③閑話休題:続々ベテルに電凸した話

ようやく電凸します。
今回は痛くありません。
ただ、私がサタンだ!と言えるくらいには反抗の精神が強いお話になります。
エホバの証人に相応しくない人間とは私の事だな……と書いていて改めて思いました。


金曜日の集会に間に合う様に小走りで改札を抜け、電車に乗り、駅まで迎えに来た母の車に乗り込む。
駅から王国会館までは10分程で、適当に書籍研究の今週の部分に線を引っ張って、会場に着いたら始まるまで寝て、プログラムはバレないようにウトウトしながら聖書を開き、線を引き、ノートをとる。
マイクを取らなくていい位置に座っているから、注解で誰の名前呼ばれたかも気にせず、ただ右から左に流れていく言葉の意味を理解するつもりもなかった。
1秒でも早く家に帰りたい、それだけの気持ちでそこにいた。

集会が終わり、私は母に車の鍵をちょうだいと声をかけた。
「長老兄弟が貴方にお話があるそうです。」
「……それ、いつ決まったの?」
「さっきです。」
嘘つけ、絶対もっと前から決まっていただろう。来ないと困るからわざと言わなかったな。そう喉まで出た言葉は鉛のよう重かったが私は大人なので1人でそれを飲み込んだ。

「今日は来てくれてありがとうね。さくらさんの牧羊によく来てくれました。」
園芸長老と若い長老がレベルアップの為に私の牧羊に参加することになったらしい。母は私の横のパイプ椅子に座って深深とお辞儀をした。これは今日さっき決まった話じゃないな、サタンめ嘘つきやがって。
もう話する気力もない私に若い長老は会話を切り出した。

「お母さんから聞いたのですが、さくらさんは背教者と接触したそうですがそれは本当ですか?」
6つの目が私に突き刺さった。
今更ですか?と言いたくなるのを堪えて「そうですけど、何かありますか?」と逆に問うた。
「どうして背教者に会おうと思ったんですか?」
「エホバの証人をやめようとしてもやめさせてもらえなかったので、やめた人に話を聞きたいと思ったからです。」
「それは背教者から連絡が来たということですか?」
「私がそういう方がいないかを探して自分から連絡を取りました。」
シーーンとした部屋の中、若い長老は園芸長老にアイコンタクトをした。園芸長老はウンウンと頷きながら
「そうだったんだね、私達はさくらさんがエホバの証人を辞めたいという若さゆえの気持ちに理解を示したいと思いますが、やめて欲しいと思っていないんです。だから今日牧羊という形でさくらさんのお話を聞きたいと思ったんですね。続けて質問しますが、背教者に何か情報を渡しましたか?」
「渡せる重要な情報が私にあると思うんですか?」
逆に聞き返すと園芸長老は困った顔で笑いながら「ある可能性もあります」と言ったので「会衆の僕を務めた事のある方ですから私より深く色々ご存知だと思いますよ。そういった話はしていません。」と言った。
「では、実際に会った事はありますか?」
ガサガサと隣で母が何かを出す。私は受信したメールを全部消していたが送信メールは消していなかったので今回バレたのだが、母はその送信メールを私が消しても大丈夫な様にメモに書き出していた。
長老達はメモを覗き込んで黙読し私を見た。
「『ありがとうございます、当日はよろしくお願いいたします』とありますが実際に会った事はありますか?」
直感的に(これは会ったか会っていないかの確信がないんだ!)と思った。
「仕事でこちらに来る用事があるとの事で会う予定でしたが、当日その仕事が無くなってしまったようで実際にお会いすることはありませんでした。」いけしゃあしゃあと嘘をついた。牧羊の事を隠したのだからおあいこだと思った。
「本当に会っていないんですね?」
「会っていません。」
母はあからさまにホッとした顔で息を吐いた。
「ではどうしてエホバの証人を辞めたいと思ったんだろう?さくらさんが伝道者になった時『1年以内にバプテスマを受けたいです』って言っていたから兄弟、本当に楽しみにしていたんだよ?以前討議を申し込まれた時はもう大会2週間前だったからできなかったけど、その話を調整者の兄弟から聞いた時、僕は本当に嬉しかったんだ。」
嫌疑が晴れたからなのか、園芸長老の話し方はいつも通りになった。若い長老が「あっ、そうだったんですね!(当時はまだ奉仕の僕であった)」なんて和やかな雰囲気になったので、私はナパーム弾をぶち込む事にした。

「あの時の伝道者になったのは、母が伝道者にならないと高校受験させないと言って冗談だと思っていたけど本当に12月になっても書類にサインしてくれなくて慌てて伝道者になったので、2月の記念式のキャンペーンの時期に伝道者になったんです。私は高校受験する為に伝道者になりました。そもそも伝道者になるつもりは無かったですが、ならないといけなかったし、1年以内にバプテスマ受けると言いなさいと言われたのであの場で言いました。受ける気無かったのでバプテスマの討議の申し込みはわざと大会寸前の間に合わない時期にしました。」

ナパーム弾は本当によく炸裂した。
第二会場の空気は全部なくなったかな?と言いたいくらい数十秒前のほんのりとした和やかな空気は霧散し、重苦しい圧だけがそこに残った。
私は勝利宣言をしそうになった。
だから昔からエホバなぞ信じていないし、信じるつもりもなかったんだ!そう言おうとした。

「この子は、自分の欲望に弱いのでそうでもしないと離れると思ってそうしたんです。」
先に沈黙を破ったのは母だった。
「姉妹、その気持ちは分かります。たださくらさんも奉仕楽しそうにしていたよね?よく自転車で1人で片道30分かけて晩の奉仕に来ていたじゃない。僕は本当に感銘を受けていたんです。」
若い長老が空気のリカバリーを図った。
「あれは高校のテスト期間中です。家にいたら勉強しなさい勉強しなさいと言われるのでその時期は晩の奉仕にでました。奉仕に出る時は何も言われないので。」
若い長老は撃沈した。
「最初の理由はどうであれ、伝道者として頑張っていた部分もあるのではありませんか?以前、開拓者は伝道者を援助するのプログラムで、開拓者の姉妹と奉仕する事を最初は断られましたが、後には援助を受け入れられて奉仕頑張っていましたね。」
「あれはお断りした後、調整者の兄弟に呼ばれて断りきれずに受けたので断れるなら断りたかったです。そもそも信じていない事柄を宣べ伝えるのは苦痛だったので私は『聖書に親しみやすい雑誌をお持ちしました、ポストに入れておくので後でご覧になってください』と言ってポスティングする奉仕をするように心がけていました。内容について触れた事はほとんどありません。」と言い切った。
私は実際に2時間の奉仕でだいたい12冊ほどコンスタントに雑誌を出していたので恐らくダントツで雑誌を配布ていたと思う。そして雑誌を出す割に再訪問は全くしないスタンスだったので、長老達も思い当たる節はあった様で考え込みはじめた。
これはもう王手だ、完封勝利と言っても過言ではない!平和だ安全だ宣言は今だ!と思った瞬間母は反撃にでた。

「この子は、診断は受けていませんがアスペルガー症候群でADHDなんです!この子は自分が何を言っているのか理解して話をしていません!」

いや、だったらこの牧羊の意味皆無ーーーと思った時にはもう私は負けていた。

「そうだったんですね!?姉妹……それは大変でしたね……僕はアス……アスペルガー症候群?についてよく理解していないので、しっかり調べて理解した上でさくらさんとお母さん姉妹を尊重したいと思います。」
「姉妹、本当に今まで大変だったと思います。とりあえず、さくらさんはしばらく奉仕報告を提出しない、という事でお開きにしましょうか。」

私は、悔しくて泣いた。歯がギリギリと音を立てるくらいに歯軋りしたくなるのも声を出すのもグッと堪えた。そうしないと今座っているパイプ椅子をたたんでフルスイングして第二会場のガラスを叩き壊して会衆の図書を引き裂いて暴れないと気が済まないと思った。
その震えて怒りを堪えて泣く私を見て若い長老は「今まで理解が無くて本当に辛い思いさせましたね、エホバはさくらさんの言葉にならない声も聞いてくださる神です。祈ってこの会を閉じましょう。」と本当にトンチンカンな事を言った。

私だけ切り離された流氷に乗ってしまったかのように、私を置いて長老と母は何やら私の事を話はじめた。いかに私が何もわからず生きていて困っているのか、この間も家出して大変でしたもんね、なんて笑って話していた。

多分誕生日を、それも二十歳の記念すべき誕生日をこんな惨めな気持ちで過ごした日本人は私以外にいないのではないだろうか?
今私を抱きしめて慰めてくれたらその人に依存したくなるくらい体の中心に穴が空いた。

何が悪くて生まれて初めて誕生日に自分の名前のチョコのついたホールケーキを貰ったのに嫌味言われて素直に喜べない誕生祝いをされたんだろう。
何がダメで誕生日に、私の話を聞きたいと言って始まった牧羊で誰も私の話を聞く気が無いんだろう。
今日一日は私が今まで生きてきた中で5本指に入るくらい不幸で、自分自身が憐れで侘しいなんて思えるその自分のさもしさが卑しくて悔しかった。
帰りの車は無言で、私は家に帰ってそのまま母におやすみを告げて部屋にひきこもった。


エホバの証人は誕生日を祝わない。
どのくらい祝わないのかというとこの数年後たまたまカレンダーをみて今日が娘の誕生日である事に気付いた父が「あっ!今日さくらちゃん(父は基本的に私をちゃん付けで呼ぶ)今日誕生日だったんだ!何歳になったの?」と親戚のオジサンみたいな事を言う程度に生まれてきた日なんて特別でもでもないただの一日である。
20年間ずっとエホバの証人の子供だったのだから『自分の二十歳の誕生日』に何かを期待した私の方が馬鹿であったし、そんな日に牧羊が重なったのも顔が酷い間は集会に行かなかったのだから、久々に行った集会がたまたま誕生日だったから牧羊になっただけであったし、元々休みにしていたのに常連のお客さんが『どうしてもお顔合わせはさくらさんに接客担当してほしい』と言ったからたまたま出勤になっただけで、たまたま調理場の機嫌損ねた調理長が名誉挽回すべく目をつけたのが私の誕生日で、たまたま居合わせたチーフが特別扱いされた私に対して調子に乗って自分から誕生日だと言ってケーキ買わせたんだと感じてキツい物言いをしただけだし、何も私は悪くないけれど、あまりにも日頃の行いが悪いから楽しく過ごそうと思っていた日にこんな目に遭ったんだ。

真っ暗な部屋の中、携帯に届いた幼馴染や友達からの『さくらちゃんお誕生日おめでとう!』のメールを繰り返し見てボロボロ泣きながら寝た。
朝起きたら携帯の充電は10%を切っていたし、まぶたはどうぶつの森でハチに刺されたんか?というくらいボッコリ腫れ上がって目も当てられない顔面であったけれど、それ以上酷い顔で働いた事があったのでそんなものは屁でもなかった。

日曜日の集会で祈りが終わった瞬間に席を立って帰ろうとした私と母を若い長老が呼び止めた。
「姉妹、さくらさん!僕、あの後家に帰ってアスペルガー症候群調べたんです。目ざめよ誌の2008年9月号にアスペルガー症候群について載っていて……。今まで本当に大変でしたね!早く楽園が来たらいいですよね!」と犬歯を見せて屈託のない顔でニカッと笑いかけてきた。
殺すぞ、死ねバァァァァァーーーーカ!アスペルガー症候群くらいネットでググれカス!!!なんでwatch tower Libraryで調べたんだ、お花畑もいい加減にしろ!!!

そう言いたいのを堪えて私は虚無の顔で兄弟をみた。
母が代わりに「ありがとうございます」といって車に乗った。

あの長老のアホさ加減は一生忘れないと思う。





第三次宗教戦争は22歳の冬だった。

その頃の私は完全に不活発だけど集会にだけは毎回来ている、日曜日アーメンダッシュで帰る人だった。
散々コケにされた牧羊の日に『奉仕報告はしばらく提出しない事で』なんて言っていたのに2、3ヶ月後には『そろそろどうです?』みたいなことを言われ、私はしてもいない奉仕時間を毎月『1時間』と書いて出していた。誰しもが嘘だと分かる筈なのにお咎めを受けたことは無い。きっと日本の奉仕時間としてカウントされて年鑑にも載ったであろう。

まだ辞める、という事を私は諦めていなかった。
むしろエホバの証人の活動に対して会衆の誰が見たとしても(こいつは死ぬ程やる気ないな、霊性低いわ)という立派な不活発な人に成長した。
エホバなんか大嫌いですよアピールをしても私の話なんて長老が聞く気無いんだから、むしろ逆にやりたい放題にグレーゾーンをスレスレを試して反抗した。

ちょうど膝丈で座ると膝が出る長さのスカートを履いたら、親を通して園芸長老から相応しくないと言われた(周りの同じ年頃の子はそのくらいの長さを履いていてひざ掛けをして座っていたし、私もそうしていた)ので、スカートのリクルートスーツで行った。
リクルートスーツはきちんとお店で合わせてもらったものなので相応しくない訳が無いが、「座ると膝が出る、後ろのスリットが〜」とごく普通のリクルートスーツに正面から喧嘩を売ってきたので、ならば仕方ないと、パンツスーツで集会に行った。女性用スーツで世でも認められた相応しい正装で行ったのに「相応しい」
と言われた。あれは未だに解せない。

大会でバッジを付けないで行く事もした。
ささやかな抵抗ではあるが、あれは大会会場で付けてない人は意外と目立つ。忘れただの持ってないだののらりくらりかわしていると、母はとうとう私に渡す分より1枚多くバッジを貰い、当日手渡しするようになった。
「バッジケース持ってない」とあっけらかんと答えると
母の顔は歪んだ。

夏の大会の最終日、皆さんは行ったことがあるだろうか?行ったことがある人、特に千葉県某メッセに行ったことのある人は何となくわかると思うが、大会最終日は自発奉仕の兄弟姉妹が割と早々にアリーナ席のゴミ箱を回収して、兄弟姉妹達が持っている袋の中にポイポイゴミを捨てるシステムになる。そこに最後胸元から抜いた名札を捨てた。
気づかないで歓談している自発奉仕者もいるが、大抵ギョッとした顔でこちらを見る。反抗というより嫌がらせに近いものであったけど、そうでもしないと大会になんて行きたくなかった。
プログラムは午前も午後も寝倒し、お昼休みにイヤホンしてゲームやTwitterをしていたら園芸長老に「何をしているの?ゲーム?それは相応しくないよね、せっかく大会に来たのだから交わりを楽しんで。」と言われれば、携帯をカバンにしまい込んで寝た。あの時の園芸長老の顔は忘れられない。ドン引きしていた。
他にも色々したけれど、どれもそれを理由に辞めるには説得力が弱かった。

エホバが明らかにしてくれるに違いない!と思って、手当たり次第に思いつく悪い事、例えばタバコ吸ってみたり、ギャンブルしてみたり、浴びるようにお酒飲んでみたり、SEXしたり、お金も無いしあまりにエホバが気づいてくれないので風俗で働いてみたりしたが、聖書で他の神々を聞こえもしないし見えもしない、自分で動く事もできないと散々disっていたわりに、エホバも目も耳も遠く、タバコの臭いにも気付かないようで、さすが始まりも終わりも無い神はひと味違うな、と思った。

私のいた会衆は元々成員が多かったのに2つだったか3つだったかの会衆が統廃合して常時集会に100人以上は出席していて補助開拓者や開拓者が過半数、特別開拓者のおばあちゃん姉妹が2人いたり、子供や若い人も半分くらいいて長老が7人くらいいたり、かなり活発な会衆だったので割り当てが姉妹たちに回ってくる頻度は少なく忘れた頃にくる、という感じであった。
そして私は神権宣教学校に入っていた。
最初の頃は何となく免除されてるような……?だったのが半年毎に、4ヶ月毎に、と頻度が上がってきた。
割り当ては本当に当日の朝になっても爪の先程の気力も湧いてこなくて家から王国会館までの車移動の25分間で作って、王国会館のコピー機で勝手にコピーしてお相手の姉妹とその場で読み合わせて本番を迎えていたし、ぜひ私がエホバの証人になる気ZEROなのを知って欲しい気持ちが強すぎて、聖書は神の言葉ですか?的な主題の割り当てで『わたしは親がエホバの証人で小さい時からエホバがいる、と言われ教えられ続けてきたので神がいないと感じた事がないので、そういう風な事をあまり考えたことはありませんが。』なんてぶち込んでみたり、とにかく長老から「もう割り当てしなくていいよ」と言わせたくて堪らなかった。
誰も言ってくれなかった。

そのうちに、私に好きな人が出来た。
付き合いたい、一緒にいたい、そう思った。

今まではいきなり全部やめようとしてやめられなかったし、失う物は自分の気力や誇りや大切にしていたものだったが、今回ばかりは多分好きな人となんかなった時に二度と会えなくなったら困る。もう立ち直れない、そう考えて、1つづつ確実にやめる事にした。



手始めに奉仕報告を出すのをやめた。
最初の4ヶ月は何も言ってこなかった(正確にはさくらさんの奉仕報告が出ていませんと親に報告が行き、親が私に言い、私が合計数に──を引いて提出)が、5ヶ月目は集会の帰りにドサッと園芸長老が隣の席に座り
「さくらちゃん、奉仕報告どうする?」と聞いてきた。
「このままでいいです。」
「6ヶ月以上奉仕していないと正式に不活発な人になるんだよね。15分でも時間入れたら?と思うんだけど、15分の奉仕が認められるのは体調不良とかで本当に奉仕が出来ない人だけなんだ。1時間頑張ってみよう?」
「いえ、このままでいいです。」
園芸長老は何も言わずジィと私の目を見つめ、そっか。と言って席を立った。
私は翌月から不活発な成員という称号をゲットした。
その2ヶ月くらい後、久々に本会場の割り当てがきた。
当日に作って、読み合わせする時間もないままぶっつけ本番で割り当てをこなした。
本会場の助言者は調整者の長老だったので、話しかけるタイミングは助言貰う時だと思った。
「最後に質問はありますか?」
「神権宣教学校はもうこれで終わりにします。」
「えっ?」
「私はエホバを信じていないので、信じていない事柄について話すことはできません。なのでもう割り当てしたくありません。第二会場でもしたくありません。」
「何か自信が無いという事ですか?今日の割り当ても本当によく準備された割り当てでしたよ、自信を持って大丈夫です。」
「ここ2年ほど、割り当ては全て当日に資料を読んで30分で作りぶっつけ本番でやっていました。今日のも行きの車で作り、お相手の姉妹には悪いですが、練習1度もせずに話しました。良く準備していません。トータル40分で作っています。」
「……。今日は長老の集まりがあるので、来週その事についてお話をしましょう。」
親に言われたらどうしよう?と思ったので私は帰りの車で母に「今日、もう割り当てしないって言ったので。」と伝えた。
「……そう。」とだけ、母は答えた。

翌週、調整者の兄弟が助言するのを終わるのを待っていたが、兄弟は話しかけようとしたら手早く荷物をまとめて第三会場に吸い込まれていった。
園芸長老が近くにいたので尋ねたら群れの補佐との会議で、終わるのは遅いと言われたので帰った。
1時間も待ったのに!

翌々週も助言が終わるのを待って「調整者兄弟」と呼んだが、そんなに小さな声ではなかったのにガン無視で第二会場に消えた。
長老は全員第二会場に消えた。
近くにいた僕の兄弟に「長老の集まりは何時に終わりますか?」とちょっとキレ気味に聞いたら、多分1時間以上かかるよ、と言われた。
今日も1時間待ったのに!!!

帰りの車で母に思わず「調整者兄弟、私に先々週『来週話し合いましょう』って自分から言ったのに私の事忘れてる!2週連続1時間も待ってるのに!!」と言うと、母は車を運転しながら、
「そういえば、先週『さくらさんの神権宣教学校の件で姉妹話聞いていますか?』って聞かれたから、聞いてます。って答えたら『分かりました』って言ってたよ。多分もう兄弟の中で終わった話になってるんじゃない?」と言った。
そんな話先週したんだったらその時に教えてよ、と思いつつ「あの兄弟、いつもそうなの?」と聞くと「そうです。そういう兄弟です。」と返ってきた。
そういえば、奥さん姉妹が昔、九州男児だから台所には絶対入らないし仕事しかしない、なんて言ってたな。私は疎かにされたんだな。と思った。
モヤモヤしつつも、割り当てはその後二度と私に回ってくる事は無くなった。


後は伝道者を削除してもらうだけだ。
私を一般人にしてくれ。
奉仕の僕の兄弟がちょうどその頃長老になり、そのまま奉仕監督の兄弟になっていた。
「兄弟、私伝道者やめたいので伝道者削除して欲しいです。」
兄弟は、何言ってるんだ??という顔で「もう既にさくらさんの場合不活発な伝道者になってますよ……?」と私の方をみて言った。
「不活発な伝道者なのは知ってるんですけど、伝道者自体をやめたいんです。もうエホバの証人と関わりたくないんです。なんだったら、奉仕会で『さくらさんは伝道者から削除されました』って言われてみんなから避けられたいんです。」
食い気味に言ったらだいぶ引かれて、兄弟はしどろもどろになりながら「そういう制度はありませんし、発表もありません。伝道者に戻りたいなら奉仕報告出せば大丈夫だけど、、」
「出さなかったら不活発で伝道者云々はどうにもならないって事ですか?」
「そうなるね。」

わかりました、ありがとうございます。そう言って私は考えた。
なら後はもう、向こうから来ないでくれ、くらいに思わせる何かがいる。どうしたらいいんだろう。
私は脳みそを毎日雑巾絞りしてずっと考え続けた。



同じ頃、私の父は病んでいた。
元々貰い事故でPTSDになってから、とても気分がいい期間ともうマリアナ海溝に沈めてくれ、くらい気分が落ち込む期間とが波のように鬱となって父に現れた。
また、園芸長老が父の研究司会者(現在進行形)なのだが、この長老空気が非常に読めない。

この長老の空気が読めないエピソードは強烈で、例えば、私の地元の駅には十数年間そのJRの駅に住んでいる有名なホームレスがいて、長老は街路伝道でその人に話しかけ仲良くなりどうしてホームレスになったかをご本人から聞いた上で私にその街路伝道の帰り道の車でこう言った。
「〇〇(ホームレス)さん、もう十数年もあの駅に住んでるんだって!早く家借りて仕事探したらいいのにねぇ……。」
家がなくて金もねぇからあそこに住んで日銭稼いで生き延びてるんですけどね、とは流石に言えなかったが、恐らく同じ事は本人にも言ったと思う。
別の時には、私と2人で晩の奉仕で入る家のいかにも峠の走り屋!という車に『なんちゃら angel's』といういかにも峠の走り屋のグループの名前かな!というステッカーが貼ってあり、それを見た長老は私に「なんて書いてあるんだろう?」と聞いてきたので、エンジェルズは読めますけどその前の英単語は意味知りません。と返したらそのままインターフォンを押し、出てきた家の人にこんばんはの挨拶も名乗りもせずに、
「すみません、車のステッカー、なんとかエンジェルズってなんですか?」と聞いた。
「はァ?」うん、はァ?以外言えないよね、分かる。
「いやね、車になんとかエンジェルズってステッカーあるじゃないですか」
ブツッ……とインターフォンが切れても話している長老に
「兄弟、インターフォン切れましたよ」と言った。
すると心臓に剛毛生えすぎな兄弟はまたインターフォンを鳴らし続きを喋り始めるも今度は無言で切られ、3回目のインターフォンは鳴らなかったので恐らく電源を落とされたのだと思う。
そしてその日はとても暑い夏の晩で家の窓は全開だったので中から『なんなの!超キモイんだけど!警察呼べ!』という声が聞こえてきて、インターフォン鳴ってないから繋がってると思い込んでしゃべり続ける長老を私は慌ててインターフォンから引き剥がして帰ったのだがその帰りも「あれはなんて書いてあったんだろうか……」とひたすらそればかり言っていた。

そのくらい空気の読めない長老が日本海溝に沈んでいる父に何を言ったかと言うと、
「最近さくらさんが反抗的なのは貴方の頭の権威をさくらさんが軽んじているからです!」と傷口に粗塩を揉み込んだ。
その後私は無事に23歳にもなって父親の前で生尻出してゴミホースで10発ぶっ叩かれる目に合うのだが、恐らくそういった長老の発言が病んでる父に追討ちをかけて父も長老の予想の斜め上を行く方法で私への躾をしたと思うのだが、とばっちりにも程がある。
それも、ボーイズラブな小説部屋にあった!相応しくない!あと最近また帰りが遅い!調子に乗っている!という理由だったが、父が発見したのはボーイズラブではなく一応受けが女の子になったという特殊性癖のノーマルな小説で、持っていたのは貴方の娘が二次創作の小説作って印刷所に出したサンプルですよ、メイド・イン・お前の娘。とは口が裂けても言えないし、今も言っていない。多分言ったら鞭増えただろうし。

何故尻を叩かれなければならなかったのか、と煮え滾る怒りを腹に抱えて過ごして数日後、リビングに入ると今にも腐海に飲み込まれそうな父がダイニングテーブルに座って項垂れていた。
そして唐突に、小さな声で言った。
「本当にごめんね。」
「何が?」振り返りもせずに私は言ったが、グズグズと鼻をすする音で慌てて振り返った。
父は泣いていた。
「ごめんね、お父さん、今ちょっと普通じゃなくて。鬱で凄く落ち込んでる時期だからもう何していてもこうなっちゃうんだよね。」
母が泣いた時も衝撃的であったが、あの父が、子供のように泣きじゃくるのはものすごく心臓に悪かった。
「さくらちゃんの事は本当に大切で、本当に愛しているんだけど、この前に園芸長老からさくらちゃんがお父さんの頭の権威を軽んじているから反抗的なんだって言われてからもうどうしていいか分からなくて。」
嘘だときっと父は分かったかもしれない。私だってそんなに出来た人間じゃない。ふざけるな、それで叩いたの?ハタチ超えた娘の下着脱がして尻を?とは思ったものの、それらは泣いている父の前で高速で頭の端の方に掻き集めて隠された。
「うんうん、分かってるよ。お父さんが私の事愛してくれてるのは分かってる。私もお父さんが大好きだよ。」
ただひたすらそれだけ言った。
父が好きなのは嘘ではない。愛しているのも嘘ではない。父は過去幼い私をいろんな所に連れて行ってくれて飢えさせもせず、(父が養う、といった面では)経済的に困窮することも無く、頼めば無理のない範囲で何でもさせてくれた。キャンプも海もキャッチボールも。
それを覆い尽くす程のカルト的宗教という大きな問題が我が家にはあった、というだけで。
この人は、エホバの証人と研究しなかったら、妻がエホバの証人では無かったら、もう少し違う人生を歩んで鬱にはなったとしてもここまで深く気持ちが落ち込んで人前で、しかも一番見られたくなかったであろう娘の前で泣く事もなかったのではないだろうか?
(後に、もしエホバの証人と関わってなかったら家族サービスしない、家族と余り関わらない父親になったと思うよ、と自分で言っていたが、私はそうは思わない。)

なんとか父を宥めて落ち着かせた後に私を支配したのは戸惑いや悲しみではなく、怒りだった。
一言園芸長老に言わないともう気が済まなかった。
『子供たちの頭である父親は,子供をいら立たせるべきではなく,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」育てるべきです。』という子供への頭の権の用い方は父の場合、頭の権威の私への行使の仕方は当てはまらないどころか間違っていると思うし、そもそも弱った羊を手当して懐に入れて運ぶ羊飼いの立場の長老は、弱った父親の傷に塩を刷り込んで無理やり毛刈りした様なものだと思う。父が道産子だからジンギスカンにでもするつもりだったのだろうか。

その週の集会で私はガヤガヤしている玄関ロビーにいた園芸長老を呼び止めた。
「兄弟、うち父が鬱なの知っていますよね?」
「最近は体調よくないってお父さん仰ってたね。」
「そういう気持ちがどん底の時にどうしてわざわざ私がエホバの証人をやめようとしているのは父の頭の権威を軽んじているからだ、なんて言ったんですか?」
「……。」
「私は父の頭の権威を軽んじた事はありません。父と母のエホバの証人としての信条は尊重しています。人間として尊敬もしていますし、愛しています。ただ、私にも信条の自由があります。それは頭の権威を損なう為に故意に嫌がらせで辞めたいと言っている訳ではありません。」
「うーん、でも」
「私は頭の権威を損なう為に、親を困らせる為にやめたいんじゃありません。父に謝ってください。二度とそんな事言わないでください。特に心が落ち込んでる時には。」
「ああ、分かりました。」顰めっ面で無理やり笑ったような気味の悪い顔をして長老は言った。
分かってないな、ほらそういう所が頭の権威を軽んじてるのに。みたいな事を思っているのが手に取るように伝わってきた。

それと同時に、また今やめたいと言っても以前と変わらないとも思った。
もうこの会衆の長老達に何を言っても何も変わらないしどうにもならないと思った。
やめたい、と言う場所は何もここで無くていいじゃないか。ふと閃いた。

翌日、私は海老名ベテルに電話した。
受付の姉妹に「鬱で一番落ち込んでる時の父に貴方の娘が頭の権威を軽んじているから反抗的でエホバの証人をやめようとするんだと研究司会者の長老が言ったのですが、調べても根拠が分かりません。どこに書いてありますか?」と聞いた。
代わりに出たのは30代後半くらいかな?という声の兄弟だった。1から10まで事のあらましを説明した。父との研究もしないで欲しい、と伝えた。
「そうですね、ちょっとその兄弟の解釈は当てはまらないと思います。でもお父様の研究はもうやめて欲しいというのは本人の問題なので、お父様御本人がやめると仰らないとそれは出来ません。」
「そうですよね?本人の問題ですよね?私はもう物心ついた時からエホバの証人やめたくて仕方が無いのに何度訴えても、牧羊の時でさえ、私の話を聞くと言っていたのに母が言った、この子は病気で精神疾患があるから何を言ってるか理解できないんですという母の言葉を鵜呑みにして話も聞いて貰えず、もう5年も前からやめられないんです。本人の良心の問題ですよね?どうしてやめられないんでしょう?」
「それは……牧羊での話ですか?」
「牧羊での話です。」
「私がその場にいた訳では無いのでなんとも言えないんですけれども、話の通りだとしたら……その、ちょっとおかしいですよね。」
「話の通りなのでもう数年エホバの証人として時間を無駄に過ごしています。どうしたらやめられますか?」
「やはり、会衆の長老に言っていただいて……」
「こんなにハッキリ意見が言えるのに、話している内容を理解していない精神疾患の子供だと思われているのに?また話をしてくださいって言うのがベテルの総意って事ですか?」
「いや、そうではなくて……もう一度会衆の長老達と話してみるといいかもしれない、という事です。」
「それは個人の意見ですか?ではお名前伺っても?」
「規則で名前は言えないことになっていますので。」
「私の所属している会衆名や名前は聞いたのにですか?それでは誰と話したかが分からなくてもしまたやめられなかった時に『そんな事言ってません』なんて無責任なこと言われたら困るので絶対名前教えて欲しいです。」
「名前は教えることができません。それと、もう昼の休憩の時間になるので1度お切りしてもよろしいでしょうか?」
「嫌です。どうしたらやめられますか?私はバプテスマを受けていないのでされたくても正式な意味での排斥になりませんし、断絶届も正式なものでは無いので意味がありません。もうこの状況にはうんざりなんです。1秒でも早くやめたいんです。エホバの証人を。」
「こちらも、決まった時間に休憩をとる事になっているんです。」
「兄弟にとって私がやめたいのは私の勝手な都合ですが、私にとって兄弟が休憩取りたいのも名前も知らない兄弟の勝手な都合なんです。どうしたら確実にやめさせてもらえるのかどうしても教えて欲しいんです、今。私が暴力を振るわれずに無傷でやめられる方法が知りたいんです。何度か親に懲らしめの鞭として顔面タコ殴りにされまして。お岩さんみたいにはなるし、自分の両手が捻挫して小指にヒビが入るほどの力で殴ったり蹴られたりして、私はあばら骨にヒビが入ったこともあるんですよ。兄弟はエホバからの愛ある懲らしめで骨にヒビが入ったことはありますか?」
ハァ、とあからさまに面倒臭そうな溜息を名無しの兄弟はついた。
「……じゃあ、もうこちらからお伝えしましょうか?」
「何をですか?」
「こちらから会衆の長老に電話でエホバの証人をやめたい旨お伝えしましょうか?」
「そんなことが出来るんですか?」
「……。」
「ぜひお願いしたいです。いつ伝えて貰えますか?それで本当にやめられるんですね?」
「はい。」
私は再度名無しの兄弟に会衆と自分の名前を伝えた。
早くても今日の午後か遅くても明日の午前中には必ず電話が調整者の長老に行くとの事だった。
「くれぐれもお願いしますね。すみませんね、お昼休憩遅くなって。」
「あぁ、15分すぎましたけどね。」
腹立つな、とは思ったがそれ以上は何も言わずに私は電話を切った。
胃薬と全身に出る蕁麻疹の薬を貰いに行った病院の駐車場で、私はようやくエホバの証人から解放された。


その日はとてもよく晴れた、白くて薄い雲が軽やかに浮いている木曜日だった。
「よっっしゃーーー!!!」
私は1人でガッツポーズをした。
明日の夜は集会で、行くかどうかとても悩んだ。
当日も『もう来ないんでしょ』と早く母が言わないかソワソワ見ていたが「さっさと準備しなさい!」と言われた。
早くて今日の午後か遅くても明日の午前中には、と言っていたのに、やっぱり言っていないのか?
名前も規則だと言って名乗らないし、休憩取りたいから電話を切らせる口実だったのか?
モヤモヤしながら王国会館へ向かった。

集会は恙無く終わってしまった。
もう、やめるにはこの王国会館燃やすしかないかな、金属バットで片っ端から窓ガラス割るか?と出来もしない物騒な妄想をしながら帰ろうとすると、園芸長老が小走りで追いかけてきて、私をチラリと見てから、
「お母さん姉妹、ちょっとお話が……。」
そう言って母を第三会場へ連れて行った。
私の脳内は「よくやった!名も知らぬベテルの人よ!」というアテネにありそうな祭壇で肉焼いてるイメージの前に、これは帰ったら朝まで話し合いのコースか……。という虚無がスライディングで滑り込んできて気持ちはお通夜だった。
もうやめるというのは、もう少し、そう昨日の電話切ってガッツポーズした時のあの清々しい全てから解き放たれた気持ちになると思ったのに、現実になったら気持ちがお通夜で、救心が飲みたくなる程度に動悸と気つけがした。壁を触っていないとジッと立っているのは難しかった。

5分と経たずに母は第三会場から出てきた。
ペコペコと長老に頭を下げて、そして完全な無の顔で「帰るよ」と私に言った。
帰りの車は無言が車内を支配していて、自分が唾を飲み込む音すら響きそうだった。
母は一言「本当にやめるの?」と聞いてきた。
「うん、もうやめるよ。決めたから。」


「そう。」




何事もなく、家につき、何事もなくベッドに潜った。
途中やっぱり突然寝込みに包丁持って来て刺されたり、鳩尾とか踏まれるんじゃないか?と思って夜中15分から30分おきに、母の様子を伺いに行った。
3時間くらい何度も何度も確認して、母が起きてこない、完全に寝ているのを確認して、私はうつ伏せに、顔を枕に埋めて、足を思い切りバタバタと動かした。


やめた!やめたぞ!わたしはとうとう、やめたんだ!!!!


その日は興奮して寝付けず、ようやく寝たのは朝日がほんのり空を明るくした頃で、私の頭は起きても睡眠が全く足りなくて上手く働かなかったが、地に足がつかないくらい、今日はなんでも出来る気がしてたまらなかった。
本当に地に足が着いていなかったので、私はその日職場で赤ワインのグラスを磨こうとして、1つ1,600円のボルドータイプのグラスを3つ、捻り割った。
ややしばらく、職場でゴリラと呼ばれる羽目になった。

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