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サステナブルパッション

おばあちゃん

ファッションについて書く。キング奈良裕也氏、四千頭身の都築拓紀氏、元[Alexandros]庄村聡泰氏に次いで、日本で4番目にファッションが好きな男なのではないかと自負している。知らんけど。

それはさておき、僕がファッションに目覚めたのは早い。母方の実家がアパレルをやっていた。具体的に言うと、母方の祖父祖母が大阪府の泉大津市でニット製品を作るNYニットという会社を経営していた。(ちょっと調べてみたら大阪の泉州エリアって江戸時代から繊維産業が栄えてたんだねぇ。)最盛期は従業員26人を数えたようだ。会社は潰れたがおばあちゃんは今も生きている。おばあちゃんとはコロナでなかなか会えてなくてこの前電話したけど、早く会いたい。

NYニットには小さい頃よく遊びに行った。おばあちゃんの家と事務所兼工場が合体した建物だ。30〜50代のオバちゃんたちがいつも10人くらいいただろうか。ミシンの前でせっせと仕事していた。

おばあちゃんの衣装部屋はそれはそれは大変なものだった。大量の服・服・服。からの服・服・服である。ヴェルサーチ(今はヴェルサーチェと言うようだが)やオフィス小西のフィッチェ・ウオーモ、だけではもちろんないが、記憶にはそれ系の派手な服のインパクトが鮮明にある。おそらくCHANELだったと思うピンクのセットアップも覚えてる。時は80年代。DCブランド、ブティックの全盛である。おばさん、つまりオカンの姉がブームに乗っかりブティックをオープンしたが、しばらくして潰れてしまった。僕はおばあちゃんの衣装部屋を回るのが大好きだった。子どもながらに気になる服があれば袖を通し、鏡の前でよくファッションショーをしていた。

おじさん、つまりオカンの弟は、身長186センチとかでかつめちゃくちゃお洒落な人だった。おばあちゃん家にあるおじさんの部屋にはたくさんのレコードとマイケルジャクソンのアイテムが置いてあった。おじさんはイタリアのディオールで働いていた。小さい僕に『AKIRA』を勧めてくれてビデオと漫画を貸してくれたのを覚えている。AKIRAは未だに僕の一番好きなアニメ作品だ。僕が大学生のときおじさんからディオール時代に制服として着ていたスーツをもらった。DIOR HOMME ができる前のものだった。帰国してからおじさんは六本木ヒルズのジョルジオアルマーニでしばらく店長をしていた。


hide

さて、中学ではhideのソロが流行った。ピンク頭のX JAPANのギタリストである。塩見くんという友達が最新のSONYのウォークマンを持っていた。それで初めてhideの『ROCKET DIVE』を聴かせてもらったとき、カラダごとふっ飛ぶような感覚を味わったのを今でも忘れない。hideは1998年に死んでしまい、僕は高校生になった。

今はApple 表参道がある、その横の道、原二本通りの突き当たりにhideのLEMONedというお店があった。上の階にはhideのスタイリスト宮城浩さんのサロン「SQUASH」があった(今は代官山に移転)。母校・大阪桐蔭高校の国語の平井先生は、毎月大阪からその「SQUASH」まで髪を切りに行っていた。僕がhide好きなのを知っていたので、LEMONedでちょっとしたキーホルダー的なお土産を買ってきてくれたこともある。なんてチャラい先生だろうか。

hideは音楽もさることながら、その独壇場とも言える鮮烈なファッションに度肝を抜かれた。髪の色といい、襟足の長さといい、ギャル男の走りではないか、というより今も色褪せない突き抜けた前衛性を感じる。平井先生の真似をして自分も宮城さんに切ってもらおうと新幹線に乗ったのは高2のときだった。表参道を初めて歩いたときに「よし!東京の大学に行こう」と決めた。

高校生のときは、NBAのジャージに軍パン、はたまたガーゼシャツに安全ピンなどジャンル横断型の奇抜なファッションをして毎週末のようにアメ村を練り歩いていた。東京の大学生になってからはそれがより顕著になった。全く一般受けしない痛い感じの?感じである。


原宿

こんなことを言うと老害かもしれないが、どうだろう。僕が上京した2002年からの10年間くらいかなぁ。の渋谷〜原宿は今よりも魅力的なファッションの街だった。冒頭のキング奈良裕也氏がその圧倒的なファッションセンスを誇示していた頃だ。当時の渋谷〜原宿では色んな古着屋に、カンナビス、Factory、ヒーズン、DOG、ミッドウエスト、LOVELESS、LHP、コルソコモ、ヌードトランプ、インターナショナルギャラリービームスなど、よく行った。カンナビスは今でもあるが、多くの店がなくなったり移転したり当時とは変わったり。カンナビスでは後にThe Lowbrowsでサマソニにも出演するChakiさんがいわゆるカリスマ店員として躍動していました。そういったエッジの効いた人が集まる場所でもありました。Linda Tuneとかめちゃくちゃカッコいいんすけど、サブスク配信されておらず、i Tunes Storeで購入するしかないですが、ぜひ聞いてみてください。

今Eggs 'n Things 原宿店のある通りの奥にあったWitchというお店も好きだった。Witchはかなり前に潰れてしまったが、当時FRAPBOISとリーバイスレッドのサルエルデニムがとんでもなく流行り、自分も愛用していた。Witchはその2強と被らないサルエルを展開していた。「それどこのですか?」と聞かれる系のやつ。なんと僕の大学の割と主要キャラというか目立つ系のキャラがこぞって僕のWitchを真似て一時期東京都立大学のメンズファッションをWitchのサルエルが席巻した。黒縁メガネがよく似合っていたWitchのデザイナーの方、今何してるんだろう。松本大洋『ピンポン』のアクマに似てたので勝手にアクマと呼んでいた。アクマ自らお店に立っていた。店内にミシンや生地のあるそこそこの作業場があった。フロリレージュのオープンキッチンみたいに。移動時間も惜しんでクリエイトしてたんだと思う。ユーズドのバンドTもセンスよくセレクトされていた。色々お話しがしたい。まさかのこの記事が目に止まってほしい。
代々木公園のフリマもよく行った。服もよく買ったけど指にはめる小さな腕時計というか指時計を買ったのを今思い出した。謎の掘り出し物にワクワクした。ゆうて当時一番行ったのは結局Kindとラグタグだろうか。若い時はKindとラグタグでブランドを学ぶというかKindとラグタグはそういう役割を果たしていたよね。リメイクもよくやった。スタッズをつけたり裾ZIPにしたり。そのためのユザワヤ。


スナップ掲載

バイトをしてはバイト代をすべて服に注ぎ込んでいた。食事にほとんどお金を使わなかった。大学のある南大沢からバイト先の渋谷まで通勤していた。そのバイト先でひときわ奇抜な格好をしていた杉安一一郎(かずいちろう)くんに「どこで買い物してるんですか?」と声をかけられその質問をそのまま返したい旨伝えた。すぐに仲良くなり一緒によく買い物に行った。大学を卒業して携帯電話を壊してから連絡がつかなくなった。この圧倒的に読まれていないだろうnoteがまさか目にとまったらすぐに連絡してほしい。なんと杉安くんとのツーショットがあのTUNEに掲載された!(目当ては彼の方だったと思うが)。今伝わらないかもしれないけど、TUNEと言えば服好きの頂点的な雑誌である。TUNEに声かけられないかなぁなんて話しながら杉安くんと一緒に買い物してたらTUNEに声をかけられた。国会図書館に行けばそのときのTUNEが見つかるだろう。良い思い出である。

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ひとりでもスナップが掲載されたことがある。それも、POPEYEに1ページ縦全部で大きく載った。懐かしいジョンガリアーノのニュースペーパー柄、ラフォーレ原宿のDOUBLE STANDARD CLOTHINGで買ったショールカラーのジャケット(メンズラインができる前に数着だけ作られたアイテム)、手縫いでテーパードにしたPledgeのデニム。Vivienne Westwoodのゴールドアーマーリング。豹柄のバッグは大阪のリサイクルショップで700円で買ったもの。サングラスも1000円とかの。

大阪という言葉が出てきてしまったので脱線するが、大阪では今みたいにセルアウトする前のアメ村のVOLCAN & APHRODITEが好きだった。ヴィンテージのグッチのパンツを買ったなぁ。それにおばあちゃんからもらった紫のシルクのシャツをよく合わせていた。H100というお店も良かった。今ではググっても2chの掲示板にしか出てこないけど、H100では、全面的にハサミが入れられて七夕の編み飾りのようにリメイクされたシカゴブルズの古着Tシャツを購入した。前衛的モードストリートみたいな現存しないジャンルの服装をしていたと思う。Tシャツに下記動画の要領でハサミを入れるとできるから。今誰もやらないかw


さて、TUNEとPOPEYEに載った話。それで少し満たされたのかもしれない。大学を中退して文化服装学院に行こうと仕掛けたことがあったが、おかんに真顔で大学は卒業してほしいと言われ、結局、ロースクールに進み弁護士になった。


ひとつの時代の終わり

その間、残念なことにTUNEとFRUiTSは終了してしまっていた。原宿に行っても同じような服装の人が多くなった。これは事実であり、もう過去である。ただ、常にその時代のカルチャーを牽引してきた渋谷PARCOはリニューアル後も健在だし、セレクトショップを定義したといっても過言ではないユナイテッドアローズ原宿本店も連綿と受け継がれてきたセンスを今も高位安定に発信し続けている。途中紹介したお気に入りのお店系でいうとその価値観は今のNUBIANなんかに継承されている。NUBIANの創業は2005〜6年とかで意外と古く、最初は上野のやんちゃな雰囲気の雑居ビル3階とかにある小さなお店だった。ストリートヒップホップの店だけどパンツは絞っていたから創業時からエッジが効いていた。だから今Rick Owensが置いてあるのも全然違和感がない。日本のファッションシーンが終わったわけではもちろん全くない。



SDGsとアパレル

さて、目下の関心事は気候変動であり、脱炭素である。サステナブルファッションということを考えていないなら、#ファッションが好きというのは欺瞞であろう。大量廃棄の問題や水の問題も含む。地球環境保護に向けて待ったなしの状況であり、アパレル各社はさまざまな取り組みを行なっている。イノベーションにもテクノロジーにも期待したい。六本木にある国立新美術館で開催中の『ファッション イン ジャパン1945-2020』ではUNIQLOのリサイクルダウンが紹介されていた。

消費者庁と経済産業省、環境省がファッション業界で脱炭素を進める会議の初会合を開いたとの記事が日経新聞朝刊に掲載された。省庁が連携して取り組む姿勢を見せたことは大きい。


ファストファッションが責められることもあるが、ファストファッション自体が悪いことではないはずだ。むしろハイブランドのコレクションはそのシーズンしか着れないようなものも多い印象がある。人新生においては過剰消費を促す資本主義経済社会を見直す必要があるように思う。

とまぁ偉そうなことを言いながら、自分は気楽に買い物動画なんかをアップしている。し、また御殿場アウトレットに行こうなんて思ってる。


いや、一生大事に着るつもりである。学生時代から、フリマやヤフオクで売ったり友達にあげたりと、服を捨てたという記憶はほとんどない。最終的には捨てられたものが多いとは思うが。。。

ファッションという切り口で人生を振り返った。アパレル業界の課題に向き合うと頭が痛いが、そもそも自分にとってファッションは自己表現の入り口であり、青春時代のアイデンティティであった。当時の自分をポジティブにしてくれた武器である。これからはそんなファッションに少しでも恩返しができるような、弁護士として何かお手伝いができればと考えています。おわり


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