軽さと重さ

 ミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』を一昨日から読み返している。クンデラの名を初めて知ったのは、三年ほど前、大学二年生の前期にとっていた講義で参考文献として挙げられていた『西洋政治思想史講義 精神史的考察』(小野紀明)の終章(「「存在」の耐えられない軽さ?」)を読んだときである。そこでは、『存在の耐えられない軽さ』の登場人物について、サビナが軽さに、テレザとトマーシュが重さに振り分けられている。軽さを選んだサビナのみが、「俗悪なもの(キッチュ)」、すなわち全体主義を拒否する「強さ」を持ち得たのだとされる。「存在」への郷愁(重さ)を抱きつづけたトマーシュは、彼自身の人生もその犠牲となったはずの全体主義を克服しきることはできなかった。なぜなら、「存在」の軽さは「耐えられない」ものだから。
 この解釈に強く規定されたまま、クンデラの小説を、『存在の耐えられない軽さ』、『笑いと忘却の書』、『不滅』、『冗談』の順に読んできた。それぞれ拾い読み程度の再読はしているものの、断片的な印象が残っているだけで細部はかなり忘れてしまった。しかし、その間に、勝手な理解だけは積み上がった。ひと月ほど前、クンデラを引用して少し喋ったときに、全体主義的な共同体(例えば、『冗談』でルドヴィークが追放された「学生同盟」)は、冗談すら許されない、重いものなのだと言った。昨今の閉塞感に溢れ、重くなりがちな日々に、軽さを取り戻そうとして、クンデラを引用した。しかし、数日前、たまたま友人が『笑いと忘却の書』を最近読んだという話をしたので、久々に同書を読み返してみると、そんな理解でいいのかと強い疑念が湧いてきた。初めて読んだときは、上記の図式のままとくに疑問に思うこともなく読み終えてしまったのだが、再び読んでみると、よく分からなくなってしまった。

 記憶、〈歴史〉は人の生を重くする。タミナは、夫の記憶の重みを荷っている。対して、記憶のない子供たちは軽い。タミナが向かった子供の島では、事物が重みをもたない。「彼女はとうとう、できたら行ってみたいと思っていたところにいるのだ。思い出のなかにも欲望のなかにも夫が存在せず、重みも後悔もない時間という、はるか後方の時間のなかに戻ったのだから」(第六部15)。
 記憶のない世界の建設者、「忘却の大統領」、グスタフ・フサークは、歴史家を迫害した。国民から記憶を、国家から〈歴史〉を奪おうとした。フサークの国も軽い。
 無垢な牧歌、天使たちの輪、ガブリエルとミシェルとラファエル夫人の笑いの輪も軽い。それは、足が床から離れて天上まで飛翔してゆけるほどである。以前、「私」がそのなかで踊ったことのある学生たちの輪。若者たちとエリュアチュールの輪。これらの輪も天使たちの輪であり軽い。
 では、〈歴史〉を書き直したいと望んだミレックはどうか。ミレックは、ついに手紙を捨てることができず、〈歴史〉を書き直すことはできなかった。むしろ監獄に入ることで、「ゴットワルトの頭のうえに残されたクレメンティスのトック帽」のように、忘却を免れた。他方、息子たちと対立することでなんとか境界を踏み越えようとするのを止めて、自分の領地に引きこもってしまったお母さんは、〈歴史〉を書き直すことができた。詩を朗読したのは、第一次大戦後のチェコ=スロヴァキア独立を祝福する中高等学校の行事の際にではなく、単なるクリスマス休暇前の学園祭においてであったことを思い出していながら、お母さんは易々と記憶を書き直した。それはお母さんが、子供に戻っていたからだ。子供に戻ったお母さんは、風に吹かれれば吹き飛んでしまうほど軽い。そして、お母さんの物の見方を獲得したカレルも、四歳児になった。
 第三部4(二つの笑いについて)で、クンデラは、笑いには「天使の笑い」と「悪魔の笑い」の二つの笑いがあるという。

笑いはもともと悪魔の領分なのだ。笑いにはどこか邪悪なところがある(物事が突然、これまでそうと思われていたのとは違っていたことが判明する)が、しかしそこには恵みのように、ひとをほっとさせる部分もある(物事はそう見えていたよりずっと軽く、私たちを自由に生きさせ、厳めしい真面目さで私たちを息苦しくさせるのをやめる)。

 この悪魔の笑いを初めて聞いた天使は、「驚愕のあまり呆然自失した」。天使は、その笑いが強い伝染性を持つもので、神の摂理を犯してしまうものだとはっきり理解していたが、「自分ではなにも考え出せなかったので、敵の猿真似をした」。

つまり、悪魔の笑いは物事の不条理を意味するのにたいし、天使は逆に、この世は万事がきちんと整序され、賢明に構想され、善良で意味に満ちていることを喜びたかったというわけだった。……今日では、同じひとつの外面の表現が、まったく正反対のふたつの内面の態度を覆い隠している。ふたつの笑いがあるのに、それを区別する言葉がないのである。

 悪魔の笑いは、世界に軽さをもたらすものであるのに対し、天使の笑いは、世界に重さを取り戻す。
 天使たちの笑い、「真面目な笑い、「冗談を越えた」笑い」、ミシェルとガブリエルの笑い。若者たちとエリュアールの輪のなかの笑い。「私」もかつて踊っていた学生たちの輪のなかの笑い。「それからある日、私は言ってはならないことを口にして、党から除名され、輪のそとに出なければならなくなった」(第三部6)。
 『冗談』で、ルドヴィークは、恋人に送った絵葉書に書きつけていた冗談によって、党を除名され、勤労奉仕に就かされた。その冗談は、堕天使の笑いだったのだろう。
 天使たちの笑い、子供たちの笑いは、軽いのか重いのか。

 第七部でのタイトルでもある「境界」の主題は、第四部「失われた手紙」9での「記述マニア(本を書きたいというやむにやまれぬ欲望)」と関係し、この小説のなかで「笑い」と「忘却」の両輪を繋ぐ軸をなしていると思われる。作中で性交を行う男女は、ことごとく皆すれ違っている。男女の間には境界がある。愛は境界を取り去る。したがって、ペトラルカはボッカッチョの笑いを断罪する。「笑いは私たちを世界から引き離し、私たちを冷たい孤独のなかに投げ出してしまう。冗談こそ、人間と世界のあいだの障壁なのです」(第五部)。この笑いは、無論悪魔の笑いだろう。大学生とクリスティナの性交中は、寝床の上を天使が舞っていた。
 「記述マニア」や、タミナの駝鳥の夢は、男女に限らず、あらゆる人間の間には越しえない境界があることを示している。それでは、記述マニアや駝鳥の騒々しさと対照的な、タミナが聴いた二度の沈黙、「目の前からあらゆる言葉が逃れ去ってゆく私の父親の沈黙、思い出すことを禁じられた百四十五人の歴史家たちの沈黙、ボヘミアに響くそうした沈黙」とは何なのか。

 笑いと忘却では、軽さと重さが逆になっている? 
 小野の図式では、全体主義が重いのに対して、嫌悪するサビナは軽い。しかし、タミナが、軽さの耐えられなさを感じたのは、子供の島でだった。

ギターが愚かしく鳴り響き、子供たちが踊っている。彼らはコケティッシュに腹を前に突き出している。彼女は重みのない事物から発してくる不快感を感じた。胃のなかのこの空っぽこそまさしく、あの耐えがたい重力の不在なのだ。ひとつの極端があらゆるときにその逆のものに変じてしまうことがあるように、最大限まで高められた軽さは恐るべき軽さの重力になった(第六部26)。

 子供たちの描写から、この子供の島は、現代の消費社会の寓話なのである、著者の現代文明批判なのだ、小野がいうように、ポストモダンの地平における人間の存在条件である、云々……と読むこともできるだろうが、退屈だと思う。
 第三部7での、「彼女はふふんと笑った」という笑い。この笑いは間違いなく、重苦しい体制に抵抗するサビナ的な笑い、軽さをもたらしてくれる笑いである。しかも、その笑いは、天使たちの重い眼差しによって封じられてしまう。この場面は、先の図式にうまく嵌まる。子供の島とは異なるのだろうか。
 最後に、先に引用した段落のすぐ前の記述を引く。

だれでも知っているように、天使たちと悪霊たちがこの世の支配を分かちあっている。しかし、この世に善があるからといって、(子供のころの私が信じていたように)天使たちが悪魔たちにたいして優位に立っていることにはならない。そうではなく、両者の力が拮抗しているのである。もしこの世に文句のつけようのない意味(天使たちの権力)がありあまっているのなら、人間はその重みで圧しつぶされる。もしこの世がいっさいの意味を失うなら(悪霊たちの天下)、ひとはやはり生きられない(第三部4)。


 本当に長かった長期休暇がとうとう明けてしまう。それまでにやるべき事がたくさん残っていたのに、なぜか徹夜してこのnoteを書いてしまった。本来ならば、もっと煮詰めてから投稿した方が良いのだろうが、いったん忘却してしまうために、ひとまずこれで。