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懸命に生きる人。

スケートのことばかり考えてしまうという羽生くん
それを聞くと、私は手塚治虫のことを思い出す

私が小学生くらいの頃に見た、
手塚治虫ドキュメンタリー番組でのエピソード

我々には、足元に転がるただの石であっても
手塚氏にとっては全くただの石ではなかった

その石がなぜここにあるのか?
手塚氏の持つ深い知識と興味からその石を見ると、
ここにその石があるというだけで
その事実から様々な考察が始まり、
石の種類や歴史から世界のことに思い馳せられ
色んな想いや考えが湧き、物語が生まれてゆく
彼はどんな時も常にマンガのことを考えている

。。というような内容があったと記憶している

移動中の車の中でもマンガを描いていた
どんな短い時間でもマンガを描いていた

普通の人なら何も思わない、感じないことでも、
手塚治虫には深い意味があり
新しい気付きや、閃きがあり
全てがマンガに繋がっていた

羽生くんも、きっとそうなのではないだろうか

普通に過ごす者たちには想像すらつかない程の
大量の情報の中にいるのかも知れないと思った

情報とは手塚治虫が見つけた足元の石のように
今ここに在る存在に気付ける心が感知するもの

何かひとつ、見るたび、知るたび、
閃きや想い、
考え、
物語、
動きや音、
映像や色、
身体の反応、、、
そういったスケート表現に関連するものたちが
怒涛の如く、羽生くんの中に流れ込むのだろう

だから、強制的にシャットアウトをしないと
意識して、流れ込んでくるものを止めないと
自分を保つことが出来なくなるのではないか

羽生くんは自身の心の中にイメージを持つだけでも
身体がスケートを滑っている時と同じ反応を起こす

ピアニストの方との対談の時、それが映されていた

ピアノを聴き、イメージしているだけで
羽生くんの身体から汗が吹き出していた



感受性の高さと、豊かで繊細な情緒を持つ羽生くん

受け取ったものを
表現という形あるものに変換することだけでも
並大抵の労力では済まないのに
羽生くんはそれを、フィギュアスケートという
過酷な身体表現で具現化して行く

具現化のためには
常に身体を、スケート技術を
一定に保っていなければなければならない

それには目に触れる時間よりもずっと長い
何倍も、何十倍も、何百倍も長い時間の中
自分を律し、奮い立たせ
ひとり鍛錬を積む日々を積み上げる他ない

孤独な作業、、
脳も精神も身体も日常も
全てをスケートに捧げているのだろう

それが終始続いたら倒れてしまうから
だから強制的に引き離すために
ゲームしたり歌ったりして
心を一時でもスケートから離す必要があるんだろう




羽生くんの表現は、一期一会だ

形の残るものではない

だから羽生くんは、
命懸けでスケートを滑るのだろう

見た者たちの心に残る、羽生結弦
それこそが、羽生くんの表現の証

自分の全てを出し尽くさなければ
納得できないのは
生きるこの瞬間が
どんな人にとっても一期一会であることを
痛いほど、理解されているからなのだろう

表現を体現出来る身体があること
表現に集中出来る環境があること
能力、感性、情緒、精神、意志、、
自分に備わるもの、
努力して培って来たものや、
応援してくれる人々がいること
想いを受け取ってくれる人々がいること
自分の演技を見たいと思ってくれる人々がいること

そういったものの貴重さ稀有さについても、
羽生くん自身が一番良く理解されているからこそ
全身全霊でありたいと願われるのだろう

しかしその身体は同じ人間で
考えられる最高の形で鍛え上げられていても
超人ではない
何かあっても、機械の様に換えなどきかない

そういったことも、
きっと羽生くんは
全て分かった上で
懸命に生きているのだと思った



羽生くんが命を懸けて生み出したものは
人々に感動というエネルギーを生み出す

それは、人々の心に元気を灯してくれる

その元気は人々を介して
誰かに、何かに伝わり、広がって行く

そうして巡り巡って
きっとまた、羽生くんへと還って行く

削ったものを癒して
羽生くんを、生かしてくれる

きっと

私は、そう思うんだ







読んでくれてありがとう
おやすみなさい☆彡

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