はじめてのnote-おかあさん-
プロローグ
年末から母の容態が芳しくない。白血球が激減し2週間ほど入院をしてしまった。その後、体のあちこちに支障が生じ、医者からはなす術がないと言われて匙を投げられている。そんな母がある日耳鼻科に行き、医者に癌かもしれないと告げられた。なのに、母の目は喜びで輝いている。母の話によると、何でもその耳鼻科の先生は、今までの先生とは違い、優しく丁寧に診察してくれてとても嬉しかったのだとか。孔子は人にとって一番大切なのは「思いやり」を持つことだと言う。もしかしたら「希望」というものは「思いやり」から生まれてくるものなのかもしれない。
1.
火曜日の朝、リビングに行くと母が血まみれて倒れていた。意識はない。救急車を呼び搬送され診断された結果、急性硬膜下血腫と判定された。おそらく母は私に持たせるための美味しい塩鮭のおにぎりをこしらえようとして起き上がり、キッチンに行く手前のリビングで転倒してしまい出血してしまったのだ。困ったことに母は普通の人より白血球と血小板が1/4しかないので手術をして血腫を取り除くことができない。その日に亡くなってもおかしくないと言われ、すぐに兄と姪と従姉妹達を病院に呼んだ。翌日母は少し回復した。目が開けられるようになり、何を言っているのか聞き取れないが、発言もするようになった。右側の脳の血腫のせいで左側は麻痺しているはずなのに、左手足を少し動かせる。まだ手術をするまでには至っていないが、輸血で白血球と血小板の数値も上がった。私達は喜んだが、先生は全身麻酔で手術をするためには気管を切開し管を入れなければならないから、食べることも飲むことも話すこともできなくなると言うのだ。苦しい思いをさせてまでの延命は望まない。後は局所麻酔で血が抜ける奇跡を祈るばかりだ。
2.
母が病院に運ばれて9日、搬送されたその日に亡くなると言われ、当初は泣いてばかりいたが、毎日忙しなく動いている内に私自身も少しづつ元気を取り戻して来た。会社を3日休み、その間ガス・水道・電気・電話等の口座変更、冷蔵庫整理、保険の確認等に時間を費やした。死に瀕している母を置いて仕事に行くのは気が引けたが、私までもがダウンしてしまっては元も子もない。溺れている人を助けるには、しっかり地面に足をつけて手を引っ張らなければならないのだ。だから母に会うのは週末の2日間だけ。土曜に母が収容されている高度治療室に行きタブレット面会した時は無反応だったが、翌日は私の声を聞くと母は目に涙を浮かべた。そしてその翌日、自宅の隣に住む隣人がタブレット面会に行くと、母は隣人の呼びかけに反応し、首を動かして声の主を探していたと言うではないか!これは聞いた話だが、人は意識がなくても潜在的に耳だけは聞こえるらしい。ただ、残念なことに、検査の結果、母は脳の血腫だけではなく悪性リンパ腫も患っていた。輸血しても血小板の数値が上がらないのはそのせいだそうだ。それでも私は母がもう一度少しの間だけでもいいから、自宅で平穏の日々が送れる事を諦めてはいない。これからが本番だ。
3.
母が病院に搬送されて12日目、一昨日、母は高度治療室から一般病棟に移され、週末に姪と二人で面会に行った。一般病棟に着き、看護師に名前を告げると、母は4人部屋にいて寝たきりだから面会はできないと断られ、局地に追いやられた気分になった。しかし母は緊急病院に意識不明で運ばれたので、目覚めた後になぜ病院にいるのかわからないのではないかと思い、一目だけでもいいから会わせて欲しいと必死に懇願をした。看護師はとても困った顔をしていたが、「お待ちしください」と言い残すと、しばらしくして車椅子に乗せた母を病棟に入り口まで連れて来てくれたのだ。今まで誰とも口をきかなかった母が、看護師に託した家族写真を見ると「会いたい」と言い、寝たきりだったのに、自ら車椅子に乗ろうとしたいう。実はこの写真を持参するアイディアは、Threadsの投稿のコメントから得たものだ。家族に見捨てられたと思い、自室で籠っていた母がその人のコメントのお陰で救われた。
4.
母が病院に搬送されて20日、ようやく母が残していった食べ物の、冷蔵庫整理が終わろうとしている。前回、母が12月末に2週間入院した時は、冷蔵庫に残っていた食べ物はただ捨てていたのだが、帰宅した母に「お前は食べ物を捨てるなんて罰当たりだ」と言われたので、今回はちょっと考えて、賞味期限が切れていないもの以外は、萎れたキャベツでも胃袋の中に流し込んだ。冷蔵庫の中を丹念に見渡すと、母が私のために何を作ろうとしていたかよくわかる。推測するには、ポテトサラダとカレーが作りたかったのではないだろうか。だが、この必要以上にあるニンジンは何を作ろうとして購入したのかは不明で、私はニンジンを6日間に渡りミソやサムジャンをつけて完食した。冷蔵庫に残された食べ物には、私が母のために購入していた総合栄養ドリンクや母の友人から頂いた黒ニンニクなんかもある。体に管を入れて栄養を補給する母には、今は必要のない物かもしれない。毎朝、母の入れ歯の水を取り替える度に、もう一度母が、自分の口から食べ物を摂取することができるようになりますようにと願わずにはいられない。
5.
母が病院に搬送されて3週間と数日、3連休は連日面会に行き、母は寝たきりではあるが、ポツリポツリと思いついたことを話すようになるまで回復した。母が懸念しているのは、どうやら兄と姪のことらしく、私を見て「花子(仮名)かい?」と姪の名前で語りかけてきたり、「太郎(仮名)が心配。」と兄の名前を口にしてうつむいたりと、病室にいても心配事が絶えない様子だ。それにしても、いくら病院に足を運んでも、私、Sakuraの名前は母の口からは出てこない。不安になった私は、自分の鼻の頭を人差し指で指し、「お母さん、私、Sakura。」と試しに言ってみたら、1.5秒くらい私の顔を見つめた後に、「お姉さんもよかったらこちらにいらっしゃい。」とまるで他人を招き入れるように呼びかけるではないか。あのお、お母さん、Sakuraのことは覚えていますか?
6.
出社すると26歳の女性社員からの詫び状が届いていた。商品番号の順番を間違えたそうだ。つまり作り直しだ。苛立ちを覚える。すると、ふと自分が26の時のことを思い出した。私はある編集社でバイトをしていた。そこでバイトをしたからこそ現職に携われたのだが、だから思い出深いのではなく、1か月で首になったからだ。仕事内容は特に難しいことはない。電話の応対と原稿のお届けくらいだった。お届け先は決まっていたから、私は気を利かせて回数券を買ったつもりだった。けれども社長からは1日に数回行くかもしれないから定期を買って欲しかったと言って頭から湯気を出して怒った。それから帰国子女だった私は「Hello」をそのまま訳して「お疲れ様です」の代わりに「こんにちは」と頭を下げていた。ある時社長に呼び出され、君は礼儀を知らなすぎるとお説教をくらった。社員は10:00に出社して仕事をするが、社長は毎朝ドトールでコーヒーを飲んでから11:00に出社していたのでまだ疲れていないだろうと思っていたのだ。26という年は社会と自分の距離がまだ上手く測れない。少なくても私も人のことをとやかく言えるような26歳ではなかった。
7.
母が病院に搬送されて4週間とちょっと、瀕死の状態だったが、容態がずいぶん回復してきた。お腹に管を入れて栄養補給をしていることには変わりないが、昼食だけは自分の口からゼリーを食べることができるようになった。トイレも小水以外は、自分の力でお手洗いでするようになった。母との会話も亡くなった人達の話題はさて置き、自宅の庭の写真を見せると、「タチアオイの花は咲いたかしら?白い花が咲くのよ。」と現実的な話をする。これはSNSで頂いたコメントの中に、「入院患者さんにiPodで写真を見せている」というものを参考にさせて頂き、母にiphoneの画像を見せて生まれてきた会話だ。そして、私の顔もようやく認識できたようで、「Sakura、わざわざ病院に来なくてもいいのよ。」と言ってくれた。意識不明で搬送されたものの、今では自分が病気のせいで病院にいるという自覚もあり(意識不明だったため、なぜ目覚めたら違う場所にいるのか本人には理解できなかった。)、入院生活は苦痛なものの納得はいっているようだ。
8.
母が病院に搬送されて5週間と数日、右側の脳の血腫のせいで左側は麻痺しているが、ステロイドのお陰で白血球は基準値になり、血小板は基準値より低いくらいまで上がった。脳の血腫も段々小さくなって来ている。このまま順調に血腫が吸収されたら、手術をする必要はなくなる。ただ残念なことに認知機能は低下しているようだ。今日は「バックの中に入っているお金を持って帰って欲しい。病院に置いておいては取られてしまう。保険証も大切だから持っていて欲しい。」と言われ、面会の時に病室から看護師にバックを持ってきてもらっていた。もちろん、バックの中には何も入っていない。「何も入ってないよ」と言うと、「そのバックではなくて、イギリスで買ったバックの中に大切な物が入っている」と言う。せん妄だ。「あなた、白髪が増えてきたわね。染めてあげたくなるわ。」などと現実的な会話もするのだが、妄想を話すことが増えている。もっとしっかり意識を持ってもらおうと、先週の土曜日から面会をする度に、母に手紙を渡すようにした。手紙の終わりに「帰宅できる日を楽しみにしています。」と必ず書いているのだが、その甲斐があったのか、以前は「帰りたい」の一点張りだったが、今は「待っててね」と言うようになった。徐々に現実を取り戻してもらえたら嬉しい。
9.
母が病院に搬送されて7週間近く経った。自宅からバスで30分くらいの緊急病院にいるのだが、緊急を要さなくなったため、現在は転院を迫られている。母が入院する前までは私は母と二人暮らしだったが、今は4LDKに一人ぼっちで、家が軋む音や車のクラクションの音、隣のアパートのドアの開け閉めの音などにビクビクしながら暮らしてる。夜になるとなぜこんなに不安になるのだろうと思いを巡らせていたら、昔ロンドンで暮らしていたアパートの1階に空き巣が入ったことを思い出した。その家の住人の話によると、鍵を閉めて外出したのに泥棒に入られ、貯金通帳もパスポートも全て盗まれたそうだ。「なんで1階の人達(空き巣に入られた家)はそんな大切なことを私の顔を見ても話してくれなかったのよ!」と、バスタオル1枚の姿で郵便屋さんにも対応してしまうセクシーな同居人が怒っていたが、空き巣に入られた1階の住人はゲイのカップルだったので、もしかしたら女性の臭いが鼻についたのかもしれない。強盗に入れられた気の毒な彼らにはベルギーチョコレートを一箱お見舞いに渡したことを覚えている。
10.
今週もついに木曜日まで来た。あと1日働けば週末だ。現在は仕事の合間に、入院している母の転院先を探している。転院を勧められているリハビリテーション病院は、現在の入院している緊急病院の3倍リハビリをしてくれるそうだが、ネックになっているのはコストと面会についてだ。病室が4人部屋でも有料だったり、面会はコロナ禍のため禁止だったりする。リハビリテーション病院は最長で150日入院できるということだが、150日も家族に会えなかったら、精神的にもどんどん弱っていってしまうのではないだろうか。人はパンのみで生きるにあらず、入院患者達が一体どのようにしてこの過酷な道を潜り抜けているのか疑問だ。多少コストがかかっても、面会できる病院を、と思って探してはいるが、こちらにも予算があるので、なかなか現状は厳しい。どうか、適した転院先が見つかりますように。
11.
英国にいた頃にとても仲の良いイタリアの友達がいた。国に帰った彼女に会いに行ったが、彼女は既に英語を忘れていて、身振り手振りで私に話しかける。思い返せば、渡英当初は私も言葉に不自由したが、彼女といる時だけはそんなことは感じなかった。知らない単語があれば、私達は簡単な単語を繋ぎ合わせて私たちの間だけで通用する造語を作った。言葉ではない言葉を話す友達と私は世界中で一番仲が良かった。そして今、言葉ではない言葉を話す友達が、言葉を忘れた友達として私の隣に存在する。言葉を忘れた友達は、ある晩、私の隣で一人シクシク泣きながらこう告げた。「10年後、私、英語、全部、忘れる。」彼女は単語を並べて説明する。「本当に全てを忘れちゃったら、今度は私がイタリア語を勉強するよ。」私は涙を浮かべながら彼女に伝えた。あれから30年が経つ。歳月が流れて、私も言葉を忘れた人となった。
12.
母が病院に搬送されて今日でちょうど2か月、相変わらずお腹に栄養を送るチューブはつけているが、オムツはテープ式オムツから紙パンツに変わった。今困っているのは、父が亡くなったことを忘れてしまったことで、「お父さんは元気?」「お父さんに車椅子を買うように頼んで欲しいんだけど。」などと父への伝言が絶えない。昨日はたまらなくなって「お父さんは4年前に亡くなっんだよ。」とついに言ってしまった。父が亡くなったと聞いて母はショックを受けていたが、もしこのまま順調に回復すれば何ヶ月後には自宅に戻って来る。そして父がいなければ不審に思うことだろう。事実を受け入れてもらいたいのだ。
母がいつか帰宅することを願って、来月から就職活動をするつもりでいる。母を介護しながら通勤するのは不可能だから在宅ワークを探す予定だ。振り返ってみると、母が入院するまでの私の生活は奇跡の連続だった。今となっては帰宅したら夕飯があることが魔法のように思える。今までの生活が奇跡だったのか、そしてこれからも奇跡が起こるのか、運命はどこに流れ着くのかわからないが、忍耐強く母を見守るつもりだ。
13.
父が亡くなって、今年で4年が経つ。父は酷い認知症を10年患った。出掛けたら最後、一人では自宅に戻って来れないから、洋服に住所と名前を貼り付けていた。父がいなくなるとよく母と探しに行ったが、退職して20年も経つのに、父はいつも勤めていた会社への通勤路を一人歩いていた。なぜ父が会社へ向かうのか不思議だったのだが、それは義務感からではなく、ひょっとしたら会社の誰かに「頼りにされたい」思いが、父の心の奥底にこびりついていたからかもしれない。人は誰でも年と共にものを忘れていく。私も50代前半となり、既に固有名詞を忘れがちだが、もっと年を取ると不必要な記憶はどんどん削除され、普通名詞も忘れていくのだそうだ。勉強熱心で好奇心旺盛の父のままでは、この世に未練が強すぎて、死んでも死にきれないから、もしかしたら父の認知症はこの世を楽に去るための小さな贈り物だったのかもしれないと思うことにしている。
14.
スコットランドのグラスゴーから2時間くらいドライブした所に、タイナブルイックというリタイアした人達が住む小さな小さな港町がある。そこに海軍兵士だったクックさんご夫妻が住んでいた。海に面した庭先で、昼間はお二人だけでティパーティーをしているとても仲の良いご夫婦だったが、旦那様が亡くなられると、奥様は後を追うようにして亡くなった。寂しさに耐えられなかったのだ。父は10年認知症を患い亡くなったが、母は父の葬式で号泣した。10年という介護期間がなければ、母もまた父を追うように亡くなっていたかもしれない。母が倒れた時には、生死を彷徨う母を見舞いながら、私は心が壊れそうだった。急すぎるのである。母が倒れるまではずっと15年前一緒になれなかった彼に支えられて生きていると思っていたが、とんだ勘違いだ。人は何を言ったかではなく、何をしたかが問題なのだ。行動こそが全てなのである。10年以上、植物人間になった夫を施設に預けている従姉妹は言う、「生きていてくれるだけでもいい」と。本当にそうなのかもしれない。どこまで母が生き延びられるかわからない。でも、母よ、生きれるだけ一緒に生きよう。
15.
母が病院に搬送されて2か月と1週間、病院から連絡があり、母の痰から菌が検出され感染病棟に転棟したとのことだった。その日から母には直接会うことはできなくなり、タブレットを通して面会をしている。母の年代ではタブレットというものがどういうものなのかあまりよくわかっていない。何度、タブレットに呼びかけても反応がない。繰り返し呼びかけている内に、突然、目を見開き、私の声に耳を傾けた。ほんの一瞬だが目に輝きを放つ。高齢の母を愛おしいと思う。人の目には魂が宿っているのではないかと思う時がある。古代メソポタミアでは目を「魂の窓」と呼んでいた。いくら口で強がりを言っていても、目からこぼれ出る哀しみはその人のありのままの姿で、その人の「魂のかけら」に触れたような気持ちになるのである。そして母は何か口にしたが、何を言っているのか上手く聞き取れなかった。何を言っているのだかわからないが、何かを伝えようとする意志はあるのだ。4月9日、母が病院に搬送され、その日の内に亡くなるかもしれないと言われた。延命のために、喉を切開して管を入れることに同意をしなくて本当に良かったと思う。母はあれから2か月以上も生きている。もし話すことができなかったら、生きることに失望していたかもしれない。
16.
1週間後、母の主治医と面談をした。母は肺炎になり感染病棟に移ったとのことだった。熱が出て、酸素濃度が低くなったので、検査をした結果、痰に菌があることを発見したそうだ。抗生物質の点滴を受けているらしいが、せっかく昼食はゼリーが食べれるようになったのに、またチューブから栄養を入れるだけの食事に戻ってしまった。まだリハビリテーション病院に受け入れられて貰えるそうだが、入院は最長5か月だ。もし回復が見込まれないと判断した場合は3か月くらいで見切りをつけられてしまうこともあるという。肺炎になってからは食べようとする意欲もなくなり、このまま口から食べることを拒絶し続ける場合は、「胃ろう」といい栄養を送るチューブを胃に取り付ける必要があると言われた。
17.
眠りが浅いせいか毎晩のように夢をみる。この間はスペインのガリシアの礼拝堂で祈りを捧げている夢を見た。ガリシアには行ったことはないが、キリスト教3代聖地の一つ、サンティアゴ・デ・コンポステーラがある。おそらく昔ニュースで見た巡礼に向かう列車の脱線事故が印象に残っているからだと思うのだが、朝晩、母が回復するように神棚に手を合わせているせいもあるかもしれない。母が元気だった頃は、よく会社での愚痴を聞いてもらったものだ。本気で会社を辞めようと思ったことは一度もないけれど、「辛かったら辞めてもいいんだよ」という母の一言が嬉しかったものだ。この世に一人でも自分の気持ちをわかってくれる人がいて欲しかったのかもしれない。それから、最近、展示会場でシャンパンと一口ステーキ食べる夢もみた。母が入院してからはお粗末な食事で、納豆とキムチでしのぐ夜が多かったりする。そろそろ厚い牛肉のステーキでも食べたいと思ってスーパーを覗いたら、牛肉は思っていた以上に高かった。そして何よりも驚いていているのは、随分年老いた母に頼って生きていたということだ。
18.
母が病院に搬送されて3か月近く経った。一人で生活するのにも慣れ、毎晩必ず母へ手紙を書き、撮り溜めた写真をランダムに貼ったノートを週末の面会の時に母へ渡す。30年以上も前、母は英国に留学する条件として、3人のおばあちゃんに達に絵葉書を送るように言いつけられた。言われた通り、月に一度くらいのサイクルで、街の雑貨屋で30円くらいの安いポストカードを買い、いつも天気のことばかり書いて日本に送った。おばあちゃん達のことをあまりよく知らないものだから、天気以外に共通点がないのだ。帰国すると、3人のおばあちゃん達は私に会いたがった。1人目のおばあちゃんは「いい子ちゃんね」と言って私に小遣いをくれた。2人目のおばあちゃんは私に遺産を残すと言ったが心臓麻痺である日ぽっくり亡くなった。3人目のおばあちゃんは私が尋ねると足を引きずって玄関まで向かいに出てきてくれた。そして泣き崩れた。私の心のこもっていない絵葉書にどれだけ救われたかと言うのだ。そのおばあちゃんは少額だけれども私に遺産を残した。平日、母は誰も見舞いに来ない大部屋で一人私が書き溜めた手紙を読み返しながら過ごす。手紙は生きるパワーを与えるのだ。
19.
仕事で失敗した夜、しーんとした部屋に、腹を抱えて笑い転げるかつてのクラスメイトが現れる。「面白いね、君の上司。そんな叱り方するんだ。」彼はおかしそうに話す。「でも、アイツよりはマシだよ。ほら、昔、君の写真を偽造してfacebookにアップした女。本当にやな奴だったよね。」彼はいつでも私のつまらない話をさも面白そうに耳を傾けてくれた人だ。辛い時、夢の中でも白昼夢でも彼は現れ、私を励ましてくれる。この間も夢の中に出演してくれて私の愚痴を聞いてくれていた。夢の中で私たちはホテルにいる。そこに年上の従姉妹が現れ、私達がどういう関係なのかと問いただす。彼は答える。「We are good freinds.」そう、私達は良い友達だったのだ。時は流れ、いつの頃からか、彼は私の中で永遠の人となった。たまにふと思う。今、一体、彼はどこで何をしているのだろう?と。結婚しているのだろうか?子供はいるのだろうか?仕事は何をしているのだろう?世界の片隅にあなたの幸せを祈っているかつて21歳だった女の子がいることを心のどこかで覚えていて欲しい。
20.
たまに会社をサボって遠出をしたい時がある。行き先は既に決まっている。京浜東北の終着駅「南浦和」だ。京浜東北線は私が通勤に使う路線で、電子掲示板で表示される「南浦和」という文字を毎日眺めていてる。JRは私鉄と違って路線が長い。終着駅は海に辿り着くようなイメージだが「南浦和」は違う。ある日、興味本位に「南浦和」ってどんな所だろうとネットで検索しかけて手を止めた。あらかじめ情報を手に入れて街を散策したくはない。ある晴れた日に、地図を広げて、気が向くままに街を歩いてみたいのだ。ところで、15年程前、広島から岩国に向かう途中で、「下関」行きの電車が目に止まった。学校の教科書で何度もお目にかかった「下関」、初めて会う遠い親戚のような気がして、岩国に行くのを諦めて、下関行きの電車に飛び乗りたいような衝動に駆り立てられた。終着駅にはロマンがある。何か予想外の未知の世界が広がっているような気がしてならない。
21.
両親と3人でタクシーに乗る夢をみた。なぜか私だけ途中で降ろされ、両親が乗ったタクシーを追いかける。父は4年前に亡くなった。母の脳と肺と血液はボロボロだ。私は一人になるのだろうか。
22.
母が病院に搬送されて3か月と1週間、水曜日に母の主治医に呼ばれ面談に行く。母の熱は下がっている。白血球も基準値だ。ただ、血液にタンパク質とカルシウムが増えている。悪性リンパ腫が悪化したのだ。今の状態が続くと8月を越せるかどうかわからない。体が衰弱しているから、抗がん剤を打つと翌日には死亡してしまうという。もう手の打ちようがない。
母はこんこんと眠る中、たまに目を覚ます。一昨日は兄が見舞いに来て目を覚まし、大層喜んだそうだ。兄はその翌日ヨドバシカメラに行き、母のためにCDプレイヤーを購入した。昔、母のために買った美空ひばりの歌を聴かせるためだ。でも本当はね、お母さんはクラシック音楽の方が好きなんだよ、とは兄には言わなかった。それぞれに母への思いがあるから、残された時間、私達は母のためにそれぞれベストを尽くすことだけしかできないから…命が消えようとしているところに希望なんてない。それでも「希望」というものは「思いやり」から生まれてくるものだと信じているから私達は最善を尽くす。
#創作大賞2024 #エッセイ部門
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