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ここ一年くらいの出来事
昨年夏に、父が亡くなった。
父はもう長い事患っており、まともに会話をしたのは10年くらい前のことだと思う。そこから10年、私にとって、父はいないも同然だった。
しかし、いざ危篤の知らせをうけ、急いで施設に向かい、目の前で亡くなる姿を見て、やはりショックだった。
葬儀の準備が進んだり、通夜の時に父の顔を眺めたり、火葬場で最後のお別れをしたり、骨を拾ったり。
そんなことを通して、死というものを受け入れたような、受け入れられていないような、そんな不思議な心持ちで、一年と少し、過ごしてきた。
四九日法要の時、お坊さんは「3年くらいは、まだ寂しく感じるかもしれない」と仰った。
確かに、月日が経つにつれて、父の死を受け入れつつあるような気もしている。
ただ、父が旅立ったということは、自分にとって大きなことであり、それ以前の自分にはもう戻れないのだと思う。それが受け入れるということなのだろうか。
父の遺したたくさんの作品、写真、本、色々を見て涙を流すことも少なくなった。ただただ思うのは、人生はすごく短い、ということ。
自分に与えられた時間は有限で、他の人にとってもそれは同じ。
限られた時間を、お互いに与え合う。
限られた時間の中、そばにいてくれること。
そのことが、とてもありがたいことだと。
そんな心持ちになった。
今年は、ピアノの発表会があった。
ちょうど父の一周忌にあたる時期だったので、
ショパンのソナタの2番を弾こうか、と考えていた。
2番のソナタは、葬送行進曲付きで、ショパンの死についての意識が表現されている、と感じたから。
でも、なんだかしっくりこなかった。
しっくり来たのは、むしろ同じくショパンのソナタの3番の方。
ショパン自身が父親を亡くし、気落ちしていた後に作曲したという。
なんだかとても、自分自身に重ね、この曲を選んだのだった。
何かの曲に真剣に取り組むとき、そこには何かしらの気づきが生まれる。
ソナタ3番との歩みは、私の中で予想外の方向へと進んだ。
私は、親との葛藤、支配の中で苦しんでいて、そこからの脱却を図ろうとしていたようだった。
この曲を練習するのと並行して、臨床催眠講座を受講し、仲間たちと催眠の練習をしていた。次々と色々なことが変化していき、一年前には思いもよらなかったところへ、今来ている。
それは、ソナタ3番が重々しく始まり、慟哭の中で、本来の自分を発見し、その自分と統合していくような、そんな変化だった。
私の勝手な解釈かもしれないが、自分の中で曲の解釈が腑に落ちた時、とんでもない喜びが生まれた。
もっと伝わるように表現したいし、
もっと上手くなりたい。
自分の中の欲が、喜びへと変化していった。
今の私の中にあるのは、
ピアノを弾ける喜びと、それを見守ってくれる人がいる喜び。
もしかして、
あれほど渇望していたものが、
今、実は手の中にあるのかもしれない。
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