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起こしたい「コト」発表🥳
今回は、やさしさラボで起こしたい「コト」について書きます。
自分が起こしたい「コト」
『LINE上での「やさしいコミュニケーション」の探究と実践』
自分と、スマートフォンの画面のむこうにいる人との間で、
言葉/絵/音声などさまざまな手段を使って、LINE上の「やさしいコミュニケーション」を探ることで、
自分にとって「やさしさとは何か」に近づいてみたいと思います。
LINEにしぼったのは、短
【第3回WS〜起こす「コト」を決めるまでの経過観察🐟②】
経過観察の第2弾!
足どり④「ひらがな」のやさしさを調べる
まず、日常でひらがなが使われているシチュエーションを探してみました。
ひらがなが使われるとき①私の書く文章の中で
やさしさラボエントリー時の文章を、記号に変換して表してみました。
※「やさしさ」→「優しさ」、「指導する立場のとき」→「指導する立場の時」など、無理やりでも漢字に変換できるところは変換後に記号化しています。
漢字→●
カ
【第3回WS〜起こす「コト」を決めるまでの経過観察🐟①】
やさしさラボに参加している、さくらです🐟
さて、12月もいつのまにか中旬。ラジオを聴いていても、「今日は12月○日…今年ももう終わりますね〜」という挨拶に、毎回ドキッとします。
やさしさラボも、12/27の最終発表会が近づいてきました😲
今回は、第3回目のWSを終えてから、私が考えたり調べたりしてきたことについて書きます。
足どり①: 相談時のやさしさのズレを楽しむスケールをつくりたい
そ
(おまけ)「エンパワーメント」の呪縛
※11/30に書いた文章です。
中村さんのトークセッションの中で、「エンパワーメントって押しつけなのか?」「メンターが必要ない人もいるのではないか?」というお話が出ていました。心当たりがあったし、今後も使い方を考えないといけない言葉だと思っています。
大学生のある夏、高校生向けの教育プログラムに関わっていました。
プログラムの中で、「高校生のロールモデルをつくる」「高校生をエンパワーメントす
徳の「積ませ方」を考える
※11/30に書いた文章です。
えらく上から目線のようなタイトルになってしまいました。
DAY1を終えたときに感じたのは、「やさしさ」が成立することは意外と難しいということ。
自分が「やさしい」と思ってした行動も、相手によっては「やさしくない」になってしまう。そもそも、「やさしい」かどうかって、相手の反応がないと分からないのではないか。そんなことをぐるぐると考えていたら、いつしか、夜しか眠れ
人にやさしく、自分にもやさしく
※11/30に書いた文章です。
以前、「ふりかえりをちゃんとまとめて書こう」「やさしさラボ参加者以外にも伝わるように書こう」と意気込んでいたらハードルが高く、一生書き上がらなかった前科があります。なので今回は、ひとまず書いて出してみようの精神です。
編集が甘くて読みづらく申し訳ないですが、どうぞお付き合いください。
fermataの中村さんのトークセッションの中で、留学中に挫折したとき、親に
共感と同情の違い(現在もやもや中)
実は中村さんが「共感と同情があるならば、fermataは共感で動いていきたい」とお話されていたとき、私はきっと、きょとんとしていたと思う。共感と同情の違いが、分かるようで分からなくて、その時は具体的にイメージができなかったからだ。
気になったので、少人数で話すときに周りのメンバーに聞いてみた。
すると、「同情は、共感するフリをして、相手と自分の間に線を引かれてしまうイメージ。相手に悪気がない分
知らぬが仏、知らせぬはやさしさ?
中村さんの、「自分を知ることは、時に暴力になりうる」という言葉が印象的だった。
たとえば、「20歳の子が卵巣年齢40歳と知ったら、絶望してしまうかもしれない」とお話されていた。たしかに、知らせることがいつもやさしいことだとは限らない。知らせた瞬間、相手のエネルギーを奪っているかもしれない。知るか知らないかの選択肢を持てるようにすることの大切さを感じた。
「やさしさ」を定義するのは誰?
やさしさラボで考えたことのひとつが、「やさしさの成立の難しさ」だ。アクションがやさしかったかそうでなかったかを定義するのは、やさしさを「施された方(ほう)」なのだ。
つまり、相手の反応がなければ、それがやさしさとして機能したかどうかは、分からない。
「自分のやっていることが、誰かを傷つけているかもしれない、そこにどう立ち向かっているか?」という質問に対して、上田さんが「傷ついたと言ってもらえる場
話しやすさをつくる「モノ」の存在
中村さんの「fermataの店舗では、今まで周りの人に話せなかった尿もれや生理の悩みを口にしてくれる人がいる」というお話を聞いて、私たちを介する「モノ」の存在の大きさを感じた。
私は言葉が好きだから、言葉でぼんやりしている感覚に輪郭を与えようとすることが多い。それゆえ、言語表現に依存してしまうこともある。しかし、「モノ」がそこにあるだけで、グッと話しやすくなることがある。
例えば、fermata