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自分のこと徒然その4ー学生時代は音楽といびつな関係でしたー

 こんばんは。雨予報だった日に晴れると、ちょっと得したような気分になりません? きょうは、夫と中2になる里子Rちゃんと3人で、庭の雑草取りをしました。達成感~!

 さて、晴れて叔母のおうちにピアノレッスンに通うことから免れた私は、中学では軽音サークルに入った。水泳部にも入ってたんだけどね。2つ上の兄がすでに軽音サークルに入っていて、ベースギターを弾いていた。彼はロックにはまっていて、クイーンやらディープ・パープル、T-Rexやなんかをコピーしていたみたい。当時はまだ中学生でドラムをやる、って人は普通にはいなくて、エレキギターの友達と2人で組んでいた。どんなふうにやっていたんだか、正直あまり記憶にない。たぶんあまり興味もなかったのだと思う。

 ただそのせいで、「軽音サークル」自体には馴染みと憧れみたいなものがあり、兄の後を追うようにして、自然な流れで入部した。ロックよりはフォークへの関心が強かったので、アコースティックギターを手に入れて(あれは兄のものだったのかな)入門には「戦争を知らない子どもたち」、その後はしばらく井上陽水の曲を練習して、弾き語りなどするようになった。

 高度経済成長期に生まれた子ども達が詰め込まれたマンモス校の、グラウンドの片隅に建てられた「第3音楽室」が、我々に許された活動の場だった。そこで半期に一度くらい、身内しか来ない、しょぼいライブコンサートが開かれた。陽水の「心もよう」とか、「夢の中へ」とかを一所懸命練習して披露したのは、それなりに楽しい思い出だ。

 今思い返してみると、本当は音楽が好きだからこそ、完全にはそっぽを向くことができず、家庭のそれとは違った形、違ったスタイルで音楽とかかわろうとしたんだろうな。今だからわかるのだけど、あまりにも音楽が近すぎて、しかも特定のスタイルが絶対であるかのようにあてがわれていると感じていたので、音楽との向き合い方、付き合い方がわからなくて、引きながらも試行錯誤してたんだな、と思う。

 高校に入ってからも、相変わらず、音楽とはつかず離れずな感じで、うろうろしていた。1年生のクラスで仲良くなった友人たちの大半が、なぜかブラバン部員で、彼らに対して、何とも言い難いまぶしさ、近寄りがたさ、けれどひそかな憧れみたいなものを抱いていた。気づかないふりをしていたが、当時はいつも心のどこかに「私が音楽を求めない」、というよりは、「音楽が私を必要としない」、といったものさびしさ、ちくっと刺されるような痛みがあったように思う。私はというと、どういうわけか、流れでバスケ部に入ってしまった(1年も続かずにやめてしまったけれど)。

 日常的に、音楽好きな彼らと雑談をしていたり、一緒に音楽の授業を受けていたりすると、ある程度素性はバレる(笑)。1年生の終わりごろ、私が多少ピアノを弾けることを知っていた友人-中学生のころから曲を書いてたという少年ーが、「1年〇組お別れパーティー」でバンドをやる、というのでキーボードに誘ってきた。演目のひとつは、チューリップの「青春の影」。当時、私はチューリップの大ファンだったので、これは二つ返事で嬉々として引き受けた。ライブLPの音源を、それこそ擦り切れるほど何度も何度も聴き返して、完コピに近いくらい弾き込んだことを覚えている。

 「自分で曲を作ったけど、友達と共有できるように楽譜にしたい」と言う別の友達に、彼が自分でギターをかき鳴らしながら歌ったカセットテープの音源を渡され、耳コピで譜面に起こしてあげたこともあった。

 2年生の時にも、私が譜面を起こせることを聞き知った、更に別の友達がシカゴの大曲(曲名忘れた)をテープで渡してきて、これまた耳コピをして、学園祭のライブでサポートで弾いたこともあった。

 でも、いつも私は「私は別に、こういうのをやりたくてやってるわけじゃない、頼まれるし、まあできることだからやってあげてるだけ」と心の中で整理していた。自分が音楽を好きで、本当は音楽をやりたい、ということを自分自身が知らなかったのだ・・。

 そうしてまた、私のいわゆる「青春時代」は、音楽といびつな関係のままで過ぎて行くのであった・・・。

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