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連作詩 『パパさまよった』 もうすぐ完結

 家にてもたゆたふいのち 波のうえに浮きてしをれば奥処しらずも
 
 万葉集に載っている大伴旅人の歌。お家にいる時でさえも、落ち着くことなく、たゆたっているこの命が、そのうえさらに旅先で舟に揺られてたゆたっていたら(仕事先で世間の荒波にもまれて浮き沈みしていたら)もうどこまでも奥の知れない果てしない心地がする、みたいな心象でしょうか。
 
 春からずっと書き続けてきた連作詩『パパさまよった』
 もうすぐ全篇、清書と掲載を終えて、完結しそうです。

 まさか飯田くんがパパになって子供を育てているなんてねえ、とかつてのアート仲間から嘆息されることがあります。
 たーちゃん、のるちゃん、お聞きください。きみたちのパパは、かつて仲間からそういう眼差を向けられていた人物でした。きみたちのパパは「まさか」のパパだよ。レアなんだよ。

 もちろんこちらも、まさしくそういう「まさかね」っていう目で、人を見てしまったことはあります。「ああ、この人、一生、育児なんかとは無縁なんだろうな。子供のオムツ替えてるところとか想像できないし」なんて思ってしまう相手がちらほらいたんですね。
 若き日の黒瀬珂瀾ちゃんと歌会の後で呑んだ晩も「ああ、この人」と感じました。「朝刊を訃報から読む我が癖を知らずに眠る少年の息」みたいな歌を彼が作っていた頃のことです。「病院の立ち入り禁止の地下室で姉と弟 繃帯を解く」みたいな歌を作っていました、こちらは。

 珂瀾ちゃんはその後パパになって芸風が別人化してしまい「保育所の扉ひらけば埠頭へと舟寄るごとくわが脚に着く」みたいな歌を詠んでいます。
 この歌のうち半分は、こちらもそのまま日ごとに実体感してる。保育園の扉をひらくと、子たちが甘えたはしゃぎ声で「パパ〜」と足に擦り寄り、足にしがみついてくる。ただ、自分の場合は、子たちにとって埠頭みたいな拠り所になっている実感がない。自分のことを、社会的にも精神的にもしっかりと安定した船着場だと感じられない。「園内の扉ひらけば砂浜へ舟寄るごとくわが脚に着く」みたいな感じです。

 そういえば黒瀬珂瀾は、ロンドンで子育て初心者だった頃、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をお家でじっくり読んでいたとのこと。『ユリシーズ』は文体・構成・登場人物・登場人物の心理など、あらゆる要素がひたすら「あてどなくさまよい続ける」前代未聞の小説。西欧の漂泊文化の代表選手みたいな文芸作品なのである。馴染みない新人家族と過ごしつつ、やっぱり異国で心さまよっていたのかな。

 そりゃあパパだって、さまようよ。つうか、さまようよきっと、パパになったら。それなのに、パパって言ったら世間体では、さまよったりとか、迷ったりとか、逡巡系が許されにくい立場でしょ。ブレブレだったり、常時うつろい変わったりとか、しない大人が、世のなかのいわゆる「いいパパ」ったりするんでしょ。だからパパのお友達なんかもみんな、子供ができてパパ化した途端、正しく・立派に・生真面目に、安定していて一貫している、みたいなしっかり出来た人物であろうとしてさ、家族に見栄はって、つい頑張ったりし始める。それでよけいに反動で、こころさまよっちゃうんだろうなー。

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 今年になってから、子育て初心者のお父さんや、子育て経験のあるお父さんから、渦中の気持ちを聞かせてもらう機会に数多く恵まれた。「お蔭様で」「楽しかった」「可愛かったから」「どうしたらいいのか」「大変だった」「よく働けた」「すまなかった」「気の毒なことをした」そんな言葉も頻繁に聞いた。

 多くのお父さんたちは子供が産まれてしばらく経つと、アイデンティティの揺らぐ体験をしているらしい。ビフォー&アフターで性格や芸風がまったく変わってしまった人たちもいる。
「子供が産まれて、物事の見え方とか、何か変わりましたか?」と聞かれて、「いやあ、特に何も変わらないね」なんて答えていたのも、私の場合は、3人目が生まれるまでの話だった。つくづく呑気で能天気で身がままだったと思います。ママにはだいぶ負担をかけてしまっていた。

 その後、3人目の長男が立ったり、喋ったり、歩いたり、激しく進化していくかたわら、こちらも激変を経験しました。お家の中で、育ち盛りの子たちは3人とも激しく成長し続けている。こちらも変わらざるを得なくなる。幼い我が子たちと暮らすっていうのは、途方もない初体験で、両親を続けて亡くした時さえもこんな地殻変動は起こらなかった。物事の見え方がひっくり返ってしまった。この歳になって見知らぬ世界が次つぎと現れてくる。
 何をしていても、心はいつでもどこかしら、どっしりとひとつのところに落ち着くことなく、たゆたい、さまよっている感じです。
   
 そしてまた、こころの奥で、揺らぐことなく変わることなく、いつでもどこでも誰とでも続いているポエジアの現実もある。

 家にてもたゆたふいのち 波のうえに浮きてしをれば奥処しらずも

 この歌を想い起こしては、しみじみと共感してしまう心。この共感する心だけは10代の頃からまったく変わりがない。
 歳を経てどんなに暮らしぶりが変わり世界観が変わっても、想い起こすたびにあらためて感動できる永遠の詩歌。一生の親友みたいなそんな詩歌がたしかにこの世に存在してくれている。これって奇跡みたいに素晴らしいことなんじゃないかと思います。
 
 いくたび読んでも、心が新鮮にびっくりして、素直にしっくりきて、意識がはっきりしてくる。そんな詩を自分も生み出そうとして、色んな国の言葉で詩を暗誦しては、ポエジア浸りの日々を過ごしていた頃もあります。

 詩にまつわる、かつての気負いも、気張りも、気づけばすっかり消えていた。
 生きていられたら大丈夫。生き延びられたら大丈夫。どんな感覚も、どんな運動も、どんなポエジアも、いのちあってこそ生まれてくる。
 生き延びるために、命はなんだってする。
 必要なら詩なんかも生み出す。
 昆虫が巣を作るのなんかと似ているのかな、今日ひと日を、今この時を、どうにか生き延びようとしていつしか、どうやら生存本能みたいな感じで、詩が生まれるようになっていた。
 こんな気持ちになるなんて、なんだかびっくりしてしまって、しかもしっくり感がある、そんな気持ちを、今ここではっきりさせておかないと、このまま人として生き続けていられないような心地になる。そんな心地が極まった時、活火山の火口から、火山灰でも溶岩でもなく、卵がひとつ生まれてくるような感じで、詩がひとつ生まれてくる。その卵を割ったり調理して味つけしたりすることなく、なるべく生まれたまんまの形で書き留める。

 ポエジアによる鎮魂活動とでもいうのかな、いったん文字にして形にしてしまえば、あてどなく たゆたい さまよっていた想いも、やみくもに荒ぶることなく明日もまたどうにか正気で暮らせるくらい、そこそこには鎮まってくれるようです。


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朗読している動画はこちらから。

https://www.youtube.com/channel/UCdt4nStjoaRZntWXOhLtmpQ
 

 
 

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