見出し画像

コロナ禍における小論文

 小論文の出題・テーマは同時代的なものが少なくありません。だからといって、あわててネタ本とかを漁らないようにしてくださいね。小論文は知識テストではなく思考力テストです。思考力はさまざまな形で表現できますが、その一つに課題解決型の思考力があります。ボクが授業や講座でよく使っているモデルですが、それをわかりやすく表現してみました。

 現状の把握→課題の発見→課題の分析→課題の解決

 これは以前に紹介した「受験生に現金?」の出題のにもみられる論理です。このように大学入試で思考力を重視するようになった背景には、新しい学力観への転換があります。それが以下に引用した学力の3要素です。ここでは、その2点目に注目してください。

 ①基礎的・基本的な知識・技能の習得
 ②これらを活用して課題を解決するための思考力・判断力・表現力など
 ③主体的に学習に取り組む態度(主体性・多様性・協働性)

 2点目の思考力の前にある「課題を解決する」という表現に注目してください。求められているのは、思考力のための思考力や論理のための論理ではなく、課題の解決です。このため最近の小論文の出題には、上記のモデルを基本とした出題が多くなったと思われます。そして、同時代的な内容だからこそ、受験生も現状や課題に気づきやすく、その構造や原因を多角的に分析し、あーでもない、こーでもないと解決を模索できるんです。

 さて、現在、もっとも同時代的な課題といえばコロナ禍です。
 そのため、2020年、2021年の入試ではコロナに関わるものが学部を問わずに多くみられました。たとえば、ある大学ではコロナ禍における「新型コロナウィルス感染症による差別」の例をあげて、これに「どのように対応するべきか」を論じる出題がありました。これは、まさに上記のモデルの課題の発見と解決に対応していますよね。
 また、他の大学では、日本の政府と自治体の対策の「良い点」と「悪い点」をあげさせる出題があります。これは上記モデルの課題の解決に焦点をしぼった出題です。これは医学部の出題ですが、さらに突っ込んだことを求めています。それは、医学生という立場でコロナ感染の現場に派遣されたら「どうするか?」を問うています。他人事のように良し悪しを述べるだけでなく、これを自分事としてとらえ返して考える…そんな一段深い思考力を求める出題であり、医療者としての適性をみる良問でした。
 もう一つ紹介しましょう。それは課題文を読み、その内容を踏まえた上で、「あなたが考えるコロナ禍における問題とその解決案」を述べさせる出題です。これも上記モデルと課題の発見と解決に対応しています。なお、「解決案」という表現に受験生に対する出題者の認識と思いやりを感じます。一般的に課題の解決には知識や経験が必要ですが、若い受験生はそれらが不十分であることが普通です。だから「案」で良いのです。
 そもそも日本の政府や自治体の対策にも「悪い点」があるくらいなのですから、受験生だけでなく誰もが簡単に「正解」を出せないでしょう。それにもかかわらず、何事についても非の打ち所がない「正解」があると考え、それを切り出さなければならないという知識型テストのイメージが強いと、簡単に行き詰まりフリーズしてしまいます。
 「案」とは仮説であり、その正しさを検証中というです。だから引っ込めてしまうのではありません。堂々とそれを切り出し、現段階で考えている内容、効果等を説明できれば十分です。そのように各自の「主体性」のある「案」がたくさんあることが多様性であり、それぞれの正しさをめぐって対話・議論をしていくことが協働性です。このようにして学力の3要素の②と③は連動しています。
 3点目の出題について、ボクがサクッと書いた解答例を以下に示しました。課題文の筆者がちょっと偉そうに感じたので(実際に高名な学識者なのですが…)、あえて彼のスキをついてみました。「解決案」というよりも、その基本となる視点に対する提案でもあります。コロナだけでなく、諸々の問題の解決を誰かにお任せするようなあり方、っていうか生き方は、そろそろ止めにしませんか?という提案でもああります。各自ができることがあるし、すでに、それを実行している人も少なくない。そこに自信をもって生きていきたいですね😊

 筆者がいうようにコロナは「人−人感染」のため、これを減らし、接触を断つことが危険への対処の基本となる。ただ、そこには深刻なジレンマが含まれるため対処は容易ではない。国家による強権発動によって対処しようとすれば、それは著しい私権制限になり強い反発がある。また、仮に国家が強権発動をした場合、それによる経済的な困難への支援や補償のあり方が問われる。課題文では言及していないが、国家による支援や補償は、その範囲、内容、方法をめぐって多様な考え方や議論があり、ここにも問題解決の難しさがある。これを象徴したのが、18歳以下の子どもがいる世帯に対する10万円の臨時特別給付金の問題だった。
 課題文を読みながら気になったことがある。それは国家−国民という枠組みでしか認識していないことだ。コロナ禍は未曾有の危機だから国家のように大きな権力の行使が不可避であることは言うまでもない。しかし、だからと言って国家−国民という枠組みでしか思考しないのは、あまりにも了見が狭すぎるのではないか。
 コロナは「人−人感染」なのだからこそ、国民−国民、いや人−人の関係を通じた問題解決の可能性を、もっと追求すべきだと私は考える。たとえば、友人や家族との間での接触の際に、私たちは気遣い、工夫をしてきた。また、混んだ電車やお店など接触を避けきれない場でも、多くの人が周囲に配慮して自分にできる範囲の感染防止策を講じてきたはずだ。また、コロナ禍の中で生きづらさを抱え込んだ人たちを対象とした、さまざまな支援活動があり、それを支えるための寄付も行われている。非対面や非接触を守りつつも、こうした「密」な関係によって相互に支え合うことは可能だ。国家−国民という枠組みに囚われると、強い力をもつ国に依存し、非難することに終始する。しかし、こんなときだからこそ、一人ひとりにできることを考え、他人事ではなく自分事として行動することが大切なのだ。(798字)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?