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サンパウロのトンビ 友達がスマホをひったくられた話

友人とふたり、バレンタインの夜に東京を出てソウルとアディスアベバを経由。地球を西回りにぐるっと飛んでサンパウロに着いたのは2月15日の夕方だった。時差を考慮するとざっくり2日半。長いようだが地球を半周したと思うと途端に、そんなもんでいいのか、という気になる。なかなか勢いよく飛んできた。思いのほか簡単に地球の裏側へついてしまった。

卒業旅行のはじまりにサンパウロを選んだのは、祖母の友人を頼りにしてのこと。遡ること50年あまり、彼女は政府の海外派遣プログラムにて世界を一周したのち、その中でもっとも性に合ったブラジルへ日本人の旦那さんと共に移住したそうだ。そこで家を構えて息子を育て、もうすぐ2歳となる孫もいる。いわゆる日系ブラジル人。どんな方だろうかと微かな緊張をもって家のチャイムを鳴らしたところ、出てきてくれたのは小柄で快活なおばあちゃんだった。心配性でおしゃべりで、たくさん私たちへ世話を焼いてくれた。

家は客を泊めることがはじめから計算されたつくりで、キッチンが2つにシャワーが3つ。トイレについてはもうわからない。豪邸と呼ぶにふさわしい家を案内してまわったあと、彼女は「ブラジルでこういう家に住めるのは一握りの人、運が良かったのよ」と複雑そうに笑った。その夜は、てんこ盛りの具が乗ったデリバリーピザをみんなで囲んだ。

翌日。

私と友人は現地では一般的だというネットでのタクシー配車サービスを使い、サンパウロの中心にあるセー教会へ向かった。ゴシック調とルネサンス様式の融合だそうだ。シャープな淡い緑色の屋根は、頂点の十字架を晴天に掲げてまぶしい。釣鐘型の窓や入口にたくさんの装飾が施されていて、なるほど、確かにゴシック調だと分かった気になる。南米のイメージはぼんやりと曖昧だったが、案外ヨーロッパに近いのかもしれない。

中に入ると礼拝の席は人々で埋まっており、神父と思しき人の声がスピーカーを通して流れていた。そう言えば今日は日曜日だ。大学生の曜日感覚はあやうい。警備のおじさんに止められないので、静かに端を歩いてみる。他にもいくらか観光客らしい人たちがいた。ミサはその独特の雰囲気を広い聖堂に充満させながら重々しく進む。終盤になったとみえ、パイプオルガンの音がやわらかな圧力をもって響き渡った。南米の強い日差しを受けたステンドグラスが色鮮やかに映えていた。

突如、隣にいた見知らぬおじさんに手を差し出される。ポルトガル語で何か言っているがわからない。物乞いだろうか。首を振って違う方を向いた。するとそのおじさんは、別の人にも手を差し出した。相手は朗らかな顔でその手を握りかえしている。なるほど、ミサの終わりに周りの人と握手をするのか。断ってしまって悪いことをした、という気になり、いま一度そのおじさんの方に向き直って、今度は私から手を出した。おじさんは、一層朗らかな笑顔で握手をしてくれた。

そして教会を出る。うだる暑さの下、広場には明らかに観光客ではない人たちがたくさんいた。着古した薄っぺらいTシャツのまま石畳に寝転ぶおじさん。帽子から靴まで真っ白に身を固めて、宗教の勧誘らしき声掛けをしているおじさん。朝から酔っているのか、へなり、へなり、と歩いてポルトガル語で話しかけてくる歯の欠けたおじさん。私と友人はその間を抜けながら広場の端へと歩いた。

陽気な緊張感が漂う。普段過ごしている街とは空気の質がまったく違う。そのことに恐れを覚えつつ、旅の醍醐味ともいうべき新鮮な感覚に高揚する自分もいた。

教会の裏を通って、市場が開かれているという東洋人街へ向かう。サンパウロは1900年代前半から新天地を求めた多くの日本人が移住した都市だ。私がテスト前夜のごとく出国直前に読みこんだ歴史書によると、彼、彼女らはこの地でコーヒーを中心とした農産業の一翼を担ったという。しかしなぜあえて地球のちょうど裏を選んだのかは載っていなかった。(これは後に20代の日系人に聞いても「たしかになんでだろう」という返事だった)

少し歩くと、交差点の向こうから赤提灯を模したと思しき街頭が連なるのが見える。なかなか目立つ。東洋人街は生活の場であると同時に観光地だ。日本より日本らしいとは妙なことだが、特徴的な物をことさらに取り上げた街づくりは日本の凡なる街頭のもと育った私にそこはかとない歯痒さを残す。しかし草分けが独自の発展を遂げるのは生命幾億年の理。ブラジルに渡った日本のあれこれが100年余りを経ていかに息づいているのか、楽しみに思いつつ交差点を渡ろうとした。そのとき。

私の15㎝となりを自転車が走り、びゅん、と風を感じた。反射的に身をすくめながら前を見ると、先に歩いていた友人の手からiPhoneが奪い上げられている。私たちは状況を飲み込まぬまま、本能的に叫んだ。浜辺で人のおにぎりを奪うトンビのごとく、ひったくりは走り去る。その自転車が見るからに速そうなスポーツタイプだったことが、なお恨めしい。そしてひと息分を叫ぶ間に、ひったくり見えなくなった。為す術もなく、私たちは立ちすくむ。通行人が手のひらを下に向けて「落ち着いて、落ち着いて」とジェスチャーしていた。

それからその場で、このあと何をしたらいいのか考える。怪我はないか。他に取られたものはないか。とりあえず大丈夫そうだ。とにかく連動させているクレジットカードを止めねば。そのためには私のiPhoneをインターネットに繋がねば。私たちはカフェを探して歩き出した。東洋人街に入ると人が増え、今度はスリに遭うのではないかと肝を冷やす。自分の斜めがけ鞄を手で押さえて屋台が密集する市場を抜けた。最初に入ったカフェは、カウンター越しに聞くとWi-Fiは無いとの返事。もしや、どこもそうなのだろうか。滞在する家まで帰るとなると、1時間近くかかる。不正利用するには十分な時間だ。落ち着いてきた心に今度は焦りが走る。

そうしてしばらく歩きまわると、道の反対側に見慣れた看板、赤い背景にMのマークが見えた。マクドナルドだ。ここならきっとインターネットに繋げる。入ってみると案の定、カウンターで聞くまでもなく私のiPhoneがWi-Fiを見つけ出した。

ここがどれだけ新天地に見えようと、結局こうして頼るのは馴染んだチェーン店。そして自分の体がどこにあろうと、困ったときに駆け込むのはインターネット空間。現代人たる自分に新天地など、もはやないのかもしれないと思った。

こうしてマックで特大ジンジャーエールを飲みながら、諸々の手続きを済ます。カードを止めて、iPhone自体もロックした。ひと段落。そして、ふと思う。人はこんなにも躊躇なく他人の所有物を奪えるものなのかと。

のちにこの日は70件以上の盗難届が出されたと聞いた。手慣れとみえて、被害者には観光客のみならず現地在住者もいたそうだ。普段よりも多いのは、在住者いわく、カーニバルの直前ゆえ手持ちの金がいつも以上に欲しかったのではないかとのこと。さらわれたスマートフォンは専門の取引人に買い取られるというから、即日で金になるのだろう。ひとつのビジネスとして組織化されている。

しかし彼らはその金でいったい何を買うのだろう。酒や食事だろうか。ドラッグだろうか。彼らはその心に一点のくもりもなくカーニバルを楽しめているのだろうか。どんな身の上で何を考えているのか全く分からない。その問いに対する答えの見つけ方さえ、私は想像することができなかった。

配車アプリを使ってタクシーを呼び、滞在している家に戻る。ふかふかとした座席に体を沈めても、頭は緊張状態を脱せずにいた。これがアドレナリンというやつか。いつも通りの体にいつもの1.2倍の心が入っているような、密度の高い自分を感じた。

あとで知ったことだが、セー教会の裏は現地在住者でも好んで近づきはしない治安の悪い区域だった。泊めてくれている家族へもっと相談していれば、と思ってもあとの祭り。この洗礼は、己が危機管理への警告として真摯に受け取らねばならない。私たち自身に怪我のなかったことだけは不幸中の幸いだ。

サンパウロ。分からない事ばかりのこの街は、地球の裏から飛んできた私たちに鮮烈な歓迎をくれた。何を受け取って帰ろうか。あと5日しかない滞在。知るにはあまりに短い。しかしこの緊張感で過ごすには長すぎる気もした。このスタートから楽しかったと言える出国はなかなか描けなかった。

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