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「学びがい」について

コロナ休学が続き先が見えず、または学校が再開したものの気分が乗らず…そんな苦難の中にある人は一読してみませんか?難関大学の小論文の出題ですが、課題文の内容は平易です。ただ、これを起点とした思索は、それぞれ、きっと深いと思います。まずは感じとり…あれこれ考えてみて…短くても構わないので、何か文章を書いてみましょう。こんなときだから[特別公開]しますね。


上智大学総合人間学部看護学科2018推薦入学入試(公募制)

問 次の文をふまえ、「学びがい」についてあなたの考えを800字以内で述べなさい。

 ところで、そもそも「学びがい」とは何だろうか。
 学びがいというのは、学ぶことの価値とか学ぶ意義のようなものへの、漠然とした希望をいだいていることを意味している。もちろん、本当の価値とか本当の意義は学ぶまではわからない――だからこそ、これから学ぼうというわけだ。しかし何かしら「大切そうだ」とか「あとで、学んでよかったと思えそうだ」というものを期待しているのである。
 ところで、こういう「わからないけれども、ともかく、何かよいことになるだろう」という期待を、あえてここで「希望」と名づけることにする。
余談になるが、「わからないけれども、とにかく、何かわるいことになるだろう」と思える場合はなんといえばよいだろうか。「絶望」といってしまうと、それこそ絶望的すぎるか。「不安」といってもよさそうだが、それも少しちがうのではないか。絶望とは確実にダメになると思いこむのに対し、不安とはまさにどうなるかわからないということだ。
 希望という場合には、確実か不確実かを計算して判断するのではなく、「やれば、おのずと道がひらかれる」という思いである。「どうなる」話よりは、「なんとか道をきりひらいていける」という話、「いろいろやれば、いつかは必ずよいところにたどりつけるハズ」という思いをさしている。第三者的、客観的な判断というよりも、本人の気構え、世界への立ち向かい方をさしている。
 それに対し「〇〇という(既知の)事態になるだろう」という期待を、ここでは「予想」と名付けることにする。予想はよいことだけの期待とはかぎらない。わるいことも予想されるだろう。予想というのは、当たるか外れるかだ。つまり、まさに客観的に決着がつくことについての判断である。「いろいろやれば、いつかは……」という話ではなく、「いついつまでには、こうなる」という確率の判断である。
 幼稚園児などにいろいろな距離から輸投げゲームをさせたとき、投げる前に輸がポールにかかるか外れるかを予想させると、たいていは楽観的予想になるといわれている。これを従来の心理学者は、幼児は自分の能力の予想ができないとか、自己の能力を過信しているとか、客観的な確率判断の能力に欠けているとかいう結論を出しているが、私はそうは思わない。子どもは「希望」の次元で言っているのではないだろうか。「やっていけば、できるようになる」という希望を述べているのだ(もちろん、ご当人は希望と予想とをはっきり区別しているわけではないだろう)。子どもの世界では、時間はいくらでもある。何回失敗しても、失敗はすべてノーカウントなのだ。もっとも、現実にできるかどうかの判断がさし迫っているとき(跳び越すべき川を前にして「跳べるかどうか」、棒をもって遠方のおもちゃまで「とどくか」、塀のすきまの前で「通れるか」を決めなければならないとき)、おどろくほど正確に自分にできるかできないのかの判断が可能になるという。ごく自然な状況での自分の運動や行為に関しては、もともとの予想能力はかなり高いといってよい。
 己の死を確実に予想している場合でも、希望という世界に生きることはできる。しかしその場合、それは死なないという予想をもつことではない。そうではなくて、自分の人生を一瞬一瞬、よく生きることへの確信である。具体的にどう生きるかが明確になるというよりも、とにかくよく生きるということが大切であり、そのよく生きることがこの自分にできる、ということである。いわゆるホスピス・ケアというのは、そういう生き方への希望をもたせることだろう。
 ところで、学ぶということは、予想の次元ではなく、むしろ希望の次元に生きることではないだろうか。「こういうことが、いついつまでにできるようになる」ことを目的とするのではなく、いつどうなるか、何が起こるかの予想を超えて、ともかくよくなることへの信頼と希望の中で、一瞬一瞬を大切にして、今を生きるということのように思える。
 子どもがよく学ぶとしたら、それは希望の次元に生きているからであろう。また、大人が学べないとしたら、それは、大人の世界に、希望の次元が喪失しているからである。死を前にした人に希望があるということは、死を前にした人が「学べる」ということを意味するのであり、逆に、死を前にした人が何かについて学べるとしたら、それは、死を前にした人にも希望の世界がひらかれるということである。
(出典:佐伯胖著、子どもと教育「学ぶ」ということの意味、岩波書店、2013年、p7-10)

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