独白

 意外にも下は近くて遠いのかもしれない。そう思ったのはいつだったか。
 私は昔、屋上に通っていた。私の身近にある屋上は基本的には鍵はかかっていなくて、朝、たまにそこで時間を潰していた。1人だし、開放的だし、なんとなくの背徳感もあった。雨の日は閉まっていたので仕方なく屋上に続く階段でぼんやりとしていたものだ。
 屋上の端、フェンスは思った以上に高かった。私が地面に立っていることが容易に想像できた。この感覚が嫌いだった。だが、ここを超えることができなかった。死ぬことが怖いとか、嫌だとか、そんな感情はなかったと思う。その頃書いていた遺書は20000文字程度。多さに驚く者、少なさに驚く者、同じくらいだと思う者。個々の価値観は人それぞれだ。そのくらいにはここを飛び越える理由があったろうに。この大切な場所を事故物件にしたくないとか、責任問題が、と言い訳らしい正論を並べ下を見下ろし続けた。その期間、約1ヶ月。その期間は生きているような死んでいるような。微妙な期間だった。だが、あの時期は必要だったのだと今になって思う。悩んでいる時、自分が安定できる場所を探す必要があることを教えてくれた。

 多分私はまだこういう邪念を捨てられないでいる。きっと心無い一言でそれを理由にしてこの世を去れるのだろう。心ある言葉であればあるほどこれを正当化してさっぱりいなくなってしまうような気がする。

 でも、きっと君たちが私を存在で止めるのだろうと思う。私は誰かから必要とされている限りはここを去ることができない。いなくなってしまわないよう。

 私はかつて、約束を呪詛に喩えた。この喩えは言い得て妙であった。私はいなくなりたい。だが、いてほしいと願う者が、それで生に縛り付けるのだ。この生に縛り付けてくれたおかげで今の私がいるのだから恨んでいいのかダメなのか。考えることをやめた。だが、たまに呪詛だなぁと思う時がある。なんかちょっとここから去りたい時に言葉で縛り付ける。私の本に記されている絶対!約束だよ〜!の言葉は効力が高すぎてたまにそのページを破りたくなる。でもどうしてもできないのだ。精霊だから、割と融通が効くはずなのに。手が震えてしまうのだ。

 幸せになった時はその呪詛に縛られていてよかったと思う。こういうよくない矛盾性のある部分が私らしさとして理解してもらえるような。そういうマイナス面をどうにかこうにか自分だけの魅力でかき消せるように、もしくは美しく見えるような振る舞いが今後必要なのではないか。

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