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7/30(日)、飯能の吾野宿で、白拍子のレクチャー公演!

白拍子の歌舞の変遷 「ウラ白拍子の段」

 2023年7月30日(日)に吾野宿(飯能市坂石町)で「白拍子の歌舞の変遷」のタイトルで、白拍子のお話と実演をさせて頂くことになりました。

 今年の4月8日に高麗神社(埼玉県日高市新堀)で白拍子の奉納をさせてもらいました。高麗神社から西に13キロ西に行ったところに吾野宿があります。高句麗(こうくり、コグリョ)は、大韓民国、朝鮮民主主義共和国の北部、中国の満洲の南部を国家としていました。6世紀末には、中国の隋、唐から何度も攻撃を受け、668年に滅ぼされました。

 また同じ頃、朝鮮半島の百済(ひゃくさい)も660年に唐に滅ぼされました。新羅は、唐と組んで百済を攻めたのでこの時代をなんとか生き延びました。

三国時代後の576年頃の半島 Wikipediaより

 高句麗の人、高麗人は、日本に帰化をして、駿河(静岡中部)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総(千葉中央)、下総(千葉北部、茨城南西)、常陸(茨城北東)、下野(栃木)に広がっていたそうです。ザクッと言うと関東。その人々を元正天皇の霊亀2(716)年に、今の高麗神社のあるところを中心に「武蔵国に移し高麗郡を置いた」と続日本紀に書かれているそうです。高麗の統率者は高麗若光(こまのじゃっこう)。渡来した高麗人の中には、知識者、技術者もいました。有名なのは紙漉(かみすき)。宝亀5(774)年の正倉院文書「諸国未進紙並筆事」(つまり文房具事情について)には、武蔵国の紙生産の記録があるそうです。紙の原料である楮(こうぞ)は、山峡で清冷な水の流れているところでしか栽培できない。高麗神社からまっすぐ北に20キロの小川町は、槻川(つきかわ)の流れる現在でも紙漉で有名なところです。
 
 そして馬術。馬を飼い、慣らし、騎馬戦もする。江戸時代には、宿場に着けば、馬を継ぎ換えなければならなかった。そのために吾野の通りには、多くの「宿継ぎ」があった。吾野宿もその一つです。明治10年の資料でも吾野の10の村で380頭の馬がいた。平安時代も軍馬を生産し、最強の騎馬術を誇る武士集団であったようです。

 さて660年に滅びた百済人は、九州、近畿地方に渡りました。白村江(はくそんこう)の戦いで知られるように。彼らは水軍の技術に長けていました。

 7世紀の渡来人たちがもたらしたそれぞれの技術が5世紀を経て、1180年に治承の乱がおこり、いわゆる「源平の戦い」が始まります。源頼朝は、関東に広がる坂東平氏の武士集団とつながって源氏の勢力を作ります。源氏は騎馬軍、平家は水軍。これは高句麗と百済の渡来人の文化の衝突でもありました。

 そんな、と思いますか?そんなもんだと時として歴史が語ってくれます。(これは7月30日のオフ会で続きを…)
 
 一ノ谷の戦いでは、断崖絶壁の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで、馬で駆け下り平家の陣営の背後から攻撃をした武将たちは、馬術の優れた坂東武士でした。三浦氏の佐原義連(さわらよしつら)は相模国佐原(神奈川県横須賀市)、和歌に優れた平忠盛(ただもり)の首をとった岡部六弥太忠澄(ろくやたただずみ)は武蔵国岡部(今の埼玉県深谷市)、馬を背負って鵯越を下りた畠山重忠(はたやまのしげただ)も武蔵国男衾(おぶすま)郡でこれも今の埼玉県深谷市。この奇襲攻撃で平氏は海に逃れるしかありませんでした。

畠山重忠公史跡公園の畠山重忠像 Wikipediaより

 源平の合戦は壇ノ浦の戦いでついに源氏が勝利を収めました。壇ノ浦の戦いの英雄は源義経。しかし、その人気に天下を取ろうとしていると疑いを持った兄の源頼朝が義経の追討を命じます。
 
 義経とともに逃亡の日々を送っていたのが白拍子の静。しかし女人禁制の吉野山を通ってゆかねばならず、義経は静に吉野で別れを告げます。ほどなく、静は頼朝側に捕らえられました。頼朝の家臣、堀藤次(ほりのとうじ)の邸に留め置かれている静ですが、頼朝は、日本一の白拍子だと聞いて、静の歌舞(うたまい)がみたいと鎌倉の鶴岡八幡宮に召し出そうとします。そこで一ノ谷で活躍して佐原義連(さわらよしつら)は静の歌舞をする舞台を作ります。彼は古いしきたりを知っている教養人だったからです。

 静は「都だとよい囃子方(歌舞の伴奏)がいますが、鎌倉にはいるのでしょうか?」と問います。静は内侍所(ないしどころ…宮中の三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所)に参上していると「義経記」には書かれています。静は義経の愛人、つまり頼朝側からみて罪人として扱われている分「こんな田舎に…」という上から目線で自分の誇りを保とうとしています。

 すると工藤祐経(くどうすけつね)がいる。もともと伊勢平家(平清盛)側だったが、後見人の義理の叔父に土地も妻も盗まれてしまい、源氏側に来て頼朝につきました。祐経も都にいた時代に内侍所で小鼓を打ったことがありました。あまりにも長い間、小鼓を打っていないので、補助に銅拍子をつけてほしいと要望し、梶原景時(かじわらのかげとき)が担当することになりました。景時は相模国の武士。そして笛は鵯越で馬を背負った畠山重忠(はたやまのしげただ)、武蔵国(むさしのくに)、埼玉県深谷市畠山町の武士です。重忠は「松風(まつかぜ)」と名付けた「漢竹(かんちく、かわたけ)の横笛」を吹きました。

 さてこの漢竹の横笛とは?龍笛とみてよいでしょう。では、武蔵国の武士に龍笛が吹けたのでしょうか?
 
 吹けたかもしれません。これは一般の史書にはありませんが、私の龍笛の師、芝祐靖先生は、ことあるごとに高麗神社に行って、龍笛の奉納をされていました。「ここに来ると落ち着く」ともおっしゃっていました。芝の先祖は高麗から来たと、ここに渡来したという思いを心に浮かべていらっしゃったようです。芝はのちに、奈良の春日大社の伶人(雅楽の楽人)となり、明治政府が立ち上げた宮内庁雅楽部の成立とともに、東京に移住しました。ということで、静は意外にも三人の囃子方を得て、歌舞を披露することになりました。

「静御前鎌倉鶴ケ岡 法楽圖」年方画 神奈川県歴史博物館蔵

 しかし、静が歌い舞った内容は、五節舞(ごせちのまい)の内容を逆手に取った歌詞を作り、頼朝を蔑(さげす)み、あなたは滅びる、と呪うものでした。それを頼朝は見破って激怒しました。ここには、頼朝と義経という反目というよりも、都の文化「伊勢平氏」と坂東武士「坂東平氏」の文化の衝突が、再び繰り広げられています。軍事の戦いが「源平の戦い」ならば、静の鶴岡八幡の歌舞の披露は文化の戦いでもあったのです。

 義経は、奥州(おうしゅう…岩手)衣川の戦いで敗れた、最後に持仏堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の娘を殺した後、自害しました。正妻の郷御前は、川越重頼(かわごえしげより)の娘。重頼は武蔵国入間郡の坂東武士。義経という男性を都の女性と坂東の女性が、これまた取り合ったのですね。


レクチャー公演「白拍子 歌舞(うたまい)の変遷」

白拍子の登場した背景、そして祇王(ぎおう)、千手前(せんじゅのまえ)、静(しずか)は、権力者に何を歌い舞ったのか? 

実演を交えてお話しいたします。

◉白拍子とは
どんな格好「装束(しょうぞく)」をしていたのでしょうか?
​白拍子はなぜ生まれたのでしょうか?
白拍子は何を歌い舞っていたのでしょうか?

■レクチャー公演「白拍子 歌舞(うたまい)の変遷」開催概要
主催:まきこの会
共催:吾野宿.kiten
後援:飯能市、吾野宿再生と吾野を語る会(COMステーション)
講師:桜井真樹子(白拍子・声明)
日時7月30日(日)15:00-17:00(受付14:30~)
会場:吾野ゲストハウス&カフェレストラン
場所:埼玉県飯能市坂石町分213
アクセス:西武秩父線「吾野駅」徒歩10分
料金:2,000円(事前予約制)
ご予約・お問合せ:まきこの会事務局(makikoclub2022@gmail.com / 090-9236-0836)

★公演サイト


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