1−1は本当に0なのか

 今からする話は数学の話ではない。人によっては面白くないと思うが読んでいってくれると幸い。あくまで人間の話をしよう。

 1人の人間が生まれたことを1とする。人は必ず死ぬ。そうしたら–1となるわけだ。1-1これは0と見做していいのだろうか。私はこれを小数点以下の切り捨ての0だという可能性を探っていきたい。

 まずこの考えが出てきたのは杉田水脈氏の「LGBTには生産性がない」という発言が発端であった。いつかどこかのタイミングで打ち明けると思うから先行公開といこう。私は「所謂」Bの人間である。それ故にこの発言は刺さった。この少し痛い部分を自分の中に落とし込んでみた。私は配信者という人々に楽しみを与える存在の前に創作家である。紙いっぱいに文字を書き、五線譜に音符を綴って生きてきた。私のこの「創作」という行為。これは本当に「生産性がない」と言えるのだろうか。私は配信者になった。リスナーに少しでも楽しんでもらえるよう、企画を立て、言葉を生み出している。これは本当に「生産性がない」と断言できるのだろうか。
 配信者でもない、創作家でもない。だから生産性がない。といっているわけではない。料理を作る、何かの企画を立てる、絵を描く、それらも生産性のある行為だ。なんなら人間は二酸化炭素を排出している。それも立派な生産性があると見做していいと考えている。

 もし子どもを産むという行為が生産性があるとされた場合、私は先ほど述べた小数点以下の切り捨ての数に少しの付与がされるだけだと考えている。
1-1+(x+y+z…+n)の式の括弧内のどれかに0.01くらい(この数をどのくらいの数にしたらいいかがわからなかった)の付与が加わる。その他のプラス要素(1にはならないことが前提、0.5以下であるとなお良し。誰でもできそうなものは低い数を当てることとする)
人が人を産む。後の世に子孫を残す。それは人間が人間として存在する意味の一つである。それをできている人間は確かに誇りに思うべき点だろう。だが、LGBTの人間でなくとも産めない人はいる。この産めない人々を生産性のない人というにはナンセンスだと感じた。

 これが考えるに至った過程、及びまだ不確定要素満載の結果である。
 これを肯定する何かがいつどこで出てくるかわからんのでいつ更新されるかはわかりません。 

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