私の6年間のこと
大学を卒業してから、今年の3月末までの6年間、重度重複障害の人の地域生活支援に、グループホームの支援員の立場から尽力してきた。
4月からはフィールドが変わるため、この6年間を私なりにまとめておきたいと思う。
どうまとめようか考えたが、グループホーム以外にもそれなりにいろいろな活動をしてきたので、「私の考えに影響を与えてくれた人(組織)との出会い」との観点で、6年間を総括してみようと思う。
①湯浅誠さんとの出会い
湯浅さんとは法政大学で出会い、新宿歌舞伎町の居酒屋で初めてお話をさせていただいた。
湯浅誠さんのことは、検索すればプロフィールがすぐに出てくるので、細かな紹介は割愛させていただくが、日本の貧困問題の第一人者で、当時の菅直人首相に呼ばれ内閣府参与などをやられていた方だ。いまは「全国こども食堂支援センターむすびえ」理事長、東京大学教授、社会活動家、といった肩書で活動されていることと思う。
当時湯浅さんは法政大学で教授をされており、私は卒業後もちょこちょこ大学に顔を出していたので、お話をさせていただく機会に恵まれた。
湯浅さんの考え方、立ち振る舞いすべてが私に非常に大きな影響を与えてくれた。
少し文書を引用させていただく。
内閣府参与の3年間、政策をつくり、予算を獲得したが、できたことはやりたいことの1~2割だった。私には、様々な人たちの様々な懸念を解消する力が足りなかった。ともすると、それを「無理解」で片づけるフシがあった。
「日本に貧困はない」と言われてカッとなったときに比べれば、状況は好転していた。
しかしそれでも、理解を得るためにはまだもっと遠くに言葉を届かせなければならなかった。
私はその言葉を持っていなかった。
仲間内から飛び出す必要がある、と痛感した。
参与を辞めた2012年からの3年間、私がもっとも力を注いだのが異業種交流だった。
苦手なところにこそ出向いて行った。
気後れする人とこそ積極的に会うようにした。
「新しい服に袖を通すように」とある人はアドバイスしてくれた。着たことのない服を身にまとうように、馴染みのない関係や考え方に自分をくぐらせ、より多くの視点を身に付け、自分の視点を多角化する。
ある政治家は、私に「大企業の社長も一票、たばこ屋のおばちゃんも一票」と言った。政治家はそこをくぐり、より多くの人に届く言葉を身に付けていっている。
政治家でなくても、世の中に働きかけようと思うなら、そうしたどぶ板的態度が必要だと思った。それは政治家特有のものであってはいけない。民主主義社会におけるすべての主権者のあり方だろう、と。
すべての立場の人たちに関心を持ち、そこからの世の中の見え方を尊重し、「ある視角」として自分の中に位置づける。それを一生積み重ねていけば、私は自分の中にあらゆる視角をもち、真に多角的な検討をできる人間になる。
「信じられない」「理解できない」と切り捨てることの真逆をいくこと、ホームレスから総理大臣まで等しく付き合うこと、「理解できない」という反応に出会った時こそ自分の視野を広げるチャンスだと思うこと。
それが私の信条となった。
(東大校友会ニュース「行動する卒業生たち」より抜粋)
私は2018年ころからグループホームの責任者になったが、仕事をする上で、湯浅さんの考え方を意識してきた。
障害当事者と話すとき、その家族と話すとき、部下や上司、行政や関係機関など、いろいろな立場の人と話をして、コンセンサスをいかに形成できるか。どんな言葉を使えば相手の心に届くのか。成果はわからないながらも、「違う意見の人に出会った時こそ、合意形成の腕が試される場面」と思ってやってきたつもりだ。
特に法人の経営層と話をするときは、経営層の「共通言語」はやはり数字なのだと痛感した。それに対し私を初め現場の「共通言語」は利用者の命の重さであり、職員の生活である。経営層と現場の「共通言語」をいかに近づけられるか。ここには私なりに頭を使ってきた。
これからも、いろいろな考えの人と話をし、議論をして、いろいろな言葉を身に付けたい。
いろいろな人に届く言葉で発信ができるようになるために。
②社会福祉法人善光会さんとの出会い
善光会には、私含め3名で運営をしている「法政大学現代福祉学部卒業生ネットワークきいち」というコミュニティのフィールドワーク企画でお邪魔をさせていただいた。
善光会のことも、検索すれば立派なホームページが見られるので、紹介は割愛する。
また、上阪徹「介護の未来をどうするか?日本破綻を生き抜く介護論」(実業之日本社2017年)に創立までの経緯が詳しく書かれている。
最近「スマート介護士」という民間資格をつくったことでも話題になっている法人である。
見学にお邪魔したとき、宮本さん(当時最高執行責任者)と松村さん(当時施設長)という方が案内をしてくださった。まず衝撃を受けたのは、2人ともとても若く(たぶん30歳前後)イケメンだったこと。お二人のようなスマートな印象を与える人が運営をしているというだけで、福祉のイメージアップにつながると思った。年功序列ではなくその人の能力を見てくれる組織、という印象をもった。
私は6年間障害者福祉の現場で仕事をして、また「きいち」の活動を通じて、福祉業界の最大の問題は何かと考えたときに、「人手不足」だと思っている。
人手不足の問題を1ミリでも改善するためにはどうしたらいいか。ここは私の一つのライフワークにしたいと思っている。
福祉の現場に顔を出すと、ほぼどこの事業所に行っても「人が足りない」と言う。
しかしそれは、本当か。
善光会では、職員が施設内をセグウェイで移動していた。職員全員がスマホをもち、記録や見守りなどあらゆることが手元でできていた。膀胱に尿が溜まればアラームが鳴り、無駄なトイレ誘導に時間をかけない仕組みがあった。介護ロボット、最新のテクノロジーを開発し、取り入れていた。
機械化に対し、いろいろな意見があるのはわかっている。
しかし、人手不足の問題はなんとかしなければならない。
そこに対し現場は、できる工夫をすべてやったのか。これは自らに問わなければいけない。「人がいないのは法人の人事が無能だからだ」などと人のせいにしていても仕方がない。
私が善光会から最も影響を受けたのは、「オペレーションの効率化」の考え方だ。
職場に帰り、業務フローを一から作り直した。30分おきにやるべき業務を可視化し、効率化の余地がないか検討した。
一番意識したのは、「過剰なサービス提供の是正」だ。福祉の人は優しく熱心な人が多いと思う。しかし「利用者のために」を大義名分に、やりすぎたサービスを行い、周囲にもそれを求め、結果「人が足りない」「忙しすぎる」などというのではいけない。
職員にはいろんなモチベーションの人がいる。「意識高い系」の人がいれば、「冷めている」人もいる。誰もが「業務」としてほどよくこなせる良いバランスの業務オペレーションを構築することが大切だろうと思う。
繰り返しになるが、私は福祉の人手不足の問題を1ミリでも改善したいと思うし、微力ながらできるアクションをしていきたいと思っている。
それを考えるとき、今の福祉をつくってきた先人たちの思いを大切に踏まえながら、最新のテクノロジーを積極的に導入していく必要があると思う。
こういった発想、問題意識は、善光会と出会えなかったら持てなかったと思う。
③Sさんとの出会い
Sさんは、私が勤めるグループホームの入居者だった。
だったというのは、退去され、その後病院で亡くなったからだ。
Sさんは幼いころ交通事故にあい、重度の身体、知的障害者となった。車椅子を使い、座位保持ができない方だった。
石原裕次郎が大好きで、音楽をかけると、いつも笑顔になってくれた。
心優しい方で、排泄介助のとき、便がゆるく、ふき取りに手間取っていると、「ありがとう」と何度も何度も言ってくれた。そんなこと言わないでいいんですよと、Sさんの前で泣いたのは忘れられない。
Sさんも50代後半になり、体力低下が見られはじめ、食事などでむせることが増えた。
グループホームには看護師がいない。介護士だけで支援をするリスクが高くなっていた。
そんなときSさんが誤嚥性肺炎の疑いで救急搬送された。命に別状はなかったが、夜間含め常時淡の吸引ができる環境が必要と医師に言われた。
淡の吸引は近年研修を修了すれば介護士でも実施可能との制度に変わったが、吸引可能な範囲が狭く、看護師がいないグループホームでは、Sさんの受け入れは難しいと言わざるを得なかった。
あんなに笑ってくれていたSさんが、私が病院にお見舞いに行っても、目も合わせてくれなくなった。家族からも「裏切られた」と言われ、睨まれた。
本気で看護学校に通い看護師の資格をとろうかと考えた。両親に学費の相談もした。
しかし結果それはしなかった。看護師として業務ができるのは4年以上先になるし、何より制度上の問題だと思ったからだ。
とにかくまずは医療連携、訪問看護ステーション等との連携で、なんとかSさんの受け入れができないか、何度も何度も皆で検討した。
しかしSさんは淡の吸引以外にも、様々なリスクが高まり、医療依存度が増したことで、仮に私たち事業所が常時淡の吸引が可能な体制を整えたとしても、退院は難しかった。
後見人の弁護士さんとも何度も話し合い、Sさんはグループホームを退去することになった。
あの時、私含めスタッフ全員が、Sさんのために、一丸となり検討した。
やれることはやった。
けれど、もっとやれることがあったのではないか。リスクがあっても、Sさんはグループホームに帰りたかったのではないか。もっと医療機関を巻き込めなかったか。何より強く思ったのは、介護士のなんと無力なことか。
制度上の問題と言ったのは、介護士にできることがまだまだ少ないということだ。福祉の国家資格は名称独占であり、業務独占がほぼない。看護師資格の業務独占を切り崩し、介護士にどんどん権限移譲していかないと、日増しに高まる医療的ケアのニーズに対応ができない。
映画化もされた、渡辺一史「こんな夜更けにバナナかよ」(文春文庫2013年)でも問題提起されているが、淡の吸引は介護士が業務として行うのは特定行為業務従事者等を除き違法だが、家族やボランティアが行う分には問題ないのだ。つまり、難しいから医療職じゃなきゃできない、ということではなく、制度や仕組みの問題ということになる。
この問題を解決しようと思ったとき、厚生労働省がどれだけスピード感をもって進めてくれるかは信じるしかないが、たとえば看護師と介護福祉士の特定領域での資格一本化は、どんどん進めていく必要がある。
医療と福祉がいかに連携できるかが、重症心身障害の人の地域生活支援において最も重要なテーマだということ。そのことを今後も考え続けていくこと。
今後も福祉の仕事を続け、Sさんのことを忘れないでいたい。
④これから
Sさんとの出会いもきっかけとしてあるが、4月からは医療機関に所属して、医療の立場から障害の人の地域生活を考えていこうと思う。
大学を卒業し、社会人になり、右も左もわからないながらに私なりに考え、6年間仕事をしてきた。
あっという間だったが、濃い6年だった。
ここに書いた方以外にも、たくさんの人との出会いに恵まれ、たくさんのことを学ばせていただいた。
これからも出会いに感謝しながら、自分がやりたいこと、自分なりの問題意識に従い、一つ一つ実行していきたい。
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