と見なしていました。しかし、個人的なレベルでは、神を「父」と呼ぶことは全く一般的なことではありませんでした。それにもかかわらず、このことこそがまさに、イエスが私たちにそうするように呼びかけていることなのです。

 福音書の中で、イエスは自分の弟子たちにこの祈りを教えました(マタ6:9-13; ルカ11:1-4)。しかも、もしイエスが彼の母語であるアラマイ語を話していたとすれば、たぶん、父ということばには「アッバ Abba」という用語を宛てていたと考えられます。これは、「おとうちゃん、パパ」に似た親しみのある愛情のこもった言い方です(マコ14:36; ロマ8:15; ガラ4:4-6 参照)。これは、イエスの救いの業のおかげで、私たちが神との間に結んだ親密な関係を強調するものです。私たちがキリストに一致していることによって、神はまことに私たちの父となったのです。私たちは、「御ひとり子の内にある子ら」つまり「キリストの兄弟姉妹」となったのです。つまり私たちがイエスとともにあるのであれば、私たちもまた「これは私の愛する子」(マタ3:17)と呼んでいただく栄誉にあずかっているのです。このように神を父と呼ぶことは、本来人間にとってあまりに恐れ多いことなのです。それゆえ私たちは、恐れながらあえて(つつしんで)、そのようなことばで神に呼びかけるように招かれているのです。実は正教会の聖体礼儀における主の祈りへの招きのことば「主宰や、我等に、勇を以って、罪を獲ずして、敢えて爾、天の神・父を呼びて言うを賜え」もこれと同じ響きを持っています。罪深い被造物である私たちが神と結ぶこの関係の深遠さは、この祈りの冒頭の一行に表現されています。「天におられる」唯一の方、すなわち全能なる永遠の神が、まさに私たちの「おとうさん」なのです。

 この祈りにある「私たちの」という表現もまた意味深長です。それは、私たちに共通の天の父のおかげで、私たちが共有する深い一致を指し示しています。キリストに結ばれているすべての者は、彼においてまことに兄弟姉妹なのです。キリストのゆえに、イエスの父は私たちの父となったのであり、私たちは皆、神との契約による家族関係において父の子らなのです。皆のため、皆とともに祈るのです。

 主の祈りは伝統的に七つの祈願に区分されてきましたが、その最初の三つ(み名、み国、みこころ)は神に焦点が当てられ、最後の四つ(与えて下さい、ゆるして下さい、導いて下さい 、救って下さい)は私たちの必要に焦点が当てられています。

 み名が聖とされますように ―― 聖書において、神の名は神ご自身と関係付けられます(創32:28-29; 出3:14-15; イザ52:6)。この祈願は、神の名が崇められますように、つまり神の名が、神ご自身が聖なるものとして認識され、扱われるようにと祈っているのです。しかしそれは誰によって、どこにおいて実現されるように願っているのでしょうか。そもそも神が聖なる方であることは私たちの祈りとは関わりがありません。この祈りを通して、まず祈る者が生きる場で神の名が聖とされるように祈っているのです。つまり私たち皆が聖なる者となるように命じられている(レビ11:44)ように、私たちが、そしてこの世界が日々聖化されるように祈るのです。

 み国が来ますように ―― み国(神の国)とは字義的に神の支配、統治のことを意味します。預言者たちは、神がいかにイスラエルのために王国を建て直して下さるのか、また神ご自身がいかにあらゆる民を治めて下さるのかを前もって語りました(イザ40:9-11; 52:7-10; ゼカ14:9, 16-17)。この祈願は、イエスの到来とともに、すでにこの世において開始された神のいつくしみと愛による統治が、イエスを信じる私たち、ならびに世界中のすべての人の心の中で十全に受け入れられ、完成されるようにと祈っているのです。私たちは、自分達と無関係な仕方で神の国がどこからかやってくるのを期待するのではなく、私たちの生活そのものが、まさに神が支配されるその状態として実現されるように祈り求めるのです。

  みこころが天におこなわれるとおり、地にもおこなわれますように―― この祈願は、最初の二つの祈願に関連しています。天において、神のご意志(みこころ)は完全に遵従されていて、神の名は崇められ、神の統治はすべての天使や聖人に喜んで受け入れられています。そこで私たちは、天においてそうであるように地においても、私たちから始まってすべての者が神を礼拝し、神のご意志に従うように、神の愛を全ての人が生きるようにと祈るのです。これは神の国の実現と同義です。

 私たちの日ごとの糧(パン)を、今日もお与え下さい ―― 私達がこの世において神の国が実現するように働くためには、当然そのための糧が必要です。先に見たように、聖書においてパンは最も基本的な食料の一つであって、生命を維持するために不可欠なものであると見なされていました。ですから人々がパンについて語るとき、単なる食料としてそれを思い浮かべていたのではないものと思われます。それは一般的に、生命を維持するものの象徴でもありました。この祈願で「日々のパン」と言われているのは、私たちが日ごとに必要としているまさに根本的なもののことなのです。それは神の子として生きる私たちにとっての根源的な肉体的、精神的、霊的糧ともいえます。とりわけパンとは、荒れ野でイスラエルを支えるために与えられた「マナ」を彷彿とさせるものです(出16:16-22)。ラビ文学では、メシアが来られるとき再びマナの奇跡が実現されると期待されていましたが、実際にイエスは大勢の人々にパンを与えるという奇跡をおこなわれた際、ご自身が与えるパンとは、まさに天から降ったパンであり、それが世を生かす御自身の体、永遠の命の糧であることを宣言されました。それは単に食べて満腹するだけの物(ヨハ6:26)ではなく、イエスの教え、神の言葉(知恵)ならびにイエスご自身、真の命(秘跡的恩恵)であるのです(ヨハ6:35-58参照)。

 父なる神が、かつてイスラエルの人々が必要とした分だけの天のパンを各人にしっかりと与えられたように、イエスは、今日私たちが御心を生きるために必要な糧を必要なだけ与えて下さいます。「日々のパン」を求めるこの祈りは、究極的な意味においては、聖体拝領で分け与えられるキリストの命のパンを指し示していることから、この祈願には(ミサにおいては特に)聖体をほのめかすニュアンスも含まれていると言えるのです。

 私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします―― 神のご意志が私たちの間で果たされるためには、まず私たちの内にある神のご意志に反するおこない、罪をゆるしていただかなくてはなりません。それが出来るのは唯一神のご自身なのです。私たちは聖体を拝領する前に、神に罪の赦しを願います。罪は、神を信じないこと、知らないこと、愛さないこと、そのご意志を行わないことです。ですから、間もなく私たちの中に住まわれるイエスのために、信じる者それぞれがマリアのように聖櫃となるために、私たちを全面的に清めて下さるように願うのです。

 しかし、私たちが自らを傷つけた人々を赦さない限り、神のあわれみが私たちの心の奥に届くことはありません。[1]自分は自らの負い目をゆるして頂くよう神に願うのに、他者に対してはそれを拒絶するというのはまったく矛盾したことです。イエスは、私たちが他者に示したあわれみの大きさに従って、神は私たちをゆるして下さると教えました(マタ6:14-15; 18:23-35を参照)。また多くをゆるされた人は、それだけ豊かに他者をゆるすことができるでしょう(ルカ7:47参照)。

 さらに山上の説教の中で、イエスは、神を礼拝するために祭壇に近づく前に、兄弟が自分に罪を犯したのであれば、まずその兄弟と和解すべきだと教えました(マタ5:23-24参照)。同様に、聖体拝領をしようと祭壇に近づく前に、私たちは、自分たちに罪を犯した人々を赦し、兄弟たちと和解することをあえて求められているのです。


[1] 『カテキズム』2840項。

 私たちを誘惑におちいらせず―― この祈願は、「わたしたちを誘惑に導かないで下さい」と訳されてきましたが、近年、教皇フランシスコが指摘しヨーロッパ諸言語の典礼文が変更されたように、「神が誘惑に導く、陥らせるのではない」という理解から、より良い表現としては「私たちを誘惑に導かれるがままにせず」という方がより好ましいのかもしれません[2]。もちろん主は私たちに試練をあたえ鍛え清められます。つまりこの祈りは、人生の中で生じるあらゆる試練や悪事への誘惑を取り除いて下さいというものではありません。この聖書的表現は、誘惑に身を明け渡すという意味で、誘惑に導くことを神が私たちにお許しにならないようにとの願いを表現しています。これは私たちが、直面する誘惑に打ち勝つように、神が私たちを強めて下さいますようにという祈りなのです。教皇ベネディクト16世は、私たちがまるでこの祈願の中で神に向かって次のように言っているかのようだと教えました。

「私が浄められた者となるためには、試練が必要であることを私は知っています。もしあなたがこの試練を私の上に臨ませるのであれば、どうぞ私の力が限られたものであることを思い出して下さい。私にあまりに多くのものを任せないで下さい。私に与えられる誘惑の限界をあまりに広く引き伸ばさないで下さい。もしそれが私にとって多すぎるようでしたら、そばにいて、あなたの御手で私を守って下さい。」[3]

それはパウロが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試錬に遭わせることはなさらず、試錬とともに、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」(1コリ10:13)と言ったのと同じようにです。


[2] 日本語では「わたしたちを誘惑に陥らせず」と訳されていますが、ラテン語(英語もほぼ同義ですが)では「わたしたちを誘惑に導かないで下さい」と正確にギリシア語から訳されています。それゆえ日本語の主の祈りには出てこない「導く」という動詞がここで話題になっています。

[3] ヨゼフ・ラッツィンガー著、里野泰昭訳『ナザレのイエス』(春秋社、2008年)215ページ参照。

 悪からお救い下さい ―― この祈願を聖書的な観点から理解するとき、これが一般的な害悪あるいは不幸、不運からの救いを求めて祈っているのではないということが分かります。ここでの「悪」という表現は、聖書における「悪魔」であると説明されます。このことは、悪とは抽象的な何ものかではないことを私たちに想起させてくれます。それは、世界で起こる行き当たりばったりの「悪いこと」などではありません。この祈願において、悪とは、ある人格者、つまり神のみ心に背き、他者を自らに与(くみ)させて神に反逆するように導く力、堕天使であるサタンのことなのです。[4]

 それゆえ、この結びの祈願において、私たちは、御父がサタンから、またその偽りや仕業、罠から私たちを救って下さるようにと願うのです。私たちは、敵意や争い、ねたみ、そねみ、怒り、嘘偽り、そしり、利己心や怠惰、不和や仲間争い、貪欲や情欲、泥酔、無知蒙昧、偶像礼拝などに耽って悪魔に与する生き方で身を滅ぼしてはならないのです。そうではなく、私たちは神の命に招かれた光の子として、上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬という聖霊の賜物(イザ11:1-5)に支えられて、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という実(ガラ5:22)を結ぶように招かれているのです。


[4] 『カテキズム』2851-2854項。

神のもたらす平和

 「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、世界に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えられて、罪から解放され、すべての困難に打ち勝つことができますように。私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」

 これこそ、ミサの中で私たちの祈り求める「平和」であり、そのことがこれに続く祈願において明確にされていきます。司祭は、人間の状況を苦しめる二つのもの、すなわち私たちの平和を損なわせる罪と苦悩(困難)から私たちを解放してくれるように主に願います。神の掟は、私たちが幸福に至る道であり、それを破れば私たちの内に平和は失われてしまうのです。もし私たちが我欲、高慢、嫉妬、色欲あるいは貪欲に身を任せてしまうと、私たちは決して幸福ではなくなります。私たちは確信なく、落ち着きなく、さらなる支配力や他者からの注目、富あるいは快楽を探し求める一方で、すでに所有しているものを喪失するのではないかと絶えず心配しているのです。

 キリスト信者も、生活の中で、心から神の平和をかき消してしまうような恐れを経験することがあります。私たちは、職場や小教区の状況、あるいは家族の状況に心を悩ますことがあるかもしれません。将来を憂慮したり、あるいは苦難を恐れたりすることもあるかもしれません。重大な決断を下したことに不安を感じたり、経済状況や自分に対する他人の評価を心配したりするかもしれません。もちろん、キリスト信者は人としての自らの責任に気を配るべきです。しかし、心配事が私たちの心を支配し、その平和を失わせてしまうとき、それは何かが霊的に間違っているということのしるしなのです。そのようなとき私たちは、心底、神に信頼を寄せてはいないのです。

 ミサのこの時点で、司祭は、イエスが自ら与えようと思っている奥深い平和を私たちに味わわせないようにしているこうしたあらゆる心配事から私たちを解放して下さるようにと主に祈るのです。そして私たちが、この世の試練を経験しながらも、主がすべてを正されるその訪れの時を、確信をもって期待しながらこの祈りを唱えているのだということを司祭は指し示します。この希望を、感謝の祭儀は、使徒パウロのテトスへの手紙のことばを借り受けて次のように表現しています。「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」(テト2:13を参照)。

国と力と栄光は・・・
ここで会衆は、再び天上の天使たちのように神を賛美しながら司祭の祈りに答えます。

「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」。

 この祈りは、往々にしてプロテスタントの主の祈りの結びとして知られているものです。それは、イエスが私たちに実際に教えた祈りの一部(マタ6:9-13; ルカ11:1-4参照)ではありません。しかも、カトリックの典礼で唱えられる主の祈りに付属する祈りには含まれていませんでした。しかしこの祈りは聖書にその原形を持っていて、ミサのまさにこの瞬間こそが収まりのつく相応しい場所なのです。基本的に、この祈りは天上の礼拝(黙5:12; 19:1)に見られる同様の賛美の声を反映しています。しかも、ここで私たちがその礼拝のことばをもって祈るとき、私たちは最初期のキリスト信者たちが参加していたミサにともにあずかっているのです。というのも、この祈りのことばは、使徒たちの時代の後の最初の世代のキリスト信者たちが祝った聖体祭儀において用いられていた感謝の祈りから採られたものだからです。[5]

 その上、そのことば自体は、さらに一千年も遡る旧約聖書の時代のものなのです。それは、ダビデ王がその治世の終わりに神にささげた究極の賛美の祈りに由来し、息子ソロモンにその王座を譲る前に、王としてのダビデの最後の諸作を代表するもののひとつです。

「私たちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたは万物の頭として高みにおられます。」 (代上29:10-11)

  ダビデは、すべての王たちの中で最も名高い王でした。彼は権勢をほしいままにし、また栄光に満ちた君主であって、彼の王国は、イスラエルの歴史の中で幾度か訪れた絶頂期のうちのひとつをイスラエルにもたらしました。さらに、自らの治世の終わりに、ダビデは、自分が王であったときに手にした繁栄は、すべて神からいただいたものであると謙虚にも悟るのです。彼が手中に収めた力も光輝も王国も何ひとつ彼自身のものではなく、すべては神のものでした。ダビデは言います、「主よ、偉大さ、力、光輝はあなたのもの・・・・・・国もあなたのもの」であると。

 ミサのたびに、私たちはダビデ王のこのことばを繰り返しているのです。そうすることで、神を自分たちの命の主であると認め、私たちに授けてくれるあらゆる祝福のゆえに私たちは神を賛美するのです。私たちのどのような善行も、体験する成功も、究極的には神からの賜物です。つまり、「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」なのです。


[5] 『ディダケー』(12使徒の教訓)の10項を参照。

次回は第17回 「感謝の典礼」交わりの儀(2) 平和のあいさつ です。


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