ヘリコプター・ペアレント

※こちらの記事の記載目的は、自分の中の「モヤッ」を解消するためです。自意識のカタマリでイタイ自分語りをしております。ご容赦ください。

 ふと「ヘリコプターペアレント」という言葉を目にしました。カテゴリー的には「毒親」の一種で、過干渉により子供が失敗の経験をすることができず、無気力、打たれ弱さ等、社会生活において支障をきたすことがある、といった趣旨のことが書いてありました。

 さっそく自分語りに入りますが、わたしの母もこちらの「ヘリコプターペアレント」に間違いなく該当するであろうと思われる節があり、そのやるせなさを整理したく、こちらの記事を記載する次第です。

 ヘリコプターペアレントの語源由来としては、子供の上空をヘリコプターのように旋回し、「先回りして気を配り」「失敗しないように守り手助けする」という意味があるようです。言い得て妙ですね。親はブンブンとパトロール旋回して子供を守っているのでしょうが、子供視点から申しますと、うるさい蠅にまとわりつかれ、善意であるために振り払うこともできず、いいからあっち行けよ、うぜーよ、(でも言えない…)というフラストレーションのたまる環境に身を置いていたような感覚です。

 また、自分の母の場合は、「あなたが○○(他人に迷惑をかけるようなふるまい)すると、おかあさんが恥をかく」「(年下のきょうだいと喧嘩になると)お前は弱いものをいじめて楽しいのか!!」「ねえ、お願い、おかあさんを困らせないで(いうことを聞いて)」泣き落とし、懇願、脅迫―――本来「子供を庇護し守る」ために、アレコレ干渉するのだと思いますが、守られているというより、逃げ場のない場所に追いやられて、イヤと断れない状況で自分に不利な条件を(無理やり)飲まされ、「さすがお姉ちゃん!」「やっぱりおねえちゃんはすごーい」と称賛させるような環境でした。妹と自分の利害が対立したとき、必ず妹が勝たされていました。それがとても悔しかった。しかし、そんな葛藤は「おねえちゃんは優しい」の一言で片づけられていました。優しいのではない、「お前は弱いもののことを考えられないのか!」と脅迫され、「お願いだからきょうだい仲良くして」と懇願され、無理やり折れさせられていただけです。今思うと、「煮え湯を飲んででも譲っていた」わたしの弱さや、やさしさ?に付け込まれていたのでしょう。それは小学校でも変わりませんでした。「一生のお願いだからわたしのいうこと聞いて💛」とある女子にまとわりつかれ、断ると「ひどーい、先生に言ってやるー」と、笑いながら。当時、母からとにかく「問題を起こすな」と言われており、粛々とその子の言うなりになっていました。いま彼女に会ってももうどうもこうもありませんが、そのときの自分が、今でも許せません。家族をはじめ、そんな輩の言いなりになっていた自分を、そしてその環境の中で生存のために(ご飯を食べるために)顔色を伺って迎合していた自分を、誰よりも軽蔑します。

 「やさしい」というと、一般的に長所のように語られますが、ズルい人間や機能不全のコミュニティーに放り込まれると、付け込まれるスキになります。

 自分と家族を天秤にかけ、いつも自分を差し出して家族を立たせていました。我を通すことばかりがいいことだとは思いませんが、いつも譲る癖がつくことも、同じくらい社会生活に支障が出ることのように思われます。譲る、というと本来いい意味でつかわれますが、大人の対応が必要だったり(お年寄りに席を譲るとか)、局面を判断して戦略的に「譲る」(試合に負けて勝負に勝つ、的な)のではなく、「無条件に」譲る、それは無条件に負けることです。他人と利害が対立したとき負けなければならない、それは「自分が勝つ」こと、「自分が得すること」への強力な罪悪感となって、いまも自分を縛っています。自分という存在にとって「やさしい」が害にしかならないなら、そんなものは長所でもなんでもない。「あなたは優しいですね」と聞くと、侮辱されているようにすら感じます。

 わたしの場合、幸か不幸か、田舎の小さな世界の中では勉強ができました。同居していた祖父や祖母は「医者や弁護士でなければつまらない」「男でなければつまらない」等と平然と物申す剛の者でしたので、好きでもない勉強でしたが、ちょっとした町の学習塾で上位に入り、お受験して平均以上(トップレベルではない)のワタク私立に入ることができたので、家族の中で「おねえちやんは勉強ができる」とギリギリ自尊心は守られました。続く年下のきょうだいたちは、「ウチはみんな同じように教育する」という謎の方針のもと、本人たちの希望関係なくお受験させられていました。妹の方が成績上位の学校に入ったので、それでもよかったのでしょう。何せ、彼女たちの最終学歴は、大阪大学に神戸大学です。いまは結婚して、いまだにカレシもできたことのない自分と比較すると、人生雲泥の差です(結婚だけが女の幸せではないですが、いいなあ、と素直にうらやましいです)。しかし、家族の中では「おねえちゃんが一番勉強ができる」でした。まあ、わたしもそれをマトモに受けて(わたしは勉強ができるんだから!)と長らく思っておりましたが……明らかに、ばかにされてますよね。裸の王様だったんだなあ、と思います。

 妹は、うまく「おねえちゃん」を避雷針にして、自分たちを守っていたのだと感心します。わたしは避雷針にされたので、割を喰った感覚があります。姉妹といえば、一般的に服を貸し借りしたりするものなのでしょうが、「おねえちゃんに服は貸したくない!」「おねえちゃんの服なんかいらない!」と長らく言われてきました。あれ?わたしいじめられてる?

 そんな妹たちも、同じく精神的に戦場のような環境で、神経を尖らせていたものと拝察します。妹の一人は、いつも母の肩を持っていました。わたしと母の意見がたがうと、母が、あきらかにオカシイことを言っていても、必ず母の肩を持っていました。彼女は母と姑(父方の祖母)の間も取り持っていました。人の顔色を見ながら、彼女なりに「みんなが幸せなように」風見鶏が風を読むように、立ち振る舞っていたのだと思います。しかし、彼女の「みんな」の中に「おねえちゃん」は入っていませんでした。「おねえちゃん」はいつも避雷針にされ、煮え湯を飲まされ、感情的になると「見苦しい」と一笑に付され、割を喰う貧乏くじの役でした。

 妹は妹で、「自分はアダルトチルドレンかも知れない」と、人間関係の悩みを抱えていました。家庭環境について、昔はひどかったね、と何度か話をしたこともあります。そんな彼女に、成人してから一度「あなたがわたしにしたことで、わたしはとても傷ついた」と言ってみたことがあります。妹はため息をつき、「まだそんな昔のこと、気にしてるの」「しかたないじゃない」とバカにしたように言いました。一言、「ごめんね」と言ってもらえれば。それ以来、彼女は自分の悩みをわたしに言うことはなく、わたしも彼女となおさら疎遠になりました。あの時のことを「しかたない」というのであれば、今後家族間で何か問題が起こった時、妹は必ずわたしを避雷針にする。それがはっきりと分かりました。事実、母に対して妹は「わたしはおかあさんの介護はしないよ」とはっきり伝えたそうです。あれだけヒトをエサにして、母の肩を持ち、気持ちに寄り添い、ヨイショしてご機嫌をとってきたというのに。彼女からすれば、もう母のご機嫌取りから解放されたいのかもしれません。しかし、「おねえちゃん」にお鉢が回ってきてもこちらも困ります。わたしはもううんざりです。両親の介護を断れば、家族からは「冷血」「非人間」呼ばわりされるでしょうが、もう線を引くところは引かなければならないと思っています。そして、それに罪悪感を覚えることにないよう、自分を変えていかなければならないとも思っています。

 不思議なことに、家族は自分たちが「おねえちゃん」に「嫌がることをした」「悪いことをした」と思っていないようです。おねえちゃんは、昔から自分の意見を言わない、おねえちゃんは昔からよくできていた、等と、平然と言います。「(妹と自分の利害が対立したときに、NOを言うと)お前は自分のことしか考えないのか」「おねえちゃんがいると、家族の空気が悪くなる」「(妹が泣くと)お前は弱いものイジメするような人間か」と。また、妹とわたしの利害が対立し、どちらかが譲らなければいなけないとき、「イヤダ」等と言おうものなら、「ワガママだ」「自分のことしか考えていない」とよってたかって袋叩きにあいました。言葉では通らないので、「わたしはいやだと思っているんだ」と態度で示そうとしました。ふてくされてみたり、笑わなかったり。しかし、誰も気づきません。わたしのことなど、彼女たちにとっては、どうでもいいのでしょう。社会に出てからもこのクセが抜けず、これは自分の課題です。

 話が横にそれてしまいましたが、ヘリコプターペアレント。

 社会生活に支障をきたす要因のひとつとして、「子供本人が試行錯誤して失敗する機会を奪われる」ということがあるとのこと。

 日本社会では、一般的に子供は社会に出る前の予行演習として、家庭生活、学校生活を送ります。ある程度制限され、守られた環境で友だちとぶつかったり、うまく行ったり行かなかったりしながら、自分で体験を重ねていく。

 高校生のころ、生徒指導にスカート丈の長さの是非というものがありました。校則で「スカート丈○センチ~○センチ」と決まっていて、それを着崩した生徒に対して指導が入る。2000年入ってすぐの時期は、ガングロとかミニスカとか、ルーズソックスとかが流行って、「流行に敏感な意識高い系の女子」は、判で押したようにスカート丈が短かったです。もう少しさかのぼれば、くるぶしまでのスカート丈が不良の代名詞、という時代もあったようですね。

 制服という決まった「型」に対し、スカートの長さやアクセサリーで個性を現そうとする、会社で言うと「公人」と「私人」の別を学ぶひとつの機会であります。「私人」とは、その方個人がプライベートで行う装い。スカートが何センチだろうと、胸元がはだけていようと、公序良俗に反しない限り、自由に認められます。一方「公人」はその組織の一員として求められる装い。学校でいえば、○○学院の生徒として、その名を背負った装いを求められる。日本の総理大臣の職にある方が短パンサンダルで国際会議に出ることは通常ありえません。その公私の別を、学校の校則で学んでいる。

 だけど、ヘリコプターペアレントさんは、そんな学ぶ機会をはく奪します。「恥ずかしい恰好をして笑われたら子供がかわいそう」「目立っていじめられたらいけない」という善意から、「人と違う格好をして、親に恥をかかせるのか!」「とにかく校則に従え従え従え」「お願いだからかおあさんを困らせないで」という懇願や脅迫まで。

 本人が「ああ、スカート丈短いと恥ずかしいことなんだ」って、自分で気づき、改めるのが本来理想とされる「教育」の在り方だと思います。それを本人の頭をぐわしとつかんで「校則を守れ!」、または真綿で首を絞められるように「お願い守ってお願いお願いお願い」と事あるごとに来られると、子供の立場からすれば、自分でちょっとした道を踏み外す機会も与えられず、「言いなり」のクセがついてしまう、また反抗して「もういいわ、あなたの好きなようにしなさい(おかあさんはもう知らないから)」と別の罪悪感を負わされたり、「どうせあーだこーだ言われるなら、最初からすまい」とあきらめ癖がついてしまう。もちろん、子供の性格や個性にもよるでしょうが、親が思っている以上に、「親の立場」は現代日本社会において強力です。何せ、行政や地域社会すらおいそれと踏み込めない「聖域」で、あきらかな虐待の形跡があっても、ともすれば親権が優先されてしまう。小さな精神的いじめであれば、なおさら助けは望めません。地域のつながりの希薄化、核家族化で、祖母や祖父の目もなく、細分化されたコミュニティーの中での力関係は、立場が下の者であればあるほど、その重責は重くなります。

 ヘリコプターさんのお節介は、わたしにとっては「気まぐれに監視され、不意なことでも気が抜けない緊張感」をもたらします。そう、親の気まぐれなんです。センサーが反応するかどうかなんて。それは、習い事のピアノを練習していて、横から口を出してくる母に「もう、ちょっと黙ってて」といったような、不用意な言葉に対しても発動しました。「そう、そんな言い方するの。お前はなんて人の気持ちの分からない子だ。そんな子に育てた覚えはない」と。母の心の琴線に引っかかってしまうと、容赦なく非人間呼ばわりされました。しかし、わたしには彼女の心の琴線は分かりましないし、見えもしません。母の言う「人の心がわからない」人間なのでしょう。また「コバエにブンブンまとわりつかれているような不快感」を感じます。経済的に独立し、家族と完全に別居している今でも、その残り音が、耳元でうるさく鳴り響きます。もうこうなると「何もしない」「何も言わない」か「絶対失敗しない安全策をとること」しか取れる道はありません。

 絶対失敗できない緊張は、いまのわたしにとっては「自分の服を選ぶ」とか「外食でメニューを選ぶ」といったちょっとした選択にも、多大な苦痛をもたらします。もし、サイズが合わなかったら。手持ちの服と合わなかったら。もう、それを指さして嘲笑するひとはいないのに、「もし~だったら」が幻のコバエの大群のように押し寄せ、選択することをためらわせます。

 まずは、耳元をうるさく飛び回るコバエがもう幻想であること、そして、そのコバエは自分の心の琴線でたかってきていたこと、一つ一つ整理して、客観的に俯瞰し、自分の心を少しずつでも、解放していきたいと思っています。

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