少女を埋める


プロローグ

「鳥取どう? 空気きれい? ねぇ、山とか自然は?」
「あぁ、うん……。それどころじゃなくて、とりあえず駅前のビジホにいて、いま休んでる」
「そっか。だよね……。あのー、さっきの話だけどさ」
「何?」
「わっ、声低っ。あのほら、鳥取の城壁を作るときに人柱を埋めたっていう言い伝えの話。気になって検索したら、すぐ近くの別の場所にも別の人柱の言い伝えがあってさ。鳥取、人柱多いねー。〝猿土手橋〟って知ってる?」
「あぁ、中学んとき、自転車通学で毎日渡ってた、ちっさい古い石橋だけど」
「なんでも、江戸時代、土手を作っては梅雨時に流され、田んぼが被害にあって大変だったんだって。そこである年、村人が新しい土手に人柱を埋めようと決めた。でも誰を埋めるかの話し合いがまとまらず、『明日の朝一番に通った人を埋めよう』ということになった。で、夜明けから隠れて待ってたら、たまたま猿回しの旅芸人が通りかかった。そこで村人は猿回しを捕まえ、肩に猿を乗せたまま、土手に埋めちゃった。以来、水害は起こってないんだって。いやぁ、猿回し、さぞかしびっくりしただろうねぇ」
「ふーん……?」
「何。声、さらに低っ」
「あの、それ、たまたま通りかかったんじゃないと思うよ」
「え、どういうこと?」
「そっか。都会の人にはピンときづらいのかな。わたし、地元の風土のことですぐわかった。あのねぇ、おそらく、そのお話の真相は……」


 二〇二一年二月二十三日、火曜日。わたしは東京の自宅でいつもどおり朝食を食べ、犬の散歩をし、仕事をするため近所のカフェに出かけた。おやっ? 午前の早い時間から賑わっている。ふわふわデコラティブなブラウスの上からノースリーブのワンピースやニットのベストを重ね着するという、この春流行のファッションに身を包んだ若い女性が楽しそうに集っている。平日のテレワークやウェブ会議の客層とガラリと違うので、どうも祝日らしいと気づく。スマホを取りだし、カレンダーを見ると……あ、ほんとだ。天皇誕生日だった。
 カウンターでドリップコーヒーを注文する。バリスタのお姉さんが「今日のお勧めはキリニャガです」と微笑む。「キリニャ……えっ、キリンヤガ? アフリカの山の!」「エェーッ、そうです。なんで知ってるんですか? めっちゃマニアックな山の名前を」「いや、『キリンヤガ』という小説を読んだことがあって、たまたま……」と話した後、Suicaで料金を払い、窓際の隅の席に着いた。
 MacBookを開いて仕事していると、ほどなく熱々のコーヒーが運ばれてきた。と、スマホに友人から、最近話題の音声型SNS“Clubhouse”への招待状が届いた。招待制というクロージングなスタイルが逆に人々の興味をそそっているらしい。おぉ、ついにうちにもきたか。アプリをダウンロードし、アカウントを作ってみたものの、使い方がまだよくわからない。
 ふと、別の友人と来月お能を観に行こうと約束したことを思いだし、チケットを購入しようとする。だが千駄ヶ谷の国立競技場近くの国立能楽堂は全公演完売で、驚く。そういえば、能楽師一家を描く宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『俺の家の話』が放送中なので、いまとくに人気なのかも? 友人に「ごめん、もう完売だった……」とLINEを送る。
 十時半ごろ、カフェを出て自宅に向かう。いつのまにか未登録の携帯電話番号からスマホに着信があった。自宅に着いて、マスクを外し、手を洗い、うがいをする。またスマホを見ると、その番号からショートメールがきていた。
『お父さんがここしばらく入院していましたが、どうも今回は難しそうです。お医者さんによると、あと一週間ぐらいではないかとのことです』
 ……鳥取の母からだった。
 えっ、と画面を見る。
 リビングの椅子にとりあえず座り、深呼吸する。電話をかけ直す。
 ツーコールで母が出た。
 父はここ二十年ほど肺を悪くし、自宅療養していた。数年に一度、悪化して入院した。わたしは七年実家に帰っておらず、母の声を聞くのも七年ぶりだった。母は落ち着いており、きちんと話した。
 今月十二日から入院していたが、今回は厳しい。
 鳥取も感染者が少ないとはいえコロナ禍であり、病院は面会禁止。家族もリモート面会しかできない。
 もしわたしが鳥取に戻っても、感染者の多い東京から来た人は病院に近づけないだろう。それどころか、県内の離れた市に住む親戚が集まるのもいまは難しそうだ。
 だから「こんな時だから仕方ない。自分一人で看取り、葬儀も出す」と言う。わたしが帰るとしたら、それはわたし自身の気持ちのため、ということだと。
 母はちゃんと落ち着いて話した。「気を強く持って」とわたしの心情を思いやってもいるようだった。
 どうしようか考えるが、とっさにまとまらない。二度目の緊急事態宣言中の東京から帰っても、役に立たないどころか、感染という不安要素を増やし、迷惑をかけるように思える。
 仕事もあり、新刊も来週出るところで、いま急に東京を離れられるのかもわからない。
 リモート面会について詳しく聞くと、病院内の二畳ほどの専用ブースにiPadと椅子が置かれており、病室とオンラインで繋がるらしい。午後二時から四時まで。一回十五分、予約制だと。……ふと気づいて「ねぇ、面会用のアプリをインストールしたら、もしかして東京から面会できるのかな?」と聞くと、「よくわからない。面会の説明書をFAXで送るから番号を教えて」と言われ、びっくりして「えっ、FAXはもうないよ」と答える。結局、口頭でアプリ名を聞き、iPadにダウンロードし、病院の担当看護師さんと電話で打ち合わせをした。無理を聞いていただき、この日午後二時、東京の自宅からリモート面会させてもらえることになった。
 二時まで何も手につかない。ついさっき能のチケットの話をした友人に、いまこうなってるとLINEで相談する。「そうか……こういうときは、もう、自分が一番いいと思う方法を選ぶのがよいよ」と返信が来る。
 時間になり、リモート面会が始まる。
 日差しの暖かい窓際の床にiPadを置き、覗きこんだ。オンライン上で、わたしが斜め上から覗き、父はベッドからこちらを見上げている形になる。
 意識があるかわからない。「お父さん」と話しかける。言いたいことはたくさんあったが、自然と口をついて「ずっと帰らなくてごめんなさい」「わたしが全部悪かった」「あんなに可愛がってくれたのに、あんなにいいお父さんだったのに、本当にごめんなさい」「お父さん」「お母さんとも仲良くするからね」「お父さん」と言葉が出た。
 それ以外のことは、これからもしばらくは生きているだろう自分が抱えるのだと思った。
 父は朦朧としていたが、看護師さんの声かけで意識がはっきりしてきた。わたしを見て、目をぐっと開いたように見える。何か言っている。看護師さんが聞いてくれる。「『む、す、め』とおっしゃってます」と言う。
 そう、娘です。……わたしが娘です。わたしだけが。
「お父さん! そっちに帰るからね。すぐ帰るからね。お父さんの近くに行くからね」
 と言うと、父がうれしそうに笑ったように見えた。その顔を見て、帰らなきゃいけないと思った。最大限、身を守りながら故郷に帰ろうと。
 十五分経ち、病人の負担も大きいため、面会が終わった。お医者さんと看護師さんにお礼を言い、切る。
 呆然とし、何から手をつけたらいいかわからない。帰る? 帰れる? 明日! そう、明日……はむりだ。なら明後日?
 PCR検査を受けられる場所を検索するが、自分があわてているのと、祝日なのとで、なかなかみつからない。ようやく九段下の武道館近くの病院をみつけ、予約する。最終の午後四時半の予約がぎりぎり取れた。
 駅に走り、地下鉄に乗り、検査を受け、帰ってくる。結果は明日の午前にわかるという。椅子に腰掛ける。何か食べねば、でも料理どころじゃないと、Uber Eatsのアプリで夕飯を注文した。アプリ内のマップを開き、配達員さんがどこにいるかわかる自転車のマークが、道に迷って別の方向に遠ざかったりまたもどってきたりするのを、ぼーっと見守る。
 朝、カフェで話題に出したSF小説『キリンヤガ』のことをふと思いだした。22世紀の小惑星に作られた、住民が昔ながらのアフリカのサバンナの暮らしを送る実験的箱庭都市〝キリンヤガ〟を舞台にした連作短編集だ。キリンヤガとはケニアに実在する山の名前。この都市には文字も、学問も、文明の利器もない。何もかも昔のままの生活なのだ。
 まぁ、それは、今はいい。
 うちは……。
 うちは父母と娘の核家族だった。平凡な、日本中にたくさんある、ごく普通の家族だった。
 あの家族はなぜ解体したのだろうか?「わたしが全部悪かった」とさっき、とっさに言った。確かにこの口がそう言った。……では、そうなのか? 誰が、もしくは何が悪かったか……べつの犯人もいるのか?
 いや、それともやはり、このわたしが犯人か。
 ベランダに出て、夜空を見上げる。
 目を細め、月を探すが、曇りなのか、方角が違うのか、いつまでもみつからない。
 ピンポーン!
 誰? あ……。ようやくUber Eatsの配達員さんが到着したようだ。

 翌日、二月二十四日水曜日。朝十時にPCR検査の結果が送られてきた。陰性。……よかった。無症状で陽性の場合もあるし、内心少し心配だった。
 ネットで飛行機の予約を取る。普段は一日五便のところ、コロナ禍で二便に減っていて、驚く。明日の午後三時の便を予約。
 続いて地元のビジネスホテルのサイトにアクセス。宿泊予約しようと料金を見ると、シングル一部屋の値段が初日の二十五日だけ二万七千円で、翌日から七千円だった。思わず「なんでー!」と声が出る。おそらく何かのイベントとかちあったのだろう。いつもは閑散とした過疎地域だが、昔も、境港の妖怪検定と宍道湖のマラソン大会と鳥取大学の学会がかち合った週末、飛行機のチケットもホテルも取れないときがあった。
 料金に慄きつつ、予約。暫定的に三月三日に一度東京に戻る予定とし、三日チェックアウトということに。
 つぎに朝日新聞出版の編集者にメールする。三月五日にわたしの新刊『火の鳥』が発売されるため、明後日サイン本を作りに出版社に出向く予定があった。これをキャンセルさせてもらい、四日に予定している「ダ・ヴィンチ」誌の新刊インタビューの前に作業することにしてもらう。
 美容院の予約をキャンセル。電話で話す余裕がなく、サイトのメール問い合わせのアドレスに送る。
 ピンポーン!
 あ。能の約束をしていたあの友人が到着した。うちはベランダと室内に鉢植えがたくさんあるため、三、四日に一度の水やりを頼んだのだ。合鍵を預け、駅前のおいしいタイ料理屋に行き、遅めのランチを注文した。……ほどなくパッタイと生春巻が運ばれてきた。が、喉を通らない。友人が「あんた、食べられるタイミングで食べておいたほうがいいよ」と言いつつ、わたしのぶんも平らげてくれた。
 母にメールで「明日帰る」と連絡。飛行機の便とホテル名も一応書いた。するとすぐ電話がかかってきた。諸連絡の後、「東京の話し方でパキパキ話さないようにね。こっちの人はのんびりしてるからね」と心配される。……父は約二十年前から体調が悪かったので、わたしは二〇〇五年から四年ほど、地元に六畳一間のアパートを借り、東京と行き来していた。そのアパートに籠って書いたのが、鳥取を舞台にした『赤朽葉家の伝説』だ。あのころ、東京で身についた早口の話し方だとこちらではテンポが早すぎ、物をはっきり言いすぎて怖がらせてしまうと気づき、気をつけるようになった。母に「大丈夫」と言って電話を切る。
 夕方四時半、四月末に河出書房新社から刊行予定の『東京ディストピア日記』の初校ゲラが出た。編集者が内容をチェックし、午後六時、うちの近くのカフェに持参してくれる。ゲラを受け取り、所用で実家に戻ることを告げる。ゲラは三月三日午前中に届くよう返送すると約束。
 翌日。二月二十五日、木曜日。午前中、ペットホテルに犬を預けに行った。犬は高齢であり、本当は心配だ……。ばたばた荷造りし、部屋を出ようとしたとき、朝日新聞社から宅急便が届いた。わたしが選考委員を務める漫画の賞、手塚治虫文化賞の候補作がダウンロードされたKindleのタブレットだった。中に漫画が五十冊ぐらい入っているはず。選考会は来月だが、候補作へのコメントの締切は三月八日だ。タブレットも荷物の奥にぎゅーっと入れる。
 そうだ、明日のリモート面会を予約できるか確認しなきゃと、病院に電話。すると父はちょうど救急センターから集中治療室に移動するところだった。集中治療室はシステムが異なり、東京からのリモート面会ができなくなるとわかる。そっ、そっか。じゃ、やはり帰省して正解なのか……。東京から帰ること、検査結果が陰性だったことを告げる。明日金曜日の病院内でのリモート面会が予約できる。
 あーっ、時間が! 急いで自宅を出て、羽田空港に向かい、飛行機に飛び乗る。
 一時間ちょっとで、あっというまに地元に着いた。空港の名は今や〝鬼太郎空港〟であり、目玉おやじのでっかいフィギュアが陽気なポーズで出迎えてくれる。
 青い顔で、空港を出た。
 すると、山陰地方特有の重たい曇り空が視界いっぱいに広がっていた。空は低く、見覚えのあるざらついた薄い灰色で、空気は湿り、どこからか地の果ての匂いも漂ってくる。暗い海を撫でながら吹いてきた凍える風が、頰をぬるっと撫でる。
 タクシーで駅前のビジネスホテルに向かった。運転手は高齢の男性で、「東京の空も曇ってたでしょう!」となぜか確信に満ちた声で聞く。「え? いえ、晴れてました」と答える。どうも気もそぞろで、会話が続かない。
 ホテルの前でタクシーを降りる。母が立っていた。自分で驚くほど、ぎょっとする。そうか、飛行機の便名とホテル名を連絡したからか……。
 互いにマスクをしているし、検査結果が陰性だとはいえ、絶対安全とはいえないので、「わっ、ちょっと離れて」と言う。母は「えーっ」と不満そうにしつつ、紙袋を渡してくれる。PCR検査も絶対ではないし、近くで話すと危ないから、と説得すると、「じゃあ、あとは電話で」となる。
 ホテルにチェックインし、荷物をほどき、MacBookとKindleのタブレットとゲラの束を机におく。母から受け取った紙袋を開けると、ハンバーグ弁当とひなあられと苺のパックが出てきた。くらっと目眩がする。わたしの好きなものばかりだ。二、三十年前……もっとずっと若かったころに。
 お湯を沸かし、部屋にあったカップヌードルに注ぎ、まさに〝カップヌードルは飲み物〟という勢いで爆食した。ハンバーグ弁当も液体のように一気に飲んだ。まだまだなんでもいくらでも食べられるという気がした。二十歳のころでもなかったぐらいの底抜けの胃袋。まるで体の真ん中に真っ黒なブラックホールが空いてるみたいだ。
『東京ディストピア日記』のゲラを開き、赤ペンと鉛筆と消しゴムをおき、眼鏡をかけ、作業し始める。
 午後九時過ぎ。母から電話。病院より、父の容体が悪いとの連絡があったと。
 ゲラをおいてベッドに寝転がる。

 気づけば、とても静かな夜だ。


 翌日、二十六日金曜日。
 ホテルの大宴会場にある臨時朝食会場で、制服姿の高校生と付き添いのお母さんらしき中年女性の二人組にぐるりと囲まれ、ひどく落ち着かない気持ちで和定食を食べた。どうやら国立大学医学部の受験日と重なったらしい。そうか、それで宿泊費が高かったのか……。
 部屋に戻り、ゲラ作業を続けていると、母から父が持ち直したと連絡があった。血圧に問題があったが、適切な対処をしていただけたらしい。
 予定通り午後二時、リモート面会のため医大病院へ出向く。と、受付前に母が立っていた。またぎょっとする。そうか、予約した時間を連絡したからか……。
 スタッフさんに名前を聞かれ、答えようとすると、母が横から大きな声で「この子は東京から戻ってきまして! 名前は……」と説明しだすので、「あの、自分で言えるから」と遮る。自分で受付をし、母は帰っていった。
 二回目のリモート面会は、昨夜の血圧の関係でか、父はよく眠っており、無理に起こしてもらうのも辛いので「こうして寝顔を見てますから」と言った。時間の終わりごろ、父が目を覚まし、「娘さんですよー」と看護師さんに言われて、わたしの顔を見て何か言う。「『か、え、る』っておっしゃってます」と言われ、わたしは何も言えない。「お父さん、お父さん」と呼ぶだけだ。
 面会が終了し、母にメールで報告する。と、すぐ電話がかかってくる。明日と明後日は土日で面会ができないため、来週の月曜は母が、火曜はわたしが予約するのはどうだろう、と提案する。すると母も賛成し、まとめて予約してくれると言う。ありがとう、と電話を切る。
 病院からホテルにまっすぐ帰る気になれず、川沿いの閑散とした町やシャッター商店街をあてどなく歩いた。
 空は今日も曇っていて、低く、木々の枝は裸で、節くれだった指のような奇妙な曲がり方で横へ横へとじわじわ伸びている。
 風景写真を撮り、旅好きの知人がいることを思いだしてLINEで送ってみた。「独特な景色だね。空がものすごく低い。それに暗いし、すごく重たい」と返信が来る。地元出身の漫画家、水木しげる先生の絵を検索し、送ると、「えっ、完全に一致だな……。これって水木しげるが想像した妖怪世界じゃなく、現実の景色だったのか」とくる。「空が濃灰色。それに木の枝はどうしてこんなに怖い形なんだろう」と聞かれ、「山陰地方は日本海と中国山地にはさまれた細長い土地だから。中国大陸から海を撫でて吹いてきた風が、山にぶつかり、湿気が降り落ちてくる。だから、空はいつも曇って、空気は湿ってる。木の枝も山にぶつかって落ちてくる風のせいでこういう形なんじゃないかな」と答える。
 なぜこの土地にわたしは七年も帰ってこなかったか、と考える。
 世間の常識的にはあり得ないことか。
 そして、今戻った。母は一言も責めないし、わたしも母がしてくれることに必ず「ありがとう」と言うようにし、おそらく互いに気を遣っている。なぜかというと、おそらく二人とも父のことが好きで、父が大切だからだろう。
 この旅好きの友人の職業は、医師であり、LINEで続けて「ちなみに、人間のストレスは大きく分けて二種類あるらしい」と送ってきてくれる。「一つは自分の力でコントロールできるストレス。たとえば、仕事が忙しいけど、無理せず休む選択が自分でできる、とか。もう一つは、コントロール不可なストレス。人間関係が辛いけどどこにも逃げようがない、とか。後者のストレスには大きな健康被害があるという説がある」「なるほど」「だから何事もむりをしないこと。できないことはできないと意思を通すこと、できることをあらかじめ少なめに言っておくことが大事」と届く。〝心配してます〟というスタンプが続く。〝ありがとうございます〟のスタンプを返す。
 と、朝日新聞出版の編集者から「『火の鳥』が刷り上がっているので、よかったらご実家にお送りします」とメールがくる。心遣いがありがたい。お礼を言い、実家宛に一冊……と思ったが、やはり二冊送っていただくことにした。
 うちの親戚は父方が三兄弟と妹で、父が三男。従姉妹はわたしも入れて女五人男一人。地元に残っている人はみな車で一時間半ぐらいのべつの市に住んでいる。母方は二人兄妹。母の兄とその子供二人は関西や北海道などに住んでいる。母の母、わたしにとって母方の祖母は今年九十九歳で元気でおり、今はこの町の高齢者ホームにいて、母が足繁く通って話相手をしている。本を二冊送ってもらおうとしたのは、母と祖母に一冊ずつ必要かと思ったからだ。
 それにしても、なにしろ二度目の緊急事態宣言中の東京からの帰省なので、お店にも入りづらい。居酒屋の前に「県外から来られて二週間以上滞在していない方は入店をご遠慮ください」と張り紙があるのを、そりゃそうだよなぁと眺める。町を歩き、写真を撮ったり夕食のお弁当とみかんを買ったりして、ホテルに戻った。
 お茶を淹れ、MacBookで仕事のメールチェックをし、ばたばた返信しているところで、ふと今月が二月だと思いだした。ということは、もしかして二十八日、つまり明後日で今月は終わるのではないか? 待って。『東京ディストピア日記』のゲラは三月三日午前に東京に着く予定だ。ということは遅くとも一日の朝には出さなくてはいけない。ん? じゃ土日に全部やらないといけないのでは……? 間に合うのかな?
 と急にあわて始めたが、あわてるほどに不思議とベッドに寝転び、Kindleのタブレットで手塚賞候補作の漫画を読み始めていた。


 翌日、二十七日土曜日。ホテルから医学部の受験生親子たちが消えた。代わりに、身長二メートル近くに見える、ジャージ姿の北欧系らしき白人男性たちがやってきた。気になって検索すると、どうやらVリーグの国内大会があるらしい。
 部屋にこもり、ゲラ作業をようやく始める。午後になり、四十年以上前からある老舗のケーキ屋さんのことを思いだし、急に食べたくてたまらなくなる。Google Mapで検索すると、徒歩なら往復一時間だ。……ちょっと遠いかなぁ。贅沢ではあるが、フロントに電話してタクシーを呼んでもらい、ケーキ屋に向かった。
 運転手は珍しく二十代前半の男性で、「あの店のケーキ、自分も子供のころよく食べましたよ」と言う。「あら、わたしもですよ。若い方もそうなんですねぇ」「でも高いからなぁ。大人になってからは買ってないです。高いですよね」と、ケーキを買いにいく間も、帰りも、のんびりと明るい言い方で繰り返す。
 そういえば空港からのタクシーの運転手も、愛想のよいとぼけた口調でネガティブな内容を話していたな、と思いだす。気になったのは、じつは自分にも長年そういう癖があり、上京してから〝悲観的な内容を明るく話すと、場の空気が変になり、会話が止まる〟と気づき、直そうと努力したからだ。長年、個人的な性質だと思っていたが、もしかして風土だったのかな? ……まぁ、わずか三人の例で土地全部のことはわからないか。
 またふと思いだしたが、高校生のとき、小説家を目指しているということが担任教師に伝わり、職員室に呼ばれて「夢というのは叶わないものだ」と助言されたことがあった。先生自身も、目標があって東京に進学したものの、将来的に実家のお寺を継がねばならず帰郷し、ひとまず就職したという話だったような気がする。別の学年のときの担任教師にも、母が面談のとき「昔も作家志望の生徒がいたがなれなかった。そういう生徒は時々出てくるが、なれない」と言われたと、母から聞いた。
 母自身も、その後、知人の息子さんがプロテニスプレイヤーにスカウトされたとき、「好きなことでプロになっても食べていけない。趣味にしておくべきだ」とアドバイスしたと聞いたことがある。
 全国区では、小中学生のころテレビで「金八先生」シリーズや「熱中時代教師編」「教師びんびん物語」などの熱血教師ドラマが大流行していたので、「あれ?」と現実とのギャップを感じた記憶がある。でも、それもこれも、日本海と中国山地に挟まれたこの土地の根っからの風土だったのかな?
 正論を言えば、若い人の夢を後押しし、失敗した時のセーフティネットについても考えるのが教育だと思う。
 タクシーがホテルに着くころ、どこか遠くから「ウーウーウーウー……」とサイレンが聞こえだした。運転手が「密航ですよ」と教えてくれる。「北から?」「そう」「昔もありました。今もあるんですね……」と言い、タクシーを降りる。
 部屋に戻り、テレビをつけ、買ってきたケーキを食べた。
 子供のころは、あまり甘くなくて上品すぎると感じた味だが、二十代半ばを過ぎたころから、これぐらいがちょうどいいなと思うようになった。そして四十代後半のいま、久々に食べると、う、甘いなぁと思った。きっとケーキの味そのものは変わっていないのだろう。
 ニュースでは、サイレンの原因である北朝鮮からの密航船らしき小型漁船が境港でみつかった事件について流れていた。密航者は市内を逃走中だと。いつもはみんな家の玄関の鍵をかけないが、今日はいちおうかけるのだろう。
 続いて、鳥取県東部で新型コロナ患者が二名みつかり、接触した約三百人が検査を受けている、と流れる。……年明けに一日二千人以上の感染者が出た東京からきた身としては、たった二人でここまで徹底して検査するのかと、おののく。
 この小さな町で感染者になってしまったら、その後の人生がさぞ大変だろうと怖ろしくなる。この件について、県知事が去年「ネットで感染者を中傷したコメントのアーカイブを訴訟のため保存する」と発表し、「敵は人間ではなくコロナだという当たり前のことを今一度確かめあいたい」と強く訴えていた。感染者、つまり少数者の尊厳を守ると自治体が自ら宣言したということで、正論であり、立派なことだと思う。
 この知事は、東京は神田の生まれで、つまりは江戸っ子らしい。わたしはいま東東京在住なので、うちの近くの出身なのかぁと思う。
 さて、ゲラ作業に戻る。
 夜七時、東京の友人たちと約束していたオンライン新年会にアクセスする。ホテルのベッドにiPadをおき、ZoomでHISのオンラインのケニア・サバンナツアーに参加。Zoomの音声はオフラインにし、iPhoneでClubhouseにつないで友人たちと音声でおしゃべりする、という会だ。昼間買ったケーキの残りを食べながら、遥か遠くのアフリカのサイやシマウマをみつめる。文明の利器で世界はずいぶん近くなったなぁと思う。東京も、そしてケニアも、まるですぐそこにあるみたい……。

 翌日。二十八日、日曜日。朝食会場が臨時の大宴会場から一階のレストランに変わった。ホテルの前から、バレーボール選手と関係者をみっちり乗せた大型バスが二台、ぷぉん、ぷぉん、と音を立てて出発する。
 昨夜のオンライン新年会で東京との心理的なアクセスが戻ったようで、数日ぶりにSNSをチェックしたりする。
 インスタにはきれいな写真やおいしそうな料理のレシピが溢れている。あ、メッセージもきている。東京のカフェのスタッフだったお兄さんがさいきん大阪に引っ越したのだが、「週末東京に遊びに行くからご飯食べません?」と連絡してくれている。「いま地元に戻っていて」と返信する。
 Twitterのほうでは、様々な社会問題が提起されている。東京五輪に関わる森喜朗の女性蔑視発言に続き、議論が続く選択的夫婦別姓制度について、大臣を歴任した元国会議員の亀井静香が「愛しあってるなら姓を一緒にして一つになったほうがいい。全部一緒になったらいい。無理してあれすることはない。勝手なことをやってる人、一人のわがままに国家が合わせてはいられない。一億人以上いるのに少数派にはつきあえない。国家の恩恵を受けつつ、国家の行為に協力しないのは得手勝手であり、みんな天皇の子。相手があなたに身も心もあげるとならないのは、愛されていないからだ」という趣旨の発言をし、大問題になっている。
 て、天皇の子……?
 しかし考えてみれば、天皇制こそ究極の家父長制だよなぁと思う。我々の生まれ育った家父長制の家の一つ一つ……その頂点にあるのがあの家なのだ。
 そういえば、長子の愛子さまは女性だからやはり次期天皇になれないのかな。そこもいま議論が進められている問題の一つだ。
 同じ皇室の眞子さまの結婚問題についても、憶測記事があれこれ流れている。
 一方イギリスでは、ヘンリー王子とメーガン妃がアメリカのオプラ・ウィンフリー司会のトークショーに出演し、窮屈な王室のありようについて暴露するらしいとわかり、騒然となっている。
 ん? 元卓球選手の福原愛さんが台湾に夫と母と子供二人を置いて帰国し、男性と密会したという芸能ニュースも流れてくる。台湾南部は非常に封建的で、家族の繋がりが強く、夫の親の介入もあり日本人妻は苦労することもある、という説も一緒に流れてくる。
 お相撲の親方の妻が、十一歳の娘の目に虫刺されの薬ムヒを突っ込むなどの虐待を行う映像が公開され、非難轟々となっている。
 ネット上で「うっせぇわ」という曲がバズっているのだが、この歌詞について、「昔の尾崎豊などは大人に理解されることを期待したのに裏切られて苦しむ歌だったが、今の若者は最初からあきらめ、大人との間に線を引いている。〝分断〟がある」とする分析が話題になっているようだ。
 ……と、ちょっとタイムラインをスクロールしただけで、これだけの情報量が入ってくる。くらくらっとし、iPhoneをベッドの上においた。
 粛々とゲラ作業に戻る。
 やがて部屋の清掃の時間になり、一度外に出る。今日は天気が良く、太陽がうっすら見えているので、ホテルの窓から見える城山公園に登ってみることにした。
 公園の入り口に武家屋敷の門だけが残っており、古い門をくぐるとなぜかいきなりテニスコートが四面あった。両親は若いころテニスをしていたので、そういえばここにもよくきた。あのころは不思議に思わなかったが、いま見ると、武家屋敷の門をくぐったらテニスコートってシュールじゃないか……? と首をひねりながら、コート横にある石段を登り始める。確か一番上に城跡があったはずだ。
 緑に囲まれた狭い道に、整備工事の年配男性が三人おり、「こんにちはー!」と元気よく挨拶される。「こんにちは!」と負けずに朗らかに挨拶。と、通り過ぎてから、工事の人たちのそばで風景写真を撮っていた五十代ぐらいの女性が、大声で「これじゃ上のほうが密になーわ!」と言った。……えっ、わたしに言った? しばらく登り、中国山地と日本海が見える景色のいいベンチで休んでいたら、うっ、となり、ちょっと涙が出た。
 日本海の手前に、よく見ると医大病院のビルが見える。
 父はあそこにいるのだな。
 ぼーっと座っている。
 お父さん……。
 しばらくすると、さっきの整備工事のおじいさん三人が登ってきて、景色のいい崖のきわに、怖くないのか、両足をぶらんぶらんさせる大胆な姿勢で座り、お弁当を食べ始めた。「こりゃあ絶景だがー」という楽しげな声が聞こえてくる。
 と、一人が立ちあがり、こっちに歩いてきた。「これ持ってなさぁがな?」と、詳しい地図をくれる。同じのを何枚も持っているようなので、観光客にあげようと思って持参してくれたのかなと思う。お礼を言い、受け取り、工事していないおすすめの帰り道も教えてもらった。
 地図にはテニスコートがあった場所の歴史についても書かれていた。もともと城の二ノ丸で、屋敷と梅畑があった。昭和時代になると、屋敷と畑はなくなった。二ノ丸と下の三ノ丸を繋ぐ巨大滑り台ができ、ファミリーに人気に。その後、二ノ丸はテニスコートに、下の三ノ丸は野球場になった。野球場が移転し、いまは三ノ丸は空き地だ。
 城跡に登る。内海も見え、絶景だ。日差しの弱さのせいか海は黒っぽく、空も薄灰色ににじんでいる。木々の枝も節くれだってぐにゃぐにゃ伸びている。
 石垣の上に大きな石がぽつんとある。さっきもらった地図によると、〝忘れ石〟というらしい。なんでも〝誰がいつどんな目的でこの石をおいたのかみんな忘れたから〟ということだ。城壁の下にも似たような〝残念石〟があり、これは〝城壁の一部になりたかったと残念がっているように見える〟かららしい。〝とぼけたネガティブ〟に続くもう一つの県民性、〝けっこう適当〟を思いだす……。
 景色を堪能し、降りようとすると、ジャマイカ人のように見える若い男性が一人、大音量でレゲエ音楽をかけながら軽快に登ってきた。旅行者かな? 地元の人かな? よくわからなかった。
 帰り道は、石仏が無数にある暗い山道をいつまでもぐるぐる降りるという裏道だった。あぁ、こういう自然は落ち着くなぁ。鳥がちっちと鳴いている……。
 ようやく下界に降りると、高齢者養護ホームの裏口だった。建物の横をすり抜け、道路に出る。
 と、道路横に見上げるほど大きな石仏があり、ベンチに七十代ぐらいの女性がちょんと腰かけていた。「あんた、あんたー」と呼ばれ、「なんですか」と近づくと、「これに火をつけてくれんかなー」と、ゆーっくり、白い細い蝋燭を差しだされる。
 いつもはマッチ箱が置いてあるのに、今日は百円ライターしかなくて、火のつけ方がわからないという。風が強く、何度も消えそうになるが、なんとか無事につける。女性が線香を十本握り、火をつけながら「うちの孫がなぁ、そこの医大に通っとってな。でも医大を出ても国家試験に受からんと偽医者になるがな」「はぁ」「国家試験の結果は、いまはインターネットでわかるけん。受験番号を聞くのに、孫はどーしても教えてくれんでなぁ。だけん、ここで孫の合格をお祈りして……。あ、あんたも自分のことをお祈りしんさい。合格とか、就職の」「エッ」と驚きつつ、勢いに押されて自分も線香に火をつけ、お参りする。
 考えてみたら、ニット帽とマスクのせいで目の周りしか見えてないし、東京ではそう浮かないはずの少しだけ流行を取り入れたつもりのカジュアルな服装も、地元では四十代になって着る服ではないようだ。つまりわたしはいま一時的に年齢不詳な状態になっているのか、と思う。
 帰り道。能が好きな友人に今のくだりをLINEで送ると、「その話は何もかもおかしい。狐に化かされてたんじゃないの」と返信が来る。た、確かに……。偽医者になるとか受験番号がわからないという話も、わかったようなわからないような内容だし、もしかすると狐が人間の会話を聞いてざっくりと真似をしてたのかもしれない。わたしの年齢がわからなかったのも、狐だからかも。ということは……蝋燭に火をつけてくれと言われて断ったらバチが当たってたのか?
 そう考えだすと、「こんにちはー!」と元気よく挨拶して地図もくれた整備工事三人組は狸たちだったのかもしれないし、急に「密になーわ!」と大声を出した女性は河童だったのかもと思えてくる。
 そういえば、狸だったかもしれないおじいさんからもらった地図に〝城壁を作ったとき、崩れないようにと人柱を埋めることにした。夏祭りの盆踊りの最中に、町一番の美人として有名だった娘を攫い、城壁に埋めこんだ。以来この町では盆踊りを踊らなくなった〟とあった。伝統芸能が好きな人だし、昔話にも興味があるだろうと、これも能の友人に送ってみると、「なぜわざわざ盆踊り中に攫う?」と返信が来る。ご、ごもっとも……。
 ホテルに戻り、レストランでランチを食べ、部屋でゲラ作業の続きをする。と、能の友人から「いま電話で話せる?」とLINEがきた。机にiPadを立て、映像付きLINE電話で「はいはい?」と話しだす。
「鳥取どう? 空気きれい? ねぇ、山とか自然は?」
 と笑顔で聞かれ、さっき城山公園を歩いたばかりなのだが、ゲラ作業のこともあって気もそぞろで、「あぁ、うん……。それどころじゃなくて、とりあえず駅前のビジホにいて、いま休んでる」と答える。
「そっか。だよね……。あのー、さっきの話だけどさ」
「何?」
 つい不審げになる。何の話したんだっけ?
「わっ、声低っ。あのほら、鳥取の城壁を作るときに人柱を埋めたっていう言い伝えの話。気になって検索したら、すぐ近くの別の場所にも別の人柱の言い伝えがあってさ。鳥取、人柱多いねー。〝猿土手橋〟って知ってる?」
「あぁ、中学んとき、自転車通学で毎日渡ってた、ちっさい古い石橋だけど」
「なんでも、江戸時代、土手を作っては梅雨時に流され、田んぼが被害にあって大変だったんだって。そこである年、村人が新しい土手に人柱を埋めようと決めた。でも誰を埋めるかの話し合いがまとまらず、『明日の朝一番に通った人を埋めよう』ということになった。で、夜明けから隠れて待ってたら、たまたま猿回しの旅芸人が通りかかった。そこで村人は猿回しを捕まえ、肩に猿を乗せたまま、土手に埋めちゃった。以来、水害は起こってないんだって。いやぁ、猿回し、さぞかしびっくりしただろうねぇ」
「ふーん……?」
 と思わず腕を組み、首も横にひねる。
「何。声、さらに低っ」
「あの、それ、たまたま通りかかったんじゃないと思うよ」
「え、どういうこと?」
「そっか。都会の人にはピンときづらいのかな。わたし、地元の風土のことですぐわかった。あのねぇ、おそらく、そのお話の真相は……」
「何?」
「村人は最初から、よそ者を人柱にして埋めるつもりだったんだと思う。村中に明朝は土手を通らないようにとひっそり連絡が回ったと。だから誰一人家から出ず、固唾を呑んで事が終わるのを待っていた」
「って……『悪魔のいけにえ』かよ! めっちゃ怖いよ、何それ!」
「それどころか、もしかしたら村人は、夏祭か何かで旅芸人がやってくることを最初から知っていたかもしれない」
「真顔、その、変な真顔やめて」
「美しすぎる娘、よそ者、異能者、マジョリティとは別の生き方をしようとする者は、共同体に変化を促し、平穏を乱してしまう。だからみんなで穴を掘って埋めちゃうんだよ」
「えええっ」
「より良い状態に変化するのではなく、現状維持することが共同体における正義である以上、異分子であることは罪人であることと同義とされる」
 友人はしばし黙りこんでから、
「そういうのんびりとぼけた話し方で、物騒なことを言うよね。あんたって前からそういうとこあるわー……」
 とつぶやき、iPadの中の映像で顎をコリコリとかいた。
「この猿土手橋の話もだけどさ。鳥取県の民話がまとめられたサイトをみつけて読んでたら、動物が出てくる残酷なお話がいっぱいあって、つい読みふけっちゃったよ。狐が人間をだまそうとして失敗し、逆に尻を焼かれ、泣きながら冷やした尻焼川とか。猿が重い臼を背負ったまま川にぶくぶく沈んじゃう話とか。……ん? 急にびっくりして、どした?」
「臼を背負った猿が沈む話、知らないの? ずっと全国的に有名な民話だと思ってた」
「ちょっと、嘘でしょ」
「『ウサギとカメ』、『カチカチ山』、そして『猿と臼』」
「えー、さすがにないよ。何言ってんの」
「そうだったか……。でもさー。これまでずっと、明るく面白い口調で、血生臭く残酷な小説を書くのって、自分の作風だと思ってたんだけど、こうしてみるとこの辺りの風土だったのかって気もしてくる」
「あ、まさに!」
「この土地出身のクリエイターって、『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげる、『名探偵コナン』の青山剛昌、映画監督の岡本喜八、小説家の尾崎翠、アニメ会社『ガイナックス』の創始者の人たち、写真家の植田正治……。考えてみたら、みんな陰がある作風かも……」
「だね。移住者では小泉八雲もいたよねぇ?」
 そんな話をしばらくし、LINE電話を切り、またゲラ作業に戻った。


 翌日、三月一日月曜日。
 明け方、ホテルのフロントから『東京ディストピア日記』のゲラを河出書房新社に発送した。
 少し寝て、起き、朝日新聞読書欄の連載「古典百名山」の書評を書いた。
 昼過ぎに、また城山公園に登ってみた。
 平日だから昨日より空いていた。空は今日も低い。薄灰色の重たさでしっとりと垂れこめている。遠くに医大病院が見えるベンチにまた座り、あの建物に父がいるのだと思って、長いあいだ眺めていた。
 一番上の見晴台に行くと、わたしの他には六十がらみの男性が一人しかいなかった。すれ違いざま、あれ、どこかで見たような顔の人だなと思ったが、そもそもこの土地に多いタイプの顔立ちだしで、誰だったか思いだせなかった。
 なぜかわからないが、ずいぶん昔、誰かから〝仮面は素顔に張り付く〟という話を聞いたことを急に思いだした。確か、ポーズをとって世間を欺いているつもりでも、そのポーズがいつしか自分の本質を侵食していく、という助言だったと思う……。
 ホテルに戻ってゆっくり休む。
 午後二時半、リモート面会を終えた母から電話があった。父の意識があり、たくさん話しかけたと言う。朝日新聞出版から『火の鳥』の見本が届いたので、画面越しに見せたとも話している。
 母の話を聞き終わり、父の容体について、正直どうなのか、と質問した。母曰く、「先生から、意識があるのは長くてあと一週間だろうと言われたのが先週月曜で、今日でその一週間が経ったところだ」とのこと。
 明後日に一度帰京するという仮の予定でいたのを延ばそうと考える。
 電話を切り、朝日新聞出版の編集者に、見本が届いたお礼と、四日に東京で予定していた対面インタビューをリモートに変更してもらいたいこと、同日のサイン本作りを延期してもらいたいこと、ホテル宛に見本をもう一冊送ってほしいことをメールで告げた。東京のペットホテルに電話し、犬の延泊をお願いした。能の友人にも植物の水やりをLINEで頼んだ。それから深呼吸し、必要な連絡を忘れてないよなと心の中で指差し点検した。
「週刊文春WOMAN」編集部から、タレントの稲垣吾郎さんとの対談原稿が届いていた。頭がぼーっとしているが、『火の鳥』についての話題もあるし、手塚治虫先生や、ファンの方や、手塚プロに、うっかり失礼な言い方をしてしまっているところがあったら取り返しがつかない。三度、四度と読み返し、チェックする。
 作業が終わると、もっとぼーっとする。Kindleに手を伸ばし、手塚賞候補作の漫画をぼんやり読む。『カフェでカフィを』が好きだなぁ。どんなときに読んでもほんのりした気持ちになれる漫画なのだな。
 夕方。こういうときはおいしいものを食べようと、ホテル一階の和食レストランに入る。まだ開店直後の時間で、客はわたしと三十代ぐらいのビジネスマン風男性の二人だけだった。メニューを一通り見て、名物の松葉ガニつきレディースセットを頼む。
 斜め向かいの席の男性は「大山鶏のからあげと水をください」と注文している。ほどなくその席にからあげのお皿と水が運ばれてきた。男性はすっと背筋を伸ばし、付属の塩を手馴れた優雅な手つきでかけ、からあげを一つ箸でつかんで持ちあげ……。サクッ! からあげ粉のコマーシャルみたいな音がした。味わい、楽しみ、噛み締めている気配がする。……もしかしてからあげブロガーの方かな、とちょっと思う。開店直後の客だし、この後からあげのあるお店を一晩で何軒も回るのかも?
 と考えている間に、わたしの前にレディースセットが運ばれてきた。天ぷら、お刺身、サラダ、松葉ガニがついている。お刺身を食べ、白米を少し食べ、てんぷらを食べ……。鮮やかな朱色をしたカニの脚に手を伸ばした。ぼんやりとカニの身をほじっていたら、急に涙が出てきて、急いでおしぼりで顔を拭いた。
 山陰地方は松葉ガニが名産だが、考えてみると、わたしは自分でほじってカニの身を食べたことがほとんどない。子供のころ、父がカニの脚を全部ほじってくれ、甲羅に身とカニ味噌にしいたけやねぎのみじん切りを混ぜて網で焼いて出してくれた。
 父は優しく、穏やかな人柄だった。怒ったり感情的になることがあまりなかった。
 高校生のころ、学校から帰ったら、めずらしく父が機嫌悪く、玄関に小さな菓子折りが放りだされていたことがあった。「保険屋がきた」と言葉少なに言う。気になって聞くと、「子供が死んで保険金が入って喜ぶ親がいるか!」と怒っていた。おそらく家族全員に死亡保険金をかけるコースを勧められたのだろう。外部の人に対して怒りを表明したのを見たのはこのときぐらいか。
 カニをほじりながら、涙がとめどなく出てくる。
 父は一家の長として、わたしのことを、守るべき者、いちばんか弱い存在だと感じていたと思う。
 その後、大人になって東京に出て作家になったわたしのことを、父はどう解釈していたのだろう?
 もし息子だったら? でも女だからなぁ。
 ――どうであっても、わたしは、自分自身としてしか生きられなかったのだが。

 翌日、三月二日火曜日。
 わたしのリモート面会の日であり、予約した午後二時に病院に向かった。面会用ブースに入ってiPadを覗きこんでいると、母から電話があった。「先生から病室に上がるようにと連絡があったから、スタッフさんと上がっておいて。自分もこれから車でそっちに向かう」と言う。最大一週間と言われたその一週間が過ぎ、いよいよなのか。「東京からきた人は院内に入れないはずだけど、検査も受けてホテルに泊まって対策していることを評価して、入れてくれるみたい」とも言われる。……帰省したときビジネスホテルに泊まるのは、コロナに関係なくいつものことなのだが、いや、それはいまはいいか、と首を振る。
 母は「気を強く持って」とまたわたしを気遣っている。それから「お父さん、世の中がコロナで、一人で入院してた。一人ぼっちじゃないってわかるようにいっぱい話しかけよう」と言う。「わかったよ」と答える。母はこんな人だったか、と思う。
 スタッフさんに上階の病棟に連れて行ってもらう。手を石鹸で洗い、消毒もする。女性の看護師さんが、確か、父は敗血症を起こしているので、菌が出ており、健康な人は問題ないが免疫が落ちている人には危険があるというような話をしてくれたと思う。一瞬はっとするが、父に会いたいのでついていく。
 病室の父は意識がないように見えた。その手を握り、「お父さん、きたよ」と呼ぶ。聞こえているかわからないが、「ずっと近くにいたよ」「城山公園に登ったよ。テニスコートがあって。お父さん、テニスすごく強かったね。一緒に楽しかったね」「公園からこの建物が見えるから、見てた。あそこにお父さんがいると思って見てたよ」と話しかける。
 ほどなく母もきた。父の顔に近いほうにわたしを立たせ、手を握り、「お父さん、お父さん」と話しかける。「手を握ったらぎゅっと握り返してくれた」と言うので、顔に近いほうの場所がよいのではと、母に譲った。父は母のものだからだ。母は父の耳元で「お父さーん」と何度も呼んだ。大きな声で「お父さん! よくなって、帰るよ!」と母が言うと、父がはっとし、目を見開き、ぐっ、とおおきくうなずいた。
 母は『火の鳥』の本を持ってきており、「本ができたよ。元気になったら読んであげる。帰ろう。帰るよ!」と言う。
 このように父と母はしばらく意思の疎通ができていたが、ほどなく父がまた眠り始めた。
 男性の主治医と話すことになり、母と二人で診察室に入る。先生がわたしに向けてていねいに状況を説明してくれる。このあと心臓が止まったとき、人工的に蘇生するか、苦しい思いをさせずそのままとするかは、家族の意向によるとのことで、わたしの意思を聞かれる。自分としてはずっとそばで支えてきた母の気持ちを立てたく、母に向かって「お母さん、お父さんがなるべく苦しくないように……?」と聞くと、母もうんとうなずく。改めて先生に、むりな蘇生はしないという自分の意向を伝える。
 今夜は二人で控え室に泊まりこむことになる。
 母がソファに座りこみ、「お父さんはこれまで何度も危なかったけど、ぶじに連れて帰った。いまもお父さんと一緒に帰るつもりでいる。だから何も用意をしてない」と言う。注意深く、その顔を見た。本当の話をしているとわかる。「わかったよ。ともかく今夜ここに泊まることだけは確実だから、いまはそのことだけ考えよう」となだめると、ぱっと明るくなり、「そうだね! 明日は明日の風が吹く、だね」と答える。……ん、今のは、あれ、スカー……レット……と思うが、非常時であり、目の粗いザルを通すように、必然のこと以外はさらさら流れていく。
 エレベーター前の自販機でほうじ茶と緑茶を買って、母に好きなほうを選んでもらう。
 そして一息ついたタイミングで、親戚に連絡したのかを確認する。すると、してないと言う。父の長兄と次兄の家にはしたほうがよいと説得する。四人きょうだいで妹はだいぶ前に亡くなっている。父は『GOSICK』の一弥のような心優しい三男坊なのだ。母は渋っているが、わたしもここだけは必要なくだりだと、粘る。「お母さん自身のために連絡したほうがいい。亡くなってからするのと亡くなる前にするのでは後がちがうと思う」と言うと、母は渋々電話しだす。が、長兄にも次兄にもなぜか「娘の冬子が帰ってきてまして。冬子がかけたほうがいいというのでかけてます」と二回ずつ言う。なぜそこを強調するのかは、わたしにはわからない。
 父の兄たちは高齢で、コロナ禍でもあり、市をまたぐ移動は急には難しいとわかる。
 壁時計を見上げると、もう夕方になっている。母は近くの高齢者ホームに寄り、祖母に話すと言う。それから家に帰り、飼い猫に餌をやり、泊まりの荷物を持って病院に戻ると。「家で手伝うことはな、い……」と聞く途中で、被せ気味に「ない。家にはこないでね」と言うので、引き下がる。
 わたしもホテルに戻った。風呂に入り、着替え、隣のファミレスに電話し、暖かいお弁当を二つ予約した。急いで部屋を出ようとすると、誰かにドアをノックされた。つい「はいっ!」と勢いよく返事して開けてしまう。
 と、洗濯を頼んでいた服を入れた袋を持った女性スタッフが、びっくりしたような顔で立っていた。しまった、つい東京の言い方で返事をしてしまった……。「大きな声ですみません」と謝り、袋を受け取る。
 せっかくなので洗い立てのスウェットとコーデュロイのパンツに着替え、病院に戻る。
 ファミレスのお弁当、ホテルの冷蔵庫から持ってきたジュースなどを並べていると、ほどなく母も戻ってきた。お弁当を勧め、お茶を買ってくる。
 ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。
 父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。驚いて声を飲みこんだ。
 記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。
 不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。離婚の話が出たことなど具体例を挙げてみるが、「そうだったっけ?」と不審げになる。それから急に目を光らせ、「人の記憶って、その人によって違うね?」と言った。
 瞬間、母とわたしが同じ過去の〝ある時〟……七年前に最後に会った時のことを思いだしているとわかったが、いま対立するのは不毛だと、「ふーん……?」と目をそらした。
 それから、
「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」
 と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。
 続いて祖母の話になった。母は「高齢者ホームにいるおばあちゃんを訪ねるのが何よりの楽しみなの。喧嘩ばかりだけど、長年のことで、楽しい」と弾む声で言った。それから声を落とし、「気がついたんだけどね。わたしの一番の親友は……」と、一度言葉を切った。海外ドラマでいう、ワンミシシッピ、ツーミシシッピ、スリーミシシッピ……十秒ぐらいの沈黙のあと……「おばあちゃんだったのよ!」と急に大きな声を出した。「そうなんだね」と返事をする。
 遠縁の若い女性の話になる。飲食店で給仕をしており、母が「そんな仕事をしていてかわいそうで」と言うので、とっさに意味がわからず……昔の人だから水商売に偏見があるのかな……と首をひねっていると、「東京の冬子ちゃんの秘書にしてあげようとしたんだけども」「ふー……えっ?」「その後、大きな会社に就職して安心したの」「そうなんだね……」と、目の粗いザルを有象無象がすり抜けていく。
 そういえば、ずいぶん前、母自身が「東京に移住して冬子の秘書になる」と言っていた時期があった。どういう業務を想定してのことかなど、わからないままになっている。
 二十歳のころから、北海道でペンションを経営したいと言っていた母方の従兄が、去年一日一組限定のラグジュアリーで素敵な小型ホテルをオープンしたと教えられる。「あんたの直木賞の授賞式の帰り、『あの冬子が夢を叶えられたんだから、俺もがんばる』と言ってたのよ。後で聞いたら、『俺そんなこと言ったっけ?』って忘れてたけど」と母が言う。また、中学の同級生の女子が三年前に市会議員になったという。母は「みんな、冬子ちゃんがこの小さな町を出て、作家になった、夢を叶えたのを見て、自分はだめだ、やりたいことがあっても実現できないだろうとあきらめてたのを、いや、自分にもできる、あの冬子にだってできたんだからと、あのあと踏ん張ったのよ。みんながいま幸せなのは冬子ちゃんのおかげなのよ」と少し震える声で言った。……わたしは、自分の仕事と、ほかの人たちがそれぞれにがんばったことは、全く異なる独立した点と点であり、それを、母がペンを握って無関係な点と点を結んで自分なりの線を作ってしまったように感じ、目の粗いザルにも、その不当かもしれない線が引っかかり、(いや、この説は母の希望による想像であり、今のところファクトがない。限られた情報だけで無批判に受け入れ、わたしのおかげだなんて思うのは、彼ら自身の選択に対して無礼だ。他者に対する尊厳に欠けている)と判断した。でもその考えを口にせず、「ふーん……」と言った。
 母は父を支え、この二十年を過ごしてきた。その多くの時間、いま心の中でご立派なことを唱えているこのわたしはいなかった。それなのに、非常時であるいま、あれこれ正論を言って母を諭したりするのは、内容が正しくても、間違った行為だと感じた。今は父のために母を支えなくては。わたしは、沈黙した。
 夜勤の看護師さんから「コロナ禍であり、泊まり込みはできない」と聞く。一度帰宅し、明朝また戻ってくることになる。母は何時ならよいか聞き、午前四時に戻ると言う。看護師さんがもしその前に容体が変わったら連絡すると約束してくれる。
 夜十時半ごろ、わたしはホテルに、母は自宅に戻った。ホテルの部屋で風呂に入り、お湯を沸かして備え付けのカップヌードルに注ぎ、一気に飲んだ。ポップコーンもあったので食べた。少し寝ようと思ったが、眠れない。ストレスの心配をしてくれた医師の知人とLINEでやり取りする。「聞いた限り、ここまですべての選択が正解だと思う」と言われ、急にほっとする。それならこの後も役目を全うできるだろう、と。
 深夜一時過ぎ、うとうとする。と、スマホに着信が入る。見ると母からだ。時間は一時二十五分。「病院から連絡があったから向かう。ホテルに寄るから玄関前に出ていて」と言う。顔を洗い、コンタクトレンズを入れ、レンズケースと眼鏡を持ち、寒いのでしっかり着込み、ホテルの玄関に出る。
 十分ほどぼんやり立っていた。
 暗く、静かで、寒く、誰もいなく、一人。
 と、車がきた。
「この車、おばあちゃんに買ってもらったのよ」
「ふーん……」
 ホテルからは徒歩でも五分なので、すぐ病院に着いた。
 二人で手を石鹸で洗い、消毒し、病室に入る。女性の看護師さんが、父の脈拍がゆっくりになってきたと言う。母が父の顔近くにわたしを立たせ、父の手を握って「お父さーん、お父さーん」と呼ぶ。わたしも父を呼ぶが、ふと「お母さん、場所変わろう」と言う。母が顔近くに立ち、耳元で「お父さーん、お父さーん」と呼ぶと、心電図の脈拍が少し上がった。……あぁ、聞こえているのだ。二人の間で意思が疎通していると思う。
 看護師さんが一度離れる。
 母がトイレに行く。母がすぐ戻ってきて、しばらくして看護師さんも戻る。わたしがトイレに行き、すぐ戻る。
 脈拍がすこしずつゆっくりになる。看護師さんが「ゆっくりゆっくり止まっていく時と、急に止まるときがあります」と説明してくれる。看護師さんはもう病室を離れなくなる。母に「さっきお母さんが呼んだら、少し上がったね。聞こえてるのかな」と話しかける。母が「お父さん、お父さん!」とまた言う。
 母と何か忘れたが何か話しているとき、とつぜん心電図の数値が見えなくなり、波型が直線になった。えっ、と驚き、母とわたしはぽかんとしているが、看護師さんは落ち着いて「はい……」とうなずく。心臓の鼓動を聞き、母とわたしが理解したのを無言で確認してから部屋を出ていく。ほどなく男性の当直医さんが入ってきて、聴診器で心臓の音を確認し、母とわたしに向かい、背筋を伸ばし、うなずいて、壁時計を確認し、「午前二時五十五分、ご臨終となりました」と低い声でゆっくり言った。
 当直医さんはまだ二十代半ばぐらいで、わたしの子供でもおかしくないような若者だった。声が少し震え、緊張を感じたが、敬意を持ってこの場のために職務を全うしてくれているのが伝わり、感謝の気持ちを持った。
 一度、控え室に戻る。
 しばらくして、準備ができたと呼ばれ、病室に戻る。看護師さんによると、父の頭の下に吸水シートを敷き、髪にお湯をかけてシャンプーするという。入院生活で髪を洗えていないから、ということだろうか。母が「お父さん、気持ちいいね。あったかいね。よくこうして髪を洗ったねぇ、お父さん」と父の髪を洗っている。何か手伝う必要が出たときのため、傍で待機する。
 この儀式は残された家族の心のケアのために考えられたのだろうか? 病院はここまでしてくれるのかと驚き、また感謝の気持ちを持つ。
 シャンプーを終え、ドライヤーで乾かす。看護師さんと母が「髪を長く伸ばされてたんですね」「ええ。さいきんはずっと、長いのが好きで」と話している。亡くなってからも物体ではなく一人の人間として扱ってくれることに安堵する。
 この後は葬儀屋さんに連絡し、車で迎えにきてもらわないといけない。
 病院が紹介してくれる葬儀屋さんにお願いすることになり、母が病室から電話をかける。「自宅はいやなので、別の場所があるでしょうか」と心配そうに聞いている。
 十年以上前から、母は実家にわたしをなるべく入れないようにしていた。帰省したとき駅前のビジホに泊まるのは、コロナに関係なく以前からのことだ。年末年始に帰省し、一人でビジホに泊まるのは、正直気が重かった。実家には夕飯時に訪ね、食事して、居間とトイレだけを使っていた。
 一軒家の二階にあるわたしの子供部屋だった部屋は、母が使うようになっていたのだが、最後に二階に上がったとき、部屋の壁すべてと、勉強机と、ベッドサイドに、筆記体のような読み辛い文字を書いた大小様々な付箋が『耳なし芳一』の昔話みたいに隙間なくびっしりと貼ってあった。
 いま実家の内がどうなっているのか、わからない。
 葬祭会館のお部屋を借り、父を安置し、お通夜もここで行うことになる。
 控え室で母と二人、葬儀屋さんの運転手さんを待つ。
 このとき母が、寂しいから地元に戻ってきてくれという内容を言い、「申しわけないけれどできない」と答えた。不可能なことはそう意思表示せねばならない。身を守り、状況に流されず、今の責務を果たそうと歯を食いしばる。
 午前五時ごろ、男性の運転手さんが到着。母と二人、父とともに病院を出た。
 主治医の先生がわざわざ起きて駆けつけてくれ、見送ってくださった。
 葬儀屋さんの車にわたしが乗り、母は自分の車で後をついてくることになった。
 車に乗りこむ。
 父が不安かもと思い、「お父さん、わたしがそばにいるからね」と小声で言った。


 明け方。
 郊外の静かな道路沿いにある葬祭会館に着いた。平屋建てで、びしっと清潔で、おそらく広さが様々な四つか五つの部屋があるようだ。
 二十畳ぐらいの広い和室と、廊下で繋がる四畳半の和室の二間がある部屋に通される。若い男性の葬儀屋さんが二人いて、広い和室に父を安置し、横長の机や座布団を出してくれた。机に香炉やお線香などがきちっと並べられる。一人が蝋燭に火をつけ、わたしのほうを振り返り、「お線香をどうぞ」と言った。
 きれいに整えられた香炉を見て少し考え、「えぇと……母を待ちます」と答えた。
 母がようやく着き、入ってきたので、状況を説明して「お母さんお線香を……」と言う。
 母に続いて自分も線香に火をつける。
 葬儀屋さんたちが「御愁傷様です。我々はこれで」「午前九時に担当者が参ります」と帰っていく。
 時計を見るとまだ午前六時前だ。
 車の窓から近くにコンビニがあるのを確認しておいたので、建物を出て歩いていき、コーヒー、お茶、サンドイッチ、お握りなどを買って戻った。
 母は「コンビニのサンドイッチっておいしいのねぇ」と驚きながら食べている。コーヒーを飲んで一服すると、「猫に餌をやるから家に帰る。あなたもホテルに戻ったら? 車でホテルに寄って下ろしてあげる」と言う。おどろき、「ここにお父さんを置いていけないよ。自宅ならともかく……。お母さんが戻ってきたら交代してホテルに戻るから」と言うと、母のほうもきょとんとする。
 母が出ていき、一人になる。
 父のいる広い和室に布団を敷き、休もうとした。床からしんしんと冷え、凍える。ダウンコートを着込み、布団にもぐり直す。「お父さん、そばにいるからね。お母さんもすぐ戻ってくる」と声をかける。
 午前九時、眼鏡をかけた三十代ぐらいの男性の葬儀屋さんが入ってきた。母が戻ってきたら打ち合わせをすることに。
 十時過ぎ、祖母に買ってもらったという母の車が葬祭会館の駐車場にすすーっと戻ってきた。改めて葬儀屋さんを呼び、四畳半のほうの部屋で細かいことを決めていく。
 明日の三月四日は火葬場がいっぱいなので、最短でも五日に火葬される。なので明後日まではここに安置されることになる。
 母は父が亡くなったことをすぐには周りに言いたくない、新聞記事や看板を見て知人に集まってほしくないと繰り返し、葬儀屋さんも「承りました。そこはきちんとします」となだめてくれる。つまり、ずっと母とわたしの二人ということか……。
 お寺の宗派の話になり、父の実家は浄土真宗だから……というくだりで、わたしがはっとして「お兄さんたちに連絡した?」と聞くと、母が「まだ。いましよう」と携帯電話を取りだす。
 長兄と次兄の家に、やはり今回はだめで、昨夜遅くに亡くなったこと、コロナ禍でもあって集まってくれとはいえないので「葬儀は冬子と二人で行います」と話す。ようやく母が電話を切ると、葬儀屋さんが「いまのご様子だと、親戚のみなさん仲がおよろしいようですから、それでしたらこういう形も考えられます」と助言してくれた。一つは、霊柩車で親戚の多い市まで行き、皆とお別れして、お骨にし、親戚もお世話になる向こうのお寺に納骨する。もう一つは、こちらでお骨にし、我々が骨壺を持って移動し、お寺に親戚が集まって納骨する。……スマホでお寺を検索すると、納骨堂は五十万円と書いてある。「お母さん、五十万円だって」と囁く。
 母がもう一度長兄に電話し、相談する。結局こちらでお骨にし、向こうのお寺に行き、みんなでお別れすることになる。お寺にも電話し、六日のお昼からお願いできることに。長兄と次兄の家に改めて電話し、報告する。
 ここまで決まると、葬儀屋さんが五日の火葬の予約を取ってくれた。続いて納棺師さんを予約。今日午後二時から父を整えてくれるという。
 おおまかな流れが決まり、とてもほっとする。
 この後もさまざまな選択が待っている。棺、骨壺、花、香典返しの品などなど……。香典返しに一筆添える文章をオリジナルにする場合は、ライターさんが母の話を聞いてまとめてくれると言う。母が一つ一つの選択のたびに「どれがいいかな?」と聞く。意見を待つと、「これがいいよね」と言うので、「そうだね。わたしもそれがいいと思う」と肯定する。
 遺影は普段着の写真なのだが、スーツやネクタイが合成できるという。母が熟考し、紺のストライプのスーツと無地のネクタイを選ぶ。背景も選べ、青空と桜のものになる。
 ――儀式は生きている人のためのものだから、母が心から満足し、心残りのないものにせねばならない。注意深く母の意向を察知してアシストするのが役目だと考える。
 ようやく全部が決まると、もうお昼を過ぎていた。葬儀屋さんが「早速手配します」と出ていき、母も高齢者ホームに行って祖母と話してくるとまた車で出発した。
 一人になる。
 え?
 えぇと……六日に遠くのお寺に行くから……? 翌七日は日曜日だから……? と考え、八日月曜日に帰京するという仮の予定を立てる。iPadで朝日新聞出版の編集者さんにメールする。四日から六日まで仕事ができなくなったこと、八日に帰京予定のこと、四日に予定していたリモートインタビューは、日曜で申し訳ないが七日にリモートとするか、八日以降に東京で対面とするかでリスケしてほしいこと。サイン本作りも八日以降でお願いしたいこと。
 ペットホテルにもさらなる延泊をお願いする。
 能の友人にも、父が昨夜亡くなったこと、植物の水やりをさらに頼みたいことをLINEで送る。
 ほっとしたところで、市内の知らない番号から電話がかかってきた。泊まっているビジネスホテルからで、「本日チェックアウトのご予定ですが、部屋にお荷物がまだ……?」と言われ、自分自身の延泊のことだけまるっきり忘れていたことに気づく。平謝りし、八日までの延泊をお願いする。
 休もうと、またダウンコートを着込み、布団に潜るが、そうそう眠れない。
 午後二時、納棺師さんが到着。若い男性と女性の二人組だ。
 男性のほうが代表して説明をし、具体的な施術は女性が中心に行うらしかった。この女性が、化粧っ気がなく眼鏡をかけているのだが、色っぽいことに気づく。急に(壇蜜さんの前職は葬儀屋さんだっけ、納棺師さんだったっけ……?)と考えだす。
 父は敗血症だったので、皮膚が傷まないよう湯灌は行わないことになる。手足をきれいに包んでもらい、髪をまた洗い、わたしが呼ばれ、濡れた顔をわたしが布で拭いた。病院もだったが、こういったことに家族を一部参加させてくれるのは生きている人の心のケアのためなのかな、と思う。
 女性のほうが、通常は三途の川を渡る船賃の六文銭をお棺に入れるのだが、浄土真宗は入れないことになっているので、入れなくてよいかと聞く。無断で決められないと思い、母に電話する。母は高齢者ホームで祖母と会っているところで、「お金はないよりあったほうがいい。入れてもらって」と言うので、そのまま伝える。
 奥の四畳半から遠く見ていると、お顔の化粧が終わったと呼ばれる。男性の納棺師さんが「お化粧した顔が見慣れないと思われる方もいらっしゃるので。ご要望の通り直しますので」と少し不安げに言う。父の顔を覗きこむと、目の周りの皺や窪みが消え、大きな目と高い鼻、彫りの深い顔立ちが現れている。「あっ」と思わず声が出る。
「お父さんだ!」
 跪き、じっと見る。
「あぁ、お父さんだわ。若いころの。病気になる前のお顔ですわ……」
 驚いて振りむく。女性の納棺師さんが「目の周りの腫れが引いたので……」などと説明してくれる。男性の納棺師さんが「美形ですね。目鼻立ちがしっかりなさってて」と褒めてくださる。
 気を遣ってよく言ってくださったのだとは思うが、確かに父の家系はみな、大きな丸い目と高い鼻梁のくっきり華やかな顔立ちをしていた。山陰地方の人の顔立ちには大きく分けて二種類あるとわたしは常々思っており、父の家系は、この地方出身の著名人で例えると、俳優の山本舞香、プロテニスプレイヤーの錦織圭のような彫りの深い顔を持っている。従姉妹たちの派手な顔立ちが子供のころうらやましかった。そしてもう一つの系統は、面長の瓜実顔で、俳優の蓮佛美沙子、佐野史郎などが思い当たる。わたしの顔もこちらの系統だ。昨年、コロナ禍で水木しげる先生の描かれた疫病退散の妖怪〝アマビエ〟が一大ブームになったとき、「あら、地元の顔の妖怪だが。おデコが丸く出てて、口がちょんと尖ってて、面長で。いかにも何か言いたげな顔つきをしとんなさるわ」と思ったのだった……。
 わたしが父の顔をじっと見ていると、男性の納棺師さんが「まだ聞こえてらっしゃいますから、話しかけてあげてください」と囁いた。お仕事柄からの発言ではなく、信念があり、本当にそう思っていらっしゃることが感じられた。
 顔を上げ、うんと頷き、
「ありがとうございました」
 と頭を下げたら、どっと涙が出た。
 医療従事者、葬儀屋さん、納棺師さん……。世の中に直接必要な仕事、人間の生死に関わり、残された人たちの心を救う仕事、こういった聖職につき、今日も働いている世界中のたくさんの人たちのことを思った。
「敗血症の場合は、変化されるので、気になることがあったら直しに来ます。遠慮なくご連絡ください」
 と言い、納棺師さんたちは辞した。
 わたしは穏やかになった父の顔がすっかり気に入り、お棺のそばに座ってあれこれ話しかけた。夕方にかけ、お花屋さんが花を持ってきたり、遺影が届いたりし、お棺の周りが華やかになっていった。心も明るくなり、こうして父といられてうれしかった。
 一度、誰もいないのに物音がし、廊下に出たが、べつの部屋はどこも誰も使っていなく、気のせいのようだった。
 夕方四時ごろ、母が戻ってきた。花や遺影が揃っているのを見て、母もうれしそうにした。父のお化粧のことも言ったが、そちらはちらっとしか見たがらないので、話すのをやめ、感情があまり漏れないように気をつけた。
 お茶を淹れ、四畳半のほうで休む。
 母は、父のいない家に帰るのも寂しいので、しばらく祖母の高齢者ホームを一部屋借りようと思う、と言う。シェアハウスのようなホームで、ワンルームの部屋で過ごし、食堂でご飯を食べ、広間でみんなでくつろぐという形らしい。短期でも入れるから予約しておいた、と。
「自宅は売るか賃貸に出すかもしれない」と言うので、「片付けが大変だから、わたしも、手、伝……」と申し出る途中で、母がまた被せ気味に「いい。こないでね」と首を振る。……散らかっているのを気にして見せたくないのだろうか。気になりつつ引き下がる。
「ところで冬子ちゃん、かんちゃんのことを覚えてる? こっちの市に仕事できてて、かなり忙しいけど顔を出せるかもって」
「かんちゃん……?」
 確か父の遠縁の若者で、わたしが小学校低学年のころ、ときどき家に遊びにきていた人だったと思う。わたしからするとワカメから見たノリスケさん的なお兄さんだったような……?
 母と交代し、ホテルに戻る。
 フロントで延泊の分のカードキーを受け取る。宅急便も届いている。あ、『火の鳥』の見本だ。部屋に入り、風呂に入り、下着を洗って干した。ホテルの隣のスーパーでお弁当や果物を買い、タクシーを呼び、すぐ葬祭会館に戻る。
 わたしがいない間に、香典返しに添える文章を書くため、ライターさんが母に電話取材してくれたらしい。母はいろんな話をたくさん聞いてもらえたと声を弾ませている。葬儀屋さんが遺影を「北大路欣也そっくりですね。整ったお顔ですねぇ」と褒めてくださったらしく、そのことも喜んでいる。
 母がお弁当を食べ、猫の餌やりのために自宅に戻り、わたし一人になる。
『火の鳥』を持ってきたので、棺のそばにおく。父の分のお茶も淹れ、果物とお菓子も添える。
 夜十時ごろ、母が戻ってきた。
 お茶を淹れていると、母が戒名の話をしだした。父は生前、高価なものはいらないと話していたという。電話で長兄に聞くと、長兄も値段にはこだわらない考えだった、と。「考えてみたら、おじいちゃんはこだわりそうにない人だったけど、意外と、高いのがよいと言うので、そうしたの。お父さんのほうのおじいちゃんもそうだったらしい」「へぇ、二人とも?」「そう」「どちらも意外に思えるね。それって、個人の考えというよりも世代じゃない? おじいちゃんの世代の人はこだわり、お父さんの世代の人はもうそんなにこだわらないとか……?」と言う。
 昨年のいまごろ、コロナ禍でトイレットペーパーが不足するというデマがネット上で拡散され、全国的な買占め騒動が起こったのだが、母が「あのデマを流したの、すぐ近くの人よ。あれで職場を首になったの」と、本当かはわからないがそう話す。えーっと驚く。
 この夜は、母は四畳半に、わたしは広いほうの部屋のお棺のそばに布団を敷いて眠った。
 緊張の糸が切れ、ぐっすりと熟睡した。

 翌日。三月四日、木曜日。
 いつも曇り空に覆われているこの地方には珍しく、天気が良く、日差しも明るい。
 朝、コンビニに歩いていき、コーヒーやサンドイッチやおにぎりを買いこんだ。母はタマゴとハムのサンドイッチを気に入り、もりもり食べた。それから猫に餌をやるからとまた車で自宅に戻っていった。
 障子を開け、窓も開けて、光と風を通す。
 柔らかな日差しと優しい風が気持ちよい。窓際の椅子に座り、お棺、遺影、きれいな花をぼーっと見ていた。ときどきお棺のそばに座り、父のお顔を見たり、あれこれ話しかけたりした。
 本当は、長い間帰ってこなかったことを、父に謝りたかった。
 でも、その七年の間にわたしも体を壊しており、おおげさだがそのとき「自分が死んだら、親しい人には楽しかったことを思いだして懐かしんでほしい。あれをしてあげれば、これをしなかったと後悔したり泣いたり、誰にもしてほしくない」と強く思ったのだった。わたしのような冷たい人間でさえそう願うなら、父は……。納棺師さんがおっしゃったように、本当にまだこちらの声が聞こえているのかもしれないから、嘆きは心の中にしまっておかねばと思った。
 昼になり、母の車がようやく戻ってくる。
 開け放した窓から眺めていると、喪服を三着も抱えて車から降りてくる。どうやらわたしの分もと多めに持ってきてくれたらしい。「ありがとう。喪服は東京から持ってきたから大丈夫だよ」と言う。母は「この二十年、お父さんが危なくなるたび、デパートに走って喪服を買ったから、たくさんある」と順番に広げてみせる。肩パットの大きいの、すとんと四角いワンピース型など、洋服の流行がざっと追えるような気がする三着だ……。
 お茶を淹れ、朝買ったおにぎりを食べ、しばらくすると母が祖母の高齢者ホームに向かった。
 また一人になり、日差しのぽかぽかした部屋で父のお棺を見守った。
 死ぬのが怖くなくなったなぁ、と急に気づいた。
 前は怖かったし、自分がいつか死ぬ、いなくなるなんて到底理解できなかった。電気が急に消えて真っ暗になり、知らない場所に放りだされ、冷えて……。でもこの日、死んだら、父であったり、若いのに先にいなくなった人であったり、いろんな人にまた会えるのだという気がし始めた。
 コトリ、と廊下で音がする。
 なんだろ、と出てみると、廊下の奥の部屋から六十がらみの男性が足音もなく出てきた。この地方に多いすっきりしたアマビエ顔をしている。わたしに気づき、はっとする。顔にかすかに見覚えがあり、「もしかしてかんちゃんですか?」と聞くと、うなずいたようなうなずいてないような微妙な反応をされる。「わたし冬子です。あの、こちらの部屋です」「あ、あとで」と、話し慣れないようなつっかえながらの言い方で言い、わたしの前をすり抜け、外に出ていく。
 不思議に思い、考える。
 男性が出てきた部屋の扉を引いてみる。鍵は開いており、入るとガランと何もない。納戸を覗くと大きな鞄が奥にある。……今の人のかな? えっ、ほんとにかんちゃんだった? 別の人? ん……?
 部屋に戻りながら、でも見覚えのある顔だったと首をひねり、あっ、月曜に城山公園に登ったとき頂上にいた人じゃないかと思いだす。……いや、でもあのときも見たことのある顔だなと思ったんだよな。ふと気づき、iPadでニュースを検索する。
 この地方は日本海の向こうに朝鮮半島があり、海岸に時折ハングルの空缶が流れ着いたりするほど、実は近い。先日のように北朝鮮からの密航船が流れ着くこともあるし、わたしが子供のころ海岸で行方不明になった若い女性がのちに拉致認定されたこともある。
 昔のニュースで、拉致認定されてはいないがその可能性を示唆されている行方不明者たちの写真を見たことがある。そのニュースのデータを探すと、約四十年前の行方不明者であるとある若い男性の顔写真が出てくる。さっきの人と似ているような気もし始める。
 まぁ、気のせいだろう……。
 と、葬儀屋さんが「失礼しまーす」と明るく入ってくる。にこにこして紙袋を差しだされ、受け取ると、ミニサイズの父の遺影が木製のフォトフレームに入れられたものが六個入っていた。「お母様がご親戚にも差しあげたいと、サイズ違いで追加注文されたんですよ」「エッ、六個も?」とびっくりするが、「それじゃよほど気に入ったんですねぇ。よかったです」と、青空と桜が背景の遺影のほうを振りむく。
 母が満足しているなら、万事良かろう。
 葬儀屋さんにさっきの男性のことを聞こうとし、ふとやめ、口をつぐむ。そこにちょうど母が帰ってきた。喜んで遺影を受け取っている。葬儀屋さんと明日の出棺の打ち合わせをする。と、母が「お棺に自分たちの写真を入れたい」と言いだす。自分たちというのは母とわたしのことだ。それならと、葬儀屋さんに並んでいる写真をiPadで撮ってもらう。コンビニでプリントしようと考えていると、葬儀屋さんが「店舗によってはできませんよ。駅前のイオンなら確実です」と教えてくれる。
 母と交代してホテルに戻るとき、イオンに寄ってプリントすることに。
 葬祭会館から駅前までは徒歩二十分ほどなので、まぁ天気もいいし、歩くことにする。あれっ、道を間違えた……。ちょっと予想外の苦労をし、ふらふらとイオンに着く。一階の写真屋さんに気っ風のいい金髪のお姉さんがおり、手順を教えてくれる。iPadをお店のパソコンに繋ぎ、写真を指定し、注文し……。十分待ち、受け取り、「あぁぁ、指定を間違えた……」と驚く。急にケアレス・ミスが多くなり、自分のことが心配になる。目の粗いザルを持っているときは、気を引き締めないと妙な失敗も増えるのだ……。金髪のお姉さんが、サービスしてあげるねと無料でやり直してくれた。お礼を言う。
 ホテルに戻り、風呂に入り、下着を洗って干し、喪服をリュックに入れ、隣のスーパーでお弁当と果物を二人分買った。部屋でほっと一息つき、フロントにタクシーを呼んでもらう。
 十分ほどでタクシーが来る。
 おや? 見覚えのある若い運転手だ。確か先週ケーキ屋を往復したときの人か……?「前も乗りましたかね?」と聞くと、走りだしながら、「ええ! よう覚えてますね」「若い方は珍しいですから」「それ、よう言われますわ」と運転手は笑い、「あっ、メーターを忘れてた」とあわてる。
 しばらくこちらにいるか、またタクシーを使うかと聞かれ、「そうですねぇ……?」と首をかしげる。今日の帰りもタクシーを呼ぶかと言うので、呼ばないと答える。降りるとき、「いま大変なんで、よかったら予約するとき直接かけてください」と名刺に携帯電話の番号を書いたのを渡される。
 受け取り、葬祭会館の部屋に戻り、弁当と果物を並べ、母と自分のぶんのお茶を淹れる。タクシーでこんな会話があったと話すと、母は「ときどきあるわよ。コロナでお客さんが減って大変だからね」とうなずく。そうなのか、と思う。
 わたしがいない間に、香典返しに添える文章の下書きが届いたようだ。母が喜んで見せてくれる。「作家でしょ。添削してね」と母が調子よく言うのだが、優しさの滲む文体で要点を絞ってまとめてあり、「さすがプロだね。直すところなんてないよ」と答える。
 母の希望通り、父が今回亡くなったのは悲しく残念なことではなく、人生を立派に全うしたためなのだという明るさがあり、共に病気と闘った二十年が妻にとって最も幸せな時間だったという思いも凜として書かれている。母が「ここだけ直したいのよ。お父さんに一歩引いてついていったと読める部分を〝共に歩いた〟に変えたい」と一箇所を指差す。
「女のくせにって怒られちゃうけど、あたしはお父さんの後ろをついていったことはない。前に立って引っ張って歩いた。女が生意気なって笑われても、でも、ずっとそうだったから」
 それについては、ちっとも悪いことじゃない、そもそも人間は平等なのだ、男である父も、女である母も、子であるわたしも、同じ価値と権利を持っている、それを笑ったり抑圧したりしようとする者がもしいるなら、その者のほうが、そして封建的な社会のほうが間違っているのだ、と強く思ったが、自分の考えを述べるよりケアするほうが優先され、「そうなんだね……」とうなずき、〝共に歩いた〟とボールペンで赤を入れるに留まる。
 母がお茶を飲みながら「あ。作家といえば、葬儀屋さんに冬子ちゃんの職業を教えたわよ。さっき、向こうに『火の鳥』がおいてあるのを不思議そうに見てたから」とお棺のあるほうの部屋を指差す。
 ほどなく葬儀屋さんがきて、添削した文章を受け取る。わたしの仕事の話にもなり、「いやぁ、ぼく『GOSICK』のアニメを見てましたよ。アニメが昔から好きでして」と気を遣ってくださる。
 葬儀屋さんが辞すと、母が弁当と果物を食べ、また猫に餌をやりに自宅に帰っていった。
 一人になり、父に話しかけたり、Kindleのタブレットで候補作の漫画を読んだりした。『火の鳥』の発売日が明日なので、畳に本を置いて写真を撮り、Twitterで告知したりもした。
 夜九時過ぎになり、母から着信がある。
 夕方乗ったタクシーの運転手さんに、明後日のお寺までの往復を頼めないか電話して聞いてくれと言う。母の運転する車で行く予定だったが、「疲れるし、帰りが不安。だけど、あたしとおばあちゃんだけとか、あたし一人とか、女だけでタクシーに乗ると、年配の男の運転手さんが横柄で辛いときがある。優しい人もいるけど、当たり外れがあって怖い。その点、若い人なら安心だ」と言われ、そうか、女性がタクシーに乗ることの気苦労は、地域も年齢も関係なく常にあることなのだな、とはっと胸を突かれた。
 電話するには遅い時間なので、ショートメールで、夜分申し訳ないこと、予約したい日時と往復する場所、予約可能かどうか、可能な場合は幾らぐらいかかるか知りたい、とまとめ、送る。幸いすんなり予約できる。母にメールで告げると、電話がかかってきて「よかった」と喜んでいた。
 夜十時過ぎ、母が戻る。
 四畳半のほうでお茶を淹れていると、母が「明日と明後日、自宅で一人で寝たくないからホテルを予約したい」と言う。スマホで検索すると、わたしの泊まっているビジホは、週末にまたイベントがあるのか、満室だった。べつのホテルをネット予約し、メモを書いて渡すと、母が「冬子がいて本当に助かった」と急にしみじみ言った。
 褒めるということのない人なので、驚く。これはよほど助かったのだな……。「一人でできると思ってたけど、やることも決めることも多くて無理だった」「うん……。あと出棺が一日のびたのも結果的によかったね。もし今朝だったら、バタバタで何が何だかわからないうちに終わってただろうね」「ほんとにそうだねぇ」「それに今日は天気が良くて、風も気持ちよくてよかったよ」と言い合う。
 それからお棺のあるほうの部屋を振りむき、
「この二日、あっちの部屋で、番犬みたいにずっとお父さんのそばにいたよ」
 と言うと、満たされたような弾む色が、隠せず声に少し漏れてしまったようで、母は驚いたように沈黙し、
「それは娘だねぇ……」
 と、ある実感を込めて呟いた。
 確かに、息子だったら、努力や自分の心のためにすることの方向性が違うかもしれない、とふと気づいた。
 母も父親っ子であり、わたしが中学生のころ、母方の祖父が亡くなったあとは、おかしくなってしまった。
 お茶をお代わりし、みかんを食べ、「葬儀屋さんも、お寺のことや親戚のことまでアドバイスしてくれて助かったわねぇ」「そうだね。こちらの会話や親戚との電話の様子を見て、臨機応変にアシストしてくれた。大変なはずのことがあんなにスムーズに決まって。プロだなぁと感心したよ」と話す。
 病院の話にもなり、「看護師さんもよくしてくれたわねぇ」「そうだね。いまはあんなに丁寧に家族の心のケアまでしてくれるんだね」「二十年ちょっと前、おじいちゃんが亡くなったときとはずいぶんちがうねぇ……」と話す。
 医学の世界も、苦しい思いをさせつつ、少しでも長く生きさせるのではなく、クオリティ・オブ・ライフが提唱されているし、病人の家族も第二の患者として心をケアされるなど繊細な進化が目覚ましいと聞く。
 社会には常に様々な問題があるが、みんなの力で少しずつよいほうに変わっているのだと思える……。
 母が、葬儀屋さんには「世の中から敬遠されるお仕事なのにねぇ……」と、看護師さんには「みんながいやがるようなお仕事をして偉いねぇ……」と、わたしからすると差別的かもしれないと感じることを言うので、昔の人だから仕方ない、悪気は全くなく善意しかないとわかりつつも、母を傷つけないよう穏やかに遮り、「人の命や心を直接救う職業ってなかなかないよ。今回お世話になった人たちにわたしは敬意を感じた。立派な仕事だと思った」と言う。母は曖昧にうなずいている。
 自分の気持ちは差し支えのない一般的なことしか口にしないようにしていたが、実際に顔を合わせ、お世話になった方々の実存――Beruf(神様から与えられた使命としての世俗的職業――〝天職〟を表すドイツ語)に関わる事柄なので、一言挟んで軌道修正せねば気が済まなかった。
 それに、差別的な視線を持つと、性別、年齢、経済状況、皮膚の色、容姿などで、いざ自分が差別される側になったとき、被害を受け入れざるを得なくなるのではないか、とも感じた。
 そんな話を、東京に帰って、同じ価値観を持つ友人たちと侃々諤々、議論したいなぁ、とふと考えた。自分の所属するコミュニティーが共有する明快なあの正しさが懐かしかった。
 ここは、複雑すぎる、わたしには、やはり難しい、長期的には、対処できない、あまり長くは、いられない、だが立ち去るまでは、倒れるなよ、と。

 翌日。三月五日、金曜日。
 出棺の日。
 朝起きて、コンビニまで歩いていき、またコーヒーとサンドイッチを二人分買った。
 朝食後、母が猫に餌をやりに自宅に戻った。
 九時過ぎ、葬儀屋さんが骨壺、香典返しの品などを運んできてくれた。あっ……。わたしは東京から喪服を持ってきたが、数珠のことをうっかり忘れていた。喪服のレンタルはあるので、数珠は借りられないものかと聞く。
 葬儀屋さんと入れ替わりに、母が自宅から戻ってくる。十時半出発なので、大急ぎで喪服に着替え、掃除し、荷物をまとめる。
 と、急にお腹が空いた。あわてて全粒粉のチョコビスケットを五枚、ビーバーみたいに齧って飲みこんだ。
 葬儀屋さんが戻り、にこにこし、「じゃーん!」と、右手に緑の紐付きの黒い数珠、左手に赤い紐付きの透明の数珠を持ち、「どっちがよいですか」と差しだした。母も「あらー」と見ている。これは自分で決めていいだろう……。緑と黒のがいいなと思っていると、母も「黒がいいわ」と言うので、安心し、そちらを選んだ。
「いつお返しすればよいですか」と聞くと、「サービスですよ。差し上げます」と言ってくれる。えーっと喜び、お礼を言い、受け取る。
 お棺の蓋を開け、周りに飾っていたお花を入れていく。母にお顔の周りを任せ、わたしは足のほうに入れていく。「お父さん、お花がたくさんよ。まぁ、こんなに。照れちゃうわね」と母が言っている。続いて好きな食べ物を入れる。みかんなど水気の多いものは足元の端にする。葬儀屋さんによると「ケンタッキーやスペアリブなど、お骨がある食べ物だけはお断りさせていただいているんです」とのことで、少し考えて「……あぁ!」と理解する。妙につぼにはまってしまう。
『火の鳥』の本も入れる。本は燃えやすいよう開いてからおくらしい。
 イオンでプリントした母とわたしの写真も入れる。
 母がハサミで父の髪を一房切った。傍で母のハンカチを開き、受け取り、包む。
 いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
 内心、(覚えてたのか……)と思った。
 自分は知らない、という人たちは、実際はすべてわかってるものなのだろうか。あの人もこの人も、みんな。
 異母妹の百夜を虐め殺した赤朽葉毛毬みたいに……。
 母はただ涙を流しており、父は、穏やかな顔で、黙っていた。
 父は、許しているように、わたしには感じられた。あれだけ優しかった人が、泣いて謝っている人を、しかも愛妻を許さないという姿は想像できなかった。
 何もかもが一昨日で終わったのか。すべては恩讐の彼方となるのか。
 それにしても、とわたしは思った。
 ――夫婦って、奴はよ!
 深いな。沼だな。で、おっかねぇなぁ、おい。
 ぼんやりと鈍そうなポーカーフェイスを保ったまま、内心そんなことを考えていた。
 ……愛しあっていたのだな。ずっと、わたしは知らなかったのだな。
 いよいよ出棺となり、霊柩車にお棺が載せられる。ここにきたときと同じく、わたしが霊柩車に乗り、母が自分の車でついてくることになる。
 父にまた「わたしがそばにいるよ。お母さんも車で後ろをついてくる」と話しかける。
 火葬場に着くと、ガラリと空気が変わった。暗く、重たく、行政が運営している施設なので職員の方も民間の葬儀屋さんとはだいぶちがった。
 わたしは、水道局などより、高齢化社会が加速する中ではこういう施設の民営化のほうが先ではないか、と少し思った。
 父と最後のお別れをし、お骨になるのを待つ。
 予約していたお弁当が二つ、控え室に届いていた。マジックで名前を書いた紙が貼ってあり、字を間違えて斜め線で消して書き直してあるので、いまはちょっとしたことで気持ちが揺れるかもと危惧し、母が入ってくる前に紙を外して隠した。
 窓の外にきれいな庭がある。
 景色のいい席に母を座らせ、お茶を淹れ、向かいあってお弁当を食べた。
 四十分ほどで呼ばれ、お骨になった父と対面した。母が選んだ蓮の花の模様の骨壺にお骨を入れていく。なるべく心に近い場所をという意識が働き、胸や頭の部分から入れようとする。係員がむっつりと「もっと入りますよ」と繰り返す。ほんとに……? あらほんとだ。えっ、骨壺ってこんなに入るっけ? 祖父のときはもっと小さかったような気がするけど……?
 結局ほぼ全部入りきり、なんだか狐につままれたような気持ちで、母が遺影を、わたしが骨壺を持つ。……おっ、重っ? ずっしりとし、気持ちの問題もあるかもしれないが、体感では八〜十キロぐらいか? ワイドニュースで流れる芸能人の葬儀などで、高齢の奥様が骨壺を持って立っておられるのを見たような記憶があるが、こんなに重くて、しかも持ちづらい形状のものを高齢者が長時間持てるだろうか?
 今夜は母が予約したホテルに骨壺を持っていって泊まる予定だったが、重さを危惧し、遠慮がちに「けっこう重いよ。いやじゃなかったら今日はわたしが……」と言いかけると、母がほっとしたように「そうして」と答える。
 母の車で自分の泊まるホテルまで送ってもらい、骨壺を抱えて部屋に戻る。
 机に骨壺を置き、お茶を淹れて供え、風呂に入った。ようやく一人になれて、ほっとしていた。いまごろ母もそうだろうな。隣のスーパーに行き、お弁当と果物、カップ酒、花を一輪買って戻ってきて、骨壺の前に、カップ酒、果物、部屋に備え付けのグラスに飾った花を並べた。
「ここはホテルの部屋だよ。今日はずっとわたしがいる。明日になったらお父さんの一族の人たちに会えるよ。同じ納骨堂に入るからずっと一緒で寂しくない」
 と、骨壺に話しかける。
 ベッドに寝転び、ようやく休む。
 Kindleのタブレットで手塚賞候補作を読み始める。自分も新生賞に推薦した『マイ・ブロークン・マリコ』を読み返すと、女性の主人公が、亡くなった友人のものであるこぢんまりした骨壺を片手で抱えて歩き、振り回して敵を殴ったりしている。……いや、だよね? わたしも祖父の骨壺はこれぐらいのボリュームだったという記憶がある。地方や宗派によって違うのかな……?
 iPadで仕事メールのチェックをする。と、先月受けた「赤旗」のインタビュー原稿が届いていた。前半の『火の鳥』についての部分はよいが、後半部分の女性の権利問題とコロナ禍については、仕方ないことだが、真意が伝わっていると言い切れない。……疲れていて到底むりだと思ったが、気にかかり続けるのも余計にストレスだと判断し、ぐっと踏ん張って書き直す。するとその部分を書き下ろすのに近い状態となり、疲労ゆえのテンションか、発言が激しいアジテーションの色を帯びた。
 女性の権利問題については、
〝今のように社会が大きく変容せざるを得ない時代は、同時に変革の時でもあると感じています。それは個人個人の変革の時であるだけでなく、社会全体の変革の時であり、その二つは同じことなのだ、と。これからは理不尽な扱いを受けて我慢するのを止めて、たたかうべきことはたたかい、反論すべきことには反論します。わたしたちみんなに、社会をよりよくするために行動する義務があるからです〟
 と、コロナ禍の日本については、
〝コロナは現在進行形で、いまはこれからの世界がどうなるかを誰も知らない、まさに歴史のただ中です。政府にとって、人の命が日々軽くなっていくように見える今こそ、ひとりひとりの命が地球全体と同じぐらいかけがえがないという事実の絶対性を強烈に感じています。いまこの時代を生きている我々のことを書き残さねばならないという意識をより強めながら、次に書く物語を考えているところです〟
 と直す。
 何度か読み直し、点検し、メールで送る。それから目を閉じ、今度こそ休んでいいのだと思い、少し眠った。

 (以降、文學界9月号に掲載されています)


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