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はじめに

はじめに

幼い頃、自分は源義経が好きだった。
弁慶のような自分よりタッパのある大男を従えて、当時の世の中を支配していた平家を軽々と破って、フリーランスの武士として活動した後、兄との仲違いが発端になり最後は自害する。
ビートルズと変わらないくらいの活動期間で後の史実に名を残し、そのジェンダーレスなソウルフルぶりはさながらプリンス。The SAMURAI formerly known as YOSHITUNE。

だから自分は義経の役がやりたかったのに、当時の担任の先生からは、"マサト"を頼めるのはお前しかいないと、メモ用紙に書いて出した第一希望を押し切られてしまった。
自分がこの世に生まれてビートルズとほぼ同じくらい活動した年のことだから、わずか8歳、小学四年生の時だ。

この頃自分の小学校では"生活参観"と名打たれた演劇会を一年に一度披露する祭典があった。
保護者を集めて教師が用意した脚本の元、生徒に各々演技をやらせるのだ。
小学四年生の時の担任の中野先生が元にした脚本は、手塚治虫の「火の鳥」だった。

その血を飲むと永遠の命を手に入れられるという噂の"鳥"を、日本では邪馬台国の時代から遥か未来に至るまで人々が手に入れるために争うという筋書きである。
もちろん、卑弥呼も、義経も、その火の鳥を手に入れることはできないが、唯一火の鳥の血を飲むことができた人類がいる。それが「マサト」だ。

-"未来編"の主人公マサトは、人類が核戦争を起こして死滅してしまい、火の鳥に「人類の歴史を再生させる使命を持つ者」として選ばれ、完全な不老不死となる。
死滅した人類を再生しようとするがすべて失敗に終わり、自殺することもできないまま何万年もの孤独に苛まれながら生き続けていた。
なんとその間、約30億年。しかし、火の鳥の力をもってしてもその時間はあまりに長すぎた。マサトの身体は完全に朽ち果て、いつしか彼は霊魂だけの存在、創造物から神と称される存在となっていた-

つまり自分は8歳の頃に神になったことがある。

だが、そんなことどうでもいい。
"死ねない辛さ"を初めて味わったのも同時に8歳だったのだ。

演技をするのに、中野先生から入った指導は如何に上手く手首を切るフリをできるか。
自分はたった1人で舞台上で何度も何度も手首を切り、「どうして死ねないんだ!!」と大勢の保護者の前で痛烈に叫んだ後、クラスメイトが一斉にわぁとでてきて、終演のテーマソングであるMr.Childrenのヨーイドンを歌う。(もちろん中野先生の選曲だ)

自分はこのとき、本当は源義経をやりたかったのに「お前のことを想像してこの脚本を書いた」とまで言われたマサト役に"大抜擢"されて、挙げ句の果てに"死ねない辛さ"を心の底から演じるハメになった。
だけどもしかしたら、この時中野先生は直感していたのかもしれない。お前こそ永遠の命を授かる資格はないと。

もちろん、27clubの説明はするまでもない。
才能のある人間がこぞって朽ちる年齢が27歳ということである。そして残念ながら自分は1996年の2月生まれであり、つまり、今年27歳になってしまったのだ。

やっぱり死ねない。それどころか阿佐ヶ谷にも高円寺にも住めない。渋谷にも新宿にも住みたくない。
市谷なんてほとんど訪れないし、代々木上原と幡ヶ谷の間なんて吐き気のするほどである。
井の頭線沿いにこれはかとない偏見を得て、小田急線にはなるべく乗りたくない。二子玉川や恵比寿は嫌いじゃないが遠い。距離というより精神的なアレが。ドラマ版IWGPは面白いけど、なるべく近づかないでいたい。

自分が27歳になる直前にしたことと言えば、車の免許をとったことぐらいである。(伊丹十三はこの頃既にニコラス・レイの映画に出てヨーロッパ退屈日記を書いているというのに!)

初めてしっかり取り組んだラップのバースでは、自分は「俺はビルエヴァンス 51歳で死ぬ」と唄ったことがある。この勢いであれば51歳は愚か、73歳まで生きてしまいそうだ。

人が「自分は27歳では死ねない」と気づいた時の驚愕さたるや想像を絶する!
誰もが才能ある由緒正しい"27club"に入って、何かを遺し、火の鳥の血を呑んで"永遠の命"を手にできると思っている。
遺したい、遺したくない、に関わらず、27歳で死ねるような人々は、否が応でもこの世に何かを遺さざるを得ない。そして「マサト」にならざるを得ない。
だが、お前らはそのためになにか偉大な努力はしたか?
本ばかり読んで、音楽ばかり聴いて、映画ばかりみて、服ばかり漁って、絵画や写真や美術品ばかり見てまわって、お笑いにばかり夢中になって、人のふんどしを履いて何もかも理解った気になって、世の中をわたっていないか?

少なくとも自分はそうである。
自分はそんな人間である。
永遠の命を得るために、なにか偉大な努力などしたくない。どうしてもしたくない。どれだけ大事なことだろうと絶対にしたくない。
偉大でなくとも、なるべく努力せずに生きたい。
他人の評価に晒されるような努力などせずに生きたい。
日銭のための努力などせずに生きたい。
キツい香水のお姉さんを振り向かせる努力などせずに生きたい。
その他、有象無象のための努力などせずに生きたい。
手首を切っても死ねない主人公の"大役"はもうごめんだ。
「死ぬことを怖がりすぎると、死にたくなる」とは、ソナチネの北野武演じる村川の言葉である。

そういった理由で、この健康優良青年は残念ながら火の鳥の血を呑むことが出来ないのだ。代わりにモンスターばかり呑んで虫歯が3つ出来て、気づけば三十路になってしまった。

だけれど、たまに思いついたように、誰の目にも触れられない場所で、こんなテーマのエッセイを書いてみてもいいかなと思い始めた今日この頃である。

27歳で死ねない奴らのエッセイ。細やかながら28歳以降の人生の糧や反省や憤りの原因や踏ん張りの源になりそうでならないエッセイ。
- 27年間も人間業を営みどうやらこの先もまだまだ退職出来そうにない自分がこの職業の中で気付いてきた『世の中の"あるある"』も自分みたいな大器晩成型(ちくちく言葉)のごく個人的で私小説的な"あるある"も実はiphoneのメモにかなり溜まっている。-

何かを遺したくなったのではない。
良い映画も、逆に最悪な映画も、何日経ってもたまにそのシーンを思い出してしまうものだ。
そして感想をFilmarksに投稿するだけでは飽き足らずに、どうしても友人に話したくなってしまうものだ。

27歳で死ぬ気だったが死ねなかった全ての人々へ。
或いは、27歳で死ぬつもりだが27clubのワークショップ兼面接に今のところことごとく落ちてしまう人々の”諦め”や”怠惰”や”喜び”や”苦悩”を少しでも延命すべく、この”あるある”を徒然なるまま書き綴ろう。


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