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ワザワイ転じて山芋ウナギ ~とある女子高生の奇妙な回想録~ 其の8

 2年生になり、進路が違うので4人のクラスも離れてしまったが、幸い2人ずつ同じクラスとなったので、クラスの中でも適度に周囲を関わりを持ちつつ、部活の一貫のように4人でつるむことも変わらず。
 今日は久々4人一緒に学校の門を出て、自分と琴乃は自転車を引きながら喋くりつつ目的地に向かうべくトロトロと歩く。
 何を見ても、何を話しても笑いに変わる女子高生というこの時期。一々脚が止まる。
「わお」
「え、何なに?」
 眞理子の声に、3人の顔が集中する。
「いや、こんなとこに黒塗りの車、と思って」
「黒塗り?」
「うん。前にさ~、あんな真っ黒の警察車両が家の近所に来たことあってさ
 ー」
 眞理子は、既に通り過ぎた4人の後方にある車の方に視線を向ける。
「何の車?」
「それがさ~」
 眞理子の話では、以前家の近所に3台の黒塗りの車が停まっていたことがあり、大して気には掛けていなかったが、TVを見ていると次第に音が聞こえにくくなり、外を見るとヘリコプターがバタバタと飛んでいて“うるさいなあ”と思っていたら、弟が“うちの周りがTVに映ってる!“と言いに来た。
 何事かとTVのチャンネルを換えるが、弟の言う映像は見当たらない。結局、ニュースの時間にローカルニュースとして近所の映像が映り、近所の人間が捕まったことを知る。
 一緒にニュースを見ていた眞理子のお母さんが、家2軒後ろの家にどこかの会社社長の息子が住んでおり、金銭絡みで最終的に逮捕されたという内容で、その時に待機していたのが黒塗りの警察車両だったとのこと。
「流石にさっきの車ほどのグレードの車じゃなかったけど、何か真っ黒い車
 が3台もいると、すっごい威圧感なのー。あの車なんて、あれ1台だけで
 すごい威圧感」
「車ってよくわかんないけど、あれは確かになんか威圧感あるね」
 千華が後方の黒塗り車両を後ろ手に指差すと、慌てて眞理子が千華の指を握る。
「あんた、お偉いさんとか怖い人達が乗ってるかも知れないのにぃ」
「そう言えば前にMutterで、“よりによって黒塗りに自転車衝突(泣)”って
 の回ってたな~、そういうことだったのか~」
 思い出したように言うと、琴乃が“こんな所にそんな怖い人達なんて来ないよ~”と言ってフフと笑う。眞理子は“そんなのわかんないよ~!?”と言って、千華との想像合戦を繰り広げる。
 その一方で、お人形さんみたいな容姿に反して結構肝が座っている、隣りを歩く琴乃を見ながら、人間は見た目だけではわからないな、別のことを考えている。
「しかし眞理子、ホント車好きだね~」
「基本的に古いヤツねw」
「”古い”んじゃないっつーの!昔のほうのが名車が多いんだから~」
「う~ん、全くわからん」
「わからなくっても別にいいも~ん」
 歴史、推理小説、古い洋楽、車と相変わらず多趣味で、それでいて成績をキープしている眞理子に、どのようにして時間を工面しているのかを聞こうと思ったことはあるが、結局、元が違うのだと結論付けて自分を納得させる。
「すばる?」
「ん?」
「お帰り」
「あは」
 一緒に自転車を引く琴乃の目が、“またどこか行ってたでしょ”と言っている。そういう無言の会話ができる友人がいることに、ふと一人胸が熱くなるのを隠すべく、顔全体で“えへ、たっだいま~♪”とおどけて見せる。
「今日はっ、いっちごっ、いっちごっ、いっちっご♪」
 千華が、今日の目的『苺フェア』を甚く楽しみにしているようで、よく分からないリズムで繰り返している。
「千華~、楽しみし過ぎw」
「だって、この時期だけだよ、苺フェアやってくれるの♪」
「Uの大好きないっちごっ、いっちごっ、いっちっご♪」
「はいはい、それは何度も聞きました~w」
 女子高生の無邪気な笑い声は、時に周囲にはただの雑音や騒音と化すが、当の本人達にとっては一瞬一瞬がただの楽しい思い出だ。中学時代を十分に楽しめなかった自分としては、実はこういった一瞬一瞬に密かに感動をしていてる、なんてことは口が裂けても言えない。変人扱いされること必至。
「で、眞理子、そこのお勧めって何?」
「ふわっふわとろりんパンケーキ!」
「う~ん、いい響き♪ え、あたし達でも払えるんだよね?」
「2人一個で十分な量だから、だいじょーぶ」
「苺以外もあるよね?」
「え、苺フェアなのに?」
「苺も好きだけど、マンゴー好き」
「うわ~、南国顔の千華のチョイス!」
「いや、南国顔って、言われるケド」
「エーキーゾーチーック!!」
「いや、戦隊モノじゃあるまいし」
 女子だからとか関係なく、小さい頃に自分も観ていた戦隊モノが出て来るとか、なんとも感慨深い、有難い友だち。 
 店の雰囲気は甘すぎず辛すぎず、木目を活かした温かみを感じる内装で、全て木で出来た二人掛けのテーブル席が幾つかあり、真ん中に切りっ放しのような大テーブル席と、奥にはレトロな皮のソファー席があり、照明も柔らかい。年代物と思われるピアノが置いてあり、店の所々に飾られている絵画やオブジェが個性的であるも、トータル的に調和が取れて見える。
 う~ん、この何だか外国感たっぷりな感じ、想像が膨らむ~~~~~♪
 4人で座れるテーブルに案内され、眞理子は嬉しそうに“この外国感たっぷりなレトロ感がいいのよ~”と店の説明を始める。‘60、70年代を憧憬する眞理子には宝物だらけらしい。
 このお店は店内の音楽にレコードを使っているとのことで、眞理子はレコードを回す機械?何て呼ぶのか知らないが、それを見に行ってしまった。
 まあ、ここにCUのグッズのレアグッズが並んでたら、自分も無意識にそっちに行ってしまうだろうけどw
 そうこうするうち、注文したドリンクがそれぞれ先に目の前に並び、“かんぱ~い”。これがきっと、コーヒーとカフェオレなんかだとしないんだろうけど、たまたま全部グラスにストロー、何となくみんな自然とグラスを持ってカチン☆何だかシアワセ。
「昨日さ~、うちの兄貴が超ウザくてさ~」
「あ、朝そんなこと言ってたよね。何で?」
 先にそれだけ聞いていたらしい琴乃が質問をする。“嫌がらせ?”と冗談めかして聞く千華に、“ちゃう、ちゃう”と、目を細めて大袈裟に顔の前で手を左右に振り否定する。
 小さい頃から関西出身の父親や大阪に在住の祖母などの影響を受けている眞理子は、時折りTVで観るような関西の芸人のように見える時がある。
 “それがさあ~”と言って恵蓮が前のめりになると、みんな前のめりになる。別に秘密の話ではないが、ワクワク感や楽しみな気持ちから引っ張られるのか、一斉に同じ姿勢になるのも、いとたのし。
 そして、眞理子の話はこう。
 昨晩、バイトから帰宅した大学生の兄が眞理子の部屋のドアをノックし、“は~い”と返事しただけで、まだ入室許可もしない間にドアを開けて入って来た。
 そのデリカシーの無さに“ちょっと!”と声を荒げ椅子から立ち上がるが、神妙な面持ちで突っ立っている兄を見て一瞬慄く。
 兄が突然、“なあ、自分の憧れの人がホストやってたらどう思う?”と意味不明な質問を投げ掛けて来た。意図が分からず“はあ?”と眞理子が返すと、再び同じ質問をして来たので、“知らん”と言い、サッサと兄を部屋から追い出そうと試みた。
 が、眞理子のベッドの隅に腰を下ろしてしまい、携帯を触りながら溜息を吐いている。
「何なん、ちょっとウザいんだけど!」
「それがさ~・・・」
「聞いちゃいねぇ(怒)」
 眞理子曰く、兄は考え事をし始めると周りが見えなくなることがあるらしく、こうなると問題が片付かなければ頭が切り替わらない。その度、“こんなヤツが弁護士なんか務まるか!”と、兄の目指す方向が間違いだと強く思うそう。
 結局話は、友人から送られて来た画像に、高校生の時の憧れの先輩がキャバ嬢姿で、店の前で客と楽しげに喋っている姿があり愕然としたという内容だった。
 兄曰く、才色兼備で運動神経も良く憧れていた先輩で、有名国立大学に通っているはずだが、見つけた友人が泣きマークをつけて送信して来た画像を見て頭がパニックになったとのこと。
 それよりも何よりも、千華が”そんな話、妹にする!?”とオドロキを見せたことにオドロキ。きょうだいのいない自分には、その辺はよく分からない。
 眞理子は”知らん”と一蹴したが、兄がクドクドと何かを宣ってくるので、“何か理由でもあるんじゃないの!?今時、手っ取り早く稼げるってんで、キャバで働く大学生もフツーにいるって言うじゃん”と返したが聞いちゃいない。
 なので、兄の話をほぼ聞かずに放置。そのうち、兄の携帯が鳴って眞理子の部屋を出て行った。
「ね、迷惑でしょぉ」
「慕われてるね~」
「え、どこがよ!?」
「いやいやいやいや、うちの弟なんて、きっと同じことがあっても、あたし
 じゃなくって、女友だちにでも聞くと思うもん」
「それがフツーじゃないの!?あ、そーか、女友だちがいないからか」
「いや、それであっても、多分うちの弟はあたしじゃなくて、ネットで検索
 しまくるんじゃないかな~」
「やっぱうちの兄貴、ヘンだわ」
 と、このタイミングでパンケーキが2皿運ばれて来て、一瞬にして目が奪われる。
「おお~♪」
 皆でシェアするべく、違う種類の苺尽くしのパンケーキで2皿注文。ふんわりぷるぷるなパンケーキのタワーに、艶々キラキラと光る苺、空気をいっぱい含んだホイップ、苺から作ったことが信頼できる苺ソースと、彩を添えるミントの葉。こうなるべくして生まれた苺はシアワセだろうな、などと思ってみたり。
 その一方でいつも思う。ここにいる子たちは、画像を撮ることにそこまで執着しない。画像は撮るが、どこぞにアップするのでもなく”食べた記録”だったり、知り合いに直接”これ美味しかったよ~”報告用。
 ネットの中での承認欲求を必要としないことに、初めてそれを知った時は驚愕。でも、この子たちはどこかりーちゃんに似ているような気がしていて、きっとりーちゃんのお家のような家庭で育って、外に承認を求めなくても良い何かがあるのだろうと。
 それが何かはまだよく分からないが、漠然と”羨ましい”と思う。その一方で、自分がこの中にいていいのだろうか?という気持ちもあり、フッと一瞬不安になることもある。言わないけど。
「お兄ちゃん、カワイイよね」
 暫し芳醇な香りと味を堪能し、美味しさに翻弄されて暫く経ってから、千華が先程の眞理子の兄の話の続きを始める。いつも、話が途中になっても放置しない千華はスゴイなと思う。
 眞理子は”はあ!?”と千華に目を剥くが、千華は”うん”と頷く。
「うん、カワイイ」
「どこがよー!?」
「だって、そんな落ち込む姿を妹に見せちゃうんだよ?カワイイよね~」
「いやいやいやいや、ウザいだけだって。恥ずかしくないのかっちゅーハナ
 シ。部屋狭いのにかさ高いから邪魔だし、人が勉強してる時に邪魔すんな
 だよ~」
 眞理子は残りのパンケーキに今の思いを込め込めで、フォークを刺す勢いのまま口に運ぶ。
「あはは、そうだったね。確かに勉強中はやめて欲しいね」
「でひょ~!?ありぎのあおあれ・・・」
 眞理子が左手を出し”ちょっと待って”を示し、パンケーキをしっかり味わってから呑み込み、氷で少し味の薄くなったアイスロイヤルミルクティー飲んで一息吐く。
「兄貴の憧れなんか知らないっつーの!あんなガタイしてキモイって~」
 眞理子が“ふん”と鼻を鳴らす。
「でも実際、あたしがキャバ嬢として働くとしたらどいう時だろな~?」
 千華が考え始めると、他の三人も“う~ん”と同時に考え始める。
 何時の間にか店は満席で、特に女性が多く、あちこちでザワザワと女子トークが炸裂している。きっと、キャピキャピした話でお花やチョウチョが飛んでるんだろうけど、ここはまさかの人生の”もし”について話をしている。
 いや、こういう一つのことを真剣に考えたり話ができる友だちを持てたこと、改めてとても嬉しく思う。
「やっぱり、家の収入が何かの理由で無くなって、生活費とか、それでも大
 学行きたいって状態?・・・いやでも、すぐにキャバクラって選択はしな
 いかな~」
「うちも親が仕事なくてっていう状態だろうけど、やっぱすぐにキャバクラ
 選択じゃないかもな~」
「まあうちも、親も兄貴もっていう状態になったら・・・あたし、イヤなヤ
 ツ来たら顔に出そうだから、何かバイト掛け持ち、かな~・・・でもまず
 取り敢えず兄貴に働いてもらわないと、弟もいるし」
「あ~、友だちが先に入ってて、働きやすいよ~とか、何かお勧めポイント
 でも先にプレゼンされたら、という選択の仕方もあるよね~」
「そういうのはあるかもね~。まあ、”手っ取り早く”って一番の選択肢の人
 もいるだろうし、人それぞれだよね」
 あーでもない、こーでもない、と話をしながら出た結論は、”なぜ”というのは周りがどう考えたとて、結局は本人に聞かないと分からないということ。
 本当に全くそうだと思う。保志さんの話を聞いた時もそうだなと思ったし、自分のことを陰でコソコソ言ってた子たちも、こっちには確認もせず自分勝手な憶測で話をして(それは絶対に良い内容ではない)楽しんでいた。
 ただ、恐らく話を聞いても、自分たちのいいように解釈したり、”絶対ウソ”などと言って、結局は事実を捻じ曲げたりしたんだろうけど。
 相手をどう見ているかで、聞いたことをそのまま捉えようとするか否かが変わってしまうのであれば、聞く方のフィルターが正常運転でないと真実は分からない、ということか。
「でも、内容的に友だちでも聞きにくいかもしれないから、憧れの人に直に
 聞くとかってできないよね~。ていうか、お兄さんとその先輩ってまず知
 り合いなの?」
「喋ったことない、憧れの先輩だって~」
「解決策ないじゃんwwwwww」
 爆笑~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!という皆同じ反応。眞理子のお兄さん、ありがとう、楽しい笑いを。
「お兄さんに感謝だね~」
「え、何故に?」
「いや、爆笑ネタ提供してくれて」
「カワイくて爆笑ネタ提供してくれるって、なかなか愛すべきキャラだよ
 ね」
「カワイくない~、愛せない~(泣)」
 眞理子はそう言うけど、きょうだいのいない自分にしたら未知の世界だし、自分に話をしに来るきょうだいなぞ、結局仲の良い証拠なんだろうなと思う。
 
 “夏は日向を行け 冬は日陰を行け” 
先日、現代文の先生が言った言葉。意味を聞いた時、保志さんの姿が頭に浮かんだ。
 この言葉は”敢えて自らを辛い状況に置く事で心身共に精進を”だが、保志さんは仕方なく厳しい道を歩かされ、それでも先を見据え自分の道を築いて行っているその姿に、自分は何をやっているんだろう!?と再度考えた。
 が、考えようとすると、自分もそんなに楽にここまで来てないよね~、とそこに行き着いてしまう。いつもカーストの上の子たちが、何を指してか分からないがこっちを見てクスクス笑っているのが見えたり、親が離婚する前はゴタゴタしてたし、両親共に何だかクセあるから、普段から家の中で本音をぶつけたり、心からホッとした感覚がなかったり。
 高校は、”絶対この高校”という強い思いがあって滅茶苦茶頑張った。勉強が嫌いというワケではないが、教科によって得手不得手はあるし、滅茶苦茶頑張らなかったら、主要教科はもっと差がついていたと思う。
 う~ん・・・やっと今少し高校でまだ落ち着いた生活している感覚だから、今自ら敢えて厳しい所に身を置く、というのは・・・ちょっと嫌かなあ・・・
 文系コースを選んだものの、周りに比べて余りにも進路がぼやけ過ぎている。机の引き出しを開け、少し前に戻って来た模試の結果を取り出し、再度判定を見て考える。
 取り敢えず家から通える国立大学の英語関係の学部を選択し、自分が現在どの辺りかを見ている最中ではあるが、実際英語を使っての就職なんて、英検1級とかTOEIC700点以上は必要だろう。
 かと言って、何か明確な外資系だとか貿易系だとかの企業をネットで見ても、どんな仕事をするのか正直よく分からない。自分の性格を考えると、まあ営業は多分難しい。押しが弱すぎて、鬱陶しがられたら一瞬で引いてしまいそうだ。
 企画?総務って何?マーケティング?コンサルタント?ネットでいろいろ見ても、全く仕事のイメージがつかない。
 やはり目指すは通訳か、いや、企業か公務員かで英語は趣味程度にしておく的な・・・あ~~~~~~~・・・大人になりたくない・・・
 裕子さんのお宅で、好きな某メーカーのクッキーを個別の袋に入ったまま適度に割り、袋を開けて一欠けを口に運ぶ。
「ん~、やっぱり定番って飽きないよね~」
 裕子さんが言うには、昔からあるお菓子でも何でも、微妙に味が変わっていっているものもあり、長く食べていなかった物を久々に食べると味が変わっていたということがあるそう。
 逆に、久々に食べて記憶とその味が変わっていないとしたら、それはその味を守っているのか、売れているからもういいやで継続しているのか。
 などと一瞬考えたりするが、結局は”安定に美味しさ♡”という多幸感で考えていることが吹っ飛ぶ。
「だからロングセラーなんだけどねw あ、そういえば、この間の模試どう
 だった?」
「え、それ聞く~!?」
「休憩終わったら長文やるのに、いつ聞くのよ~、今でしょ~」
「そうだけどぉ」
 口を尖らせつつも、携帯を鞄から取り出し、撮っておいた画像を裕子さんに見せる。裕子さんは画面を指で拡大したり移動させながら、“ん~・・・お~、英語はまあまあいいじゃな~い、よかった、よかった”と喜んでくれているところを見て、密かに文を撫で下ろす。
 一瞬、“あ、そこw”とも思ったが、ここに英語を学習しに来ているのだから、裕子さんにとっては当然か。
「でも、この選択した希望大学、迷走してるね~w」
「ん~、家から通える国公立で、文系で・・・って言っても、学部も決まっ
 てないから、取り敢えずそういうチョイスにしてみたって感じ」
「あ~ま~、決まってないとそうなるかな~」
「杏ちゃんは何でカナダの大学に行ったの?」
「ん~、まあ、あの子はあたしの影響でちっちゃい頃から英語に親しんでた
 し、あたしも大学はアメリカだったし、英語がそこそこ出来るから、英語
 圏の大学に行きたかったんじゃない?」
「じゃない?ってw」
「まあ、生活費はカナダのほうが安いし、運良く返済不要の奨学金枠ゲット
 したしね。それならこっちも止める理由無いし」
「でも小さい頃からの思いを持ち続けて、それを叶えちゃうってスゴっ」
 それで言うと、絶対科捜研と言ってる眞理子も同じか~・・・。スゴイな、マジで。
「で、卒業したらあっちで仕事するの?」
「ううん、戻って来るって」
「え~、何で?」
 裕子さん曰く、杏ちゃんがが目標とするのは、日本の本の世界を世界中に伝える翻訳者とのことで、そこに行きついた経緯も教えてくれた。できればまず出版社に入りたいそう。
 やはりやりたいことがあってこそ、思いが続くものなんだなと痛感。
「それに、やっぱり杏は日本人なのよ」
「日本人?」
「気質がね」
「あ~、気質」
「ほら、CU好きになってから感じることなあい?近い国でも感覚の違いと
 か」
「あ~、分かる、分かる、それは、うん。同じアジア人でもぜーんぜん違
 う」
「そういうこと。高校の数週間の留学じゃあ多少変なことがあっても、“楽し
 かった~”ぐらいで終わってたみたいだけど、長期滞在だと丸々生活するわ
 けだからね。“こっちに来て、性格キツくなったかも”とか言ってるし」
「カナダってのんびりしてるような感じするのに」
「や、確かにそうなんだけど、そういうことじゃないのよ」
 裕子さん曰く、基本的に日本人の苦手な“Yes”“No”をハッキリしないといけない、確実性がなくても“Yes”と言う、日本なら言い合いを避ける場面でも当たり前のように実行される、日本人ならオブラートに包んで言うことも直球を投げて来る(悪気が無いことは頭では理解しているものの)、自分が悪くても謝らない、時間や期限には無頓着、余裕を持って準備をするのではなく取り敢えず間に合えばいい、などといったことが、一人であれば問題は無いが、グループでの課題の時にイライラするのだと言う。
 裕子さんは、“あっちはそんなもの”と思っているが、杏ちゃんは日本育ちなので、感覚の違いに最初随分イライラしたのだろうと言い、“大学入った最初の頃だったかな~”と一つのエピソードを話始める。
 杏ちゃんが友人との待ち合わせ場所に行こうとバスを待っていたがなかなか来ず、20分遅れでバスがやって来て、ドアが開くと運転手がにこやかに“Hi!”と言うだけで、謝ることもなくでイラっとし、乗った後も遅延理由のアナウンス無しも誰も意に介していない様子。しかも乗る時に見た光景が、コーヒーか何かこぼれたのか、後方から床の溝に沿って前方にまで流れているのを放置しており、“これが日本じゃないってことか・・・”と思いつつバスに乗り込んだ、という話。
「え、マジで?遅れても”Hi!”だけ?」
「うん。日本が時間に正確だから、それに慣れてるとイラっとするかも(笑)」
「しかも、床もそのまんま?」
「避ければいいや、ぐらいよね」
「え~・・・・・」
 そりゃ、日本はきっちりしてるとかキレイとか言われるよな~。でも、そんな適当だったら、ちゃんと回るものも回らないのでは?と思うけど、別に国が壊れたとかヤバいとかも聞かないので、結構適当でも回るものなのか!?と頭が混乱する。
「さ、そろそろ・・・」
「あ、まって。もう一つだけ」
「え~、じゃあ一つだけよ~」
「うん。あのね、実際日本で英語を活かせる仕事って何かなあ?ちょっと前
 にね、TVのドラマで、主人公がどっかの企業の面接で“英語を活かして”っ
 てアピったら、“英語ねえw”って軽くあしらわれて頭真っ白、って場面あ
 って。確かに“英語を活かして”ってネイティブでもないし、どのぐらいの
 力があったら活かせる仕事があるの?と思って」
「ん~・・・・・・・・」
 裕子さんが腕組みをし、唸っている。
「それ、宿題にしてもらっていい?情報アップデートしないと、もし間違っ
 てたら申し訳ないし」
「うん、分かった~、ありがとう」
「じゃ、始めよう!」
「はあ~・・・」
「じゃ、今日は統計の文ね」
「ゲ、いっちゃん苦手なヤツじゃ~ん」
「はっはっはっはっはー」
 裕子さんは楽しそうに、作ったプリントを前に大袈裟に広げて置く。
 しかし、裕子さんの家で育った杏ちゃんが苦戦してる時点で、外国人並みの感覚身に付けるとか難しいのか。いや、慣れれば”こんなもの”と思えるようになるのか。となると、外資系なんかはそんな感覚で仕事してる?自己主張?・・・難しい・・・
 最終的には大学在学中に考えることだとしても、まず高校生に大学受験時に学部決めさせるとか、ちょっと酷じゃない?途中でやること変わるかもしれないじゃん?学部変わるとか簡単じゃなさそうだし・・・
 既に夢がある人が羨ましい。CUのいる国に行くというのはライブとか旅行ぐらいでいいと思うから、別にそっちの大学になんて感覚もないし・・・いや、やりたい仕事があると進路が決め易いってだけで、結局、就活して採
用されないと働けない、ということは皆一緒。
 留学するお金無いけど、裕子さんはネイティブだし、ここで学習を続ければ会話は何とかなるかもだけど・・・国公立でフル英語授業なんて聞いたことないしな~。
「すばるちゃ~ん、戻って来てくださ~い。まだ何か考えてるでしょ~」
「あ、気付いた?」
「はい、今はすばるちゃんの嫌いな統計関係の長文から現実逃避をせず、ま
 ずは今目の前のことに集中してくださ~い。受験はその先にありま~す」
「ひん」
 
 お母さんからLINKが来て、今日は帰宅が少し遅くなり、メインは冷蔵庫に入れているものの、副菜は帰宅後作るつもりで用意が出来ておらず、自分で用意するようにとの内容だった。
 てきぱきと料理ができるというわけではないが、料理は嫌いじゃないし、小さい頃から少しずつ手伝っても来たので、簡単なことは問題ナシ。お母さんはこのところ、前より帰りが遅いことが増えていて、何だか仕事が忙しそうだ。
 冷蔵庫を覗き、それらしき鍋を見つけてそっと蓋を開け、うんうんとうなづいてコンロの方に持って行き、次に野菜室からネットに入ったオクラを二袋取り出す。鍋に水を入れて火にかけ、その間にオクラをネットから取り出して額を取り、まな板の上でTVから流れる音に曲に合わせてオクラを板ずりする。
 お湯が沸騰した鍋にオクラを入れ、さっとだけ湯がいて笊にあげる。熱が下がるまで放置。その間に取り込んでおいた洗濯物を、TVを見ながら畳み始める。
 TVの中では、大勢の芸能人が知識量を競いながら一喜一憂している。時折自分も答えられる問題があり、誰よりも先に答えられた時は思わず”よっしゃー!”と言ってしまうので、出ている芸能人の方々はより喜びは強いだろう。
 とは言え、問題が広範囲過ぎてそれを答えていく芸能人に関心するばかり。自分もそのぐらいになりたいと思いつつ、じゃあそのために何かするのかと言えばそうでない自分に苦笑。
 洗濯物を畳み終え、“そろそろ”とシンクに戻り、オクラを適度な大きさに切りって二つの器に分け、鰹節をオクラが隠れるぐらいに乗せ、冷蔵庫からポン酢を取り出し適量をかける。
 先に出していた鍋を火にかけようか迷った挙句、レンジで温めることにした。
 鍋から鯛、焼き豆腐、ネギの煮付けをお皿に移し、ラップをしてレンジに入れる。
 この作業をしながら、だったら最初からそうしておけば良かったのに、ともう一人の自分からのツッコミが頭をかすめた。が、”いやいや、日本人は時間に余裕無さ過ぎなんだ、余裕も必要”と裕子さんの話を思い出して自分に言い聞かせる。
 正しいところをツッコむとしたら、レンジと鍋で温めるの、どっちの方が良いか、の部分だろう。そこは、自分が納得すればどちらでもいいのだから、何の問題もナシ。
「では、いっただっきまーすっ♪」
 オクラと鰹節を混ぜて口に運び味わっていると、オクラの生え方が頭に映像として浮かび、あの状態でオクラを最初に食べようと思った人って神、などと口にはしないが思たりする。それを言うと、何でもそうなのかもしれないが。
 メインが煮魚なので、めんつゆではなく、ここは敢えてポン酢でさっぱりが良い塩梅。
 普段お母さんがいる前では携帯を見ながら食事はしないが、いない時は側に携帯を置き、TVと並行していつも見ているサイトに飛び、気になったトピックに目を通す。並行してと言いながら、その瞬間はどちらかに意識は集中しているワケだが、そこはさて置き。
 いつも見ているサイトは日本語に翻訳された中国や韓国の記事やブログで、CUを好きになってから興味を持つようになり、まだ訪れたことのないこの2国の情勢だけは知識として蓄積されていく。
 英語ができるようになりたい、と言いながら読むは中韓記事・・・偶に、たま~に、”何やってんだ、自分”とは思うが、興味の欲求に従っているだけなので、それはそれ、これはこれ。
 鯛の煮付けもいいが、煮付けの汁が染み染みの焼き豆腐とネギの何と美味いこと。鯛の煮付け以外にも、サバの煮付けの梅干しだったり、煮物の生麩だったり、豚の角煮の薄切り生姜だったり、主でない物が途轍もなく美味しく感じるのは、やはり主があってこそ。良きかな。
 半分ほど食べ進めた頃、TVもCMになり、読んでいた記事も一旦終えた瞬間が重なり、目の前に食事のみの状態になり、ふとお母さんの分として置いたオクラの器を見つめる。
 残業かあ・・・そいやこの間も、時間外労働が過ぎて自殺ってニュースあったなあ。まあ、そこまでではなかったとしても、休息って必要よね。というより、自分がそこまでがむしゃらに働けるのか?と聞かれると、ちょっと働ける気がしない。
 TVのドラマではそんな過酷な状況を組み込むことが少ないし、スマートにオフィスで働くとか、お仕事は楽しいですよ的な様子が描かれていることが多いし、過酷といっても詳細が描かれるワケではなく、ニュースからの情報と嚙み合わないので、結局想像に限界がある。
 取り敢えず、お母さんが残業で夜遅くが続いて、体調を崩すいったとこのないことを願う。
 食器を片付け、自分の洗濯物を持って部屋に戻り、すぐさま洗濯物を片付け始める。
⦅なんや、最近すぐなおすからつまらんの~⦆
「直す?何を?」
⦅は?洗濯モンやんけ⦆
「は?別にどこも破れたりしてないし」
⦅はぁ~、何やねん、前も言うたやんけ。オマエの頭は穴空いとんのか⦆
「・・・そぉ~~~~~でしたっけぇ!?オッサンの言うことなんて別にど
 うでもいいモンだから、いちいち覚えてまへ~ん」
⦅変な関西弁使うなや、ボケ⦆
「またそれ~?ウザ~⦆
⦅覚えとけよ⦆
「忘れました~」
⦅まあ見とけ⦆
 こういう言い方する時って絶対何かするんだよな。何か言ったところでするんだから、その時はその時。
 鼻をフンと鳴らし、オッサンを無視して洗濯物を片付けていく。
⦅今日、オカンは~?⦆
「残業~」
⦅ふ~ん⦆
「何よ」
⦅べっつにぃ⦆
 洗濯物を全部片付け終え振り返ると、ベッドの上をオッサンが走り回っている。“あ~あ、オッサンは楽でいいよな~”と思いながら、溜息をついて勉強机の椅子に座る。
⦅何やと?わしかて楽ちゃうぞ。オマエのわけ分からん話耳にガンガン入っ
 て来るしやな、べっつに聞きとーないわな話は聞こえるわ、きっしょく悪
 い妄想まで聞こえて来てやな⦆
「ふーんだ、そこにいるあんたが悪いw」
⦅ふん、オトコマエのこと好きなクセに⦆
「違うし、そもそも今ぜんっぜん関係ないじゃん!」
⦅へっへ~んだ、気になっとるクセにぃ。自分で分かってへんだけや。オマ
 エ、わしが何年生きてる思てんねんw⦆
「絶対ない、絶対ない、絶対ない!」
⦅ま、言うとけやw⦆
 あ~ムカつく!アイツの話はいらないんだよ、いらないんだよ、関係ないのに出してくんなよ!
 オッサン捕まえてぐっちゃぐちゃのぼっこぼこにしてやりたいが、絶対にできないので、想像の中だけで完結するこの残念さ。
⦅あ、そや、今日オカンは?⦆
「さっき言ったよねぇ?頭に穴空いてんの?笑」
⦅頭に穴空いとったら、そらもう死んどんちゃう?w⦆
 ・・・自分が言ったクセに、何なのよ。
「さっきも聞いてきたけど、何よ!?」
⦅べっつにぃ⦆
「ちょっとぉ、何かあるなら言いなさいよ」
⦅何で命令口調やねん。人に物頼む時はちゃんと”お願い”せぇ言うて教わら
 んかったんか~⦆
 あ~もういいもういい、めんどい、めんどい。相手してらんない。
 オッサンを無視し、携帯を充電に繋ぎ、着替えを持って部屋を出る。
⦅おい~、無視すんなや~⦆
 ん~、部屋に戻ったら何か散らばってるかもな~。ペン立て倒されるぐらいなら大したことはないけど、机の上の本全部ぶちまけられてたら余計な時間取られるな~・・・携帯勝手にいじられる・・・は自分が寝てる時しかなかったか。う~ん・・・まあいいや。取り合えず着替えよ。
 寝ぼけている時は忘れてしまうが、まともに起きている時はやはりオッサンがいると思うと着替えにくい。実際は、自分が着替えている時にオッサンの声が聞こえたことはないし、姿が見えたこともないし、態々脱衣所に行くのも面倒ではあるが、ここは気持ちの問題。自分が”これでOK”と思うか否かだ。
 着替えて部屋に戻ると、今の所何も起こっていない。少し気合を入れて扉を開けたので、やや脱力感。
⦅なんや、残念やな~、思とんかいw⦆
「いや、思ってないし」
⦅心配せんでもやっとくがな⦆
 それは、何かを手伝う時に言うような言い回しだっつーの。使うところ、間違ってるから。
 制服をハンガーにかけてから勉強机の椅子に座り、鞄から裕子さんのところでやったプリントとファイルを引っ張り出す。
 長文の中でも、何故か自分としては一番苦手な統計の問題。ただ、統計は統計でも、自分の中で想像し易い物や興味が少しでもある内容であれば、まだ知らない単語や熟語があっても何となく”読もう”という気が起きるが、何故かそうでない物に関しては、頭が”読もう”というモードに切り替わらない。
 現代文のように”解き方”を駆使できる物でもないし、受験のことを考えると、得意なことは更に得意な状態にし、苦手を”取り敢えずデキル”まで引っ張り上げておかないと、得手不得手が理由でセンターの点が取れないと意味がない。どうやったら”解いてやろう”の頭に切り替わるのか。それが課題。難しい。
 受験までに見つかるかな~(泣)
⦅こないだや~、オカン、オマエの洗濯モン置きに来てや~、置いて出て行
 くんか思たらベッドにちょい座ってや、何か考え事しとったんよな~⦆
 明日のミニテストの勉強の集中が途切れたので伸びをし、、そろそろお風呂入ろうかなと思っていると、突然聞こえて来たオッサンの声。
「え、ここで?何を?」
⦅”何を”って何やねん⦆
「いやいやいやいや、何考え事してたのか聞いてるに決まってるでしょ」
⦅そりゃ~おま、オカンの“ぷらいばしぃ”やからなあ⦆
「はあああああああ!?そこまで言っておいて、何なの!?」
⦅何言うてんねん、いっつも“ぷらいばしぃ、ぷらいばしぃ”言うてんのはオ
 マエやんけ⦆
「だったら最初っから言うなっつーの、気になるじゃん!」
⦅しらんがなwwwww⦆
 あ~~~~~~~~、疲れた頭に余計に疲労が蓄積される。
⦅大体やな、何でも知りたがんなや~⦆
「はあ?」
⦅知りたがり子は嫌われんでぇ⦆
「はああああああ!?何なん!?」
⦅まあまあ、偶にはオカン手伝ったりや~⦆
「やってるし」
⦅いぇ~~~~~?ホンマかぁ?まあ、あんじょうやりや~w⦆
 意味わかんないし。日本語喋れ。
⦅しかし、金無いと何も出来ん世の中っちゅーんはつまらんのぉ⦆
「はあ?」
 もう、何なん。
 オッサンが机の上を芋虫のように這っているのを見つけるが、呆れてしまい、その様子をぼーっと眺めてしまっている。俯瞰して見ると、かなり滑稽な絵面に違いない。というか、現実離れし過ぎている。
 はあ・・・(溜息)何なんだよ・・・あ~あ、お風呂入ろ。
 ワケの分からない行動をしているオッサンを無視し、お風呂の準備をして部屋から出て脱衣所に行く途中、玄関にお母さんのスリッパが鎮座しているのが視界に入る。
 ん~、まだ帰ってないのか・・・ま、明日の分のお米、研いでおこっかな~。
 一旦着替えを脱衣所に置き、ヘンなステップを踏みながらキッチンに向かう。
 
 この日は、お母さんの「ただいま」という声がなく、気付いたら自分は眠っていたので、恐らく寝ている間に帰宅したよう。
 まあ、早く寝ようと思った時は早く寝る自分としては(Mutter見すぎて寝る時間短縮しないように)、いつ帰宅したのかは全く分からない。逆なら激怒されるだろうけど、と思うと、大人って勝手だな~と思ったり。
 朝起きてキッチンに行くと、お母さんの姿が見え、何だか醸し出す雰囲気が疲れている。こういう時は、些細なことでもキレることがあるので、慎重に行動すべし。
 そろそろとキッチンに入ると、お米を研いで炊飯器セットをしていたことは気付いたらしく、”あ、ありがとう、お米”と言われた。が、何だかいつもより疲れている。あまりそんな様子を見せられると、何だか不安になるので困る?いや心配?何とも言えない感情。
 まだ倒れるような年齢ではないのだから・・・とは思っても、裕子さんがよく、30過ぎたら体重が減りにくくなる、40過ぎると意識して筋肉作らないとすぐ落ちる、50過ぎたら何等かの病気とか出ててもおかしくない、と。
 筋肉がないと疲れやすいと聞いたことがある。となると、意識しないと筋肉がすぐ落ちる→疲れやすくなる、ということで、もうちょっと体力作りをしないと疲れやすくなっているかも?
 何となくお母さんの疲れている姿を見ると、あの離婚問題の時期を彷彿とさせるので、心が穏やかでなくなりちょっとしんどいが、学校に行く準備をしないといけないので避けようがない。
 早く疲れが取れますようにと願いつつ、冷蔵庫からどくだみ茶を取り出し、マグカップに入れてレンジで温める。
 TVからはいつもと同じ朝の番組で、いつもと同じアナウンサーが昨日起こった事件を説明し、コメンテーターが見解を述べている。
 いつも同じチャンネルに合わせてしまうというのは、ある意味、”いつもと同じ”に安心感や安堵を求めているからなのかも。
 お母さんの疲れた様子を気にしつつ朝ご飯を食べ終え、そそくさとお弁当を持って洗面所まで行き、マウスウォッシュで口を濯ぐ。
 鏡・・・毎朝見る洗面所の鏡。いつもと変わらない顔、というか、ここに関しては、朝起きたらくっきり二重になっていて、鼻筋が通って小鼻の小さいカワイイ鼻になっていて、普通にしていても口角が上がっているように見えるカワイイ口、ニキビのないきめ細やかな白い肌になってくれていないだろうか、という願望。
 鏡を見ては一瞬溜息が出る。安心感、安堵からのホッととは真逆の溜息。何と言う矛盾。
 学校の準備も大詰めで、携帯を充電から外した瞬間画面に浮かび上がるポップアップ。
 LINKに一瞬浮かんだのは、未来からのコンタクト。
 姫芽奈達とのことがあってから、直接に未来とは遣り取りはしていなかったが、未来も特にこちらをブロックすることなく、Mutterでもフォロは続け、相変わらずなリサーチ力を発揮する未来の手腕のおこぼれを頂き、間接的な関係は保っていた。
“大変なことになったみたいね”と、たった一行。
 何?何!?
 急いでLINKを開くが、本当にその一行のみ。
 どゆことー!?
 Mutterをマッハで遡るが、それに当たりそうな呟きは見つからず。Mutterを見ながら、もしCUに何か事件が起きたのならばMutterは画面いっぱいその話題が並ぶはずなので、そうではなさそうだ、と一瞬胸を撫で下ろす。
 何だ、ナンダ、何のことだ!?
 迫る時間と格闘しつつ、これは自分で探すのは無理と思い、未来に何の話なのかを尋ねるLINKを送る。
 ダメ!もう出発!
 結局、学校に遅刻しないギリギリで家を飛び出し、自転車を漕ぎながら、並んでいたMutterを思い出しながら未来のメッセージの意味を考える。
 気になるぅぅぅぅぅぅ!!未来も酷いな~。未来みたいなサーチ能力はこっちはないのよぉぉぉぉぉ。
 信号に引き止められ、もしかしたらこの瞬間にも未来からLINKの返事が来てるかも!?と一瞬頭をかすめたが、その行為をすると確実に信号が変わった時に出遅れるので、”まだ来てない、まだ来てない”と自分に言い聞かせて信号が変わるのを待つ。
 こういう時に限って、信号の色が変わるのが矢鱈と遅く感じる。急いでいる時に限って待つほうの信号が短く感じる。ギリギリ間に合って、渡りたい時に限って信号が変わるのが早く感じる。
 ”感覚”というのは不思議なものだ。人がいたらその人数分の感覚があり、同じ感覚同士なら楽だが、違う感覚同士なら面倒なことや厄介なこともある。それを”面白い”と思える余裕や感性があればいいが、多分、自分は持ってない。
 そして、今はとにかく早く信号が変わって欲しい、ただのイラチのJKだ。自分でも、人から見ても、ちょっとウザいJKでしかないだろう。ただ、それを今ここで同じく待つ人々に知られるように振る舞っていないので、バレていないだけ幸い。
 信号が青に変わるや否や、スタートダッシュを成功させようとする短距離選手にでもなった勢いで、再び学校に向かって走り出す。
 その姿からは、裕子さんからいつも言われる“女子高生という特権のキラキラ”は消し去られ、髪を振り乱し、獲物を狙って猛スピードで走る山姥然り。  
 とりあえず、返信が来ているか否かは、教室に入ってから確認。来ていないのかもしれないが、来ているかもしれない。だからと言って、もし来ていて、返信したい気持ちに駆られた時に自転車置き場に釘付けになってしまうと、せっかくミニテストのために早く起きたのに、復習時間が短縮されてしまう。
 と、そこで矛盾に気が付いた。結局、学校に着いてから見ても、もし返信があって、それが更に質問攻めにしたくなるような内容だったら、そこで手を止めて復習をする気になるだろうか。
 ここは学校に着いたら、すっかりまるっと電源を落としてしまう方が賢明か。
 自転車置き場に着く前に後ろからりーちゃんに声を掛けられ、一瞬、りーちゃんは何か知っているのだろうかと思うも、表情はいつもと変わらず平和な笑顔。
 CUのことで何か大事があり、りーちゃんが先に気づいていたら、恐らく昨晩のうちにでもLINKで何か話を振って来た筈だが、特に何も無かった。
 という事は、直接CUのこととは考え難く、何か証拠のない噂のような物が広まっていても、そういう類のことはりーちゃんから話を振られることは無いので、取り敢えず未来から話を直接聞く方がいいだろうという結論に至る。
 自転車を留め、カゴから鞄を引っ張り出し、りーちゃんとたわいもない話をしながら下駄箱に向かい、クラスメイトを見つけて各々挨拶を交わしながら上履きに履き替える。
 教室に向かう途中、梨穂子が何気に話始めた内容に衝撃を受ける。
「SNSってやっぱり怖いね」
「そうだね~。でも、そのお陰で高校生のあたしたちにでもCUの情報が回っ
 て来るんだけどね~」
「そうだね~。でも、やったことは良くないけど、あんな風に拡散されるの
 ってコワいよね」
「やったこと?」
「ん?あれ?」
「ん?ん?何?」
「あれ?」
 りーちゃんは、こっちが知っているものと思い込んで話し始めたよう。
 りーちゃんの性格だから、恐らく飽くまでもSNSの怖さについてを話したのだと思うが、基本的に2人の一番の共通の話はCU。でもCUに直接関係ある話ではないのは、Mutterを見れば分かる。とすると何だ!?
「え、なに、ナニ!?」
「あれ?すーちゃん情報得るの早いから、知ってると思ってたよ」
「昨日早く寝ちゃって・・・で、何?」
「話すとちょっと長くなるかもだから、また後から伝えた方がいいかな?」
 え?今このまま放置プレイされると、今日一日気になり過ぎて絶対気が散る!
「や、そうだけど、気になるからとりあえず”記事タイトル”だけ教えて」
「そうだね。え~っと・・・”JK、ガールズバーに年齢査証でライブの資金稼
 ぎ”かな?ちょっと長いな。とりあえず、その画像が出回ってて、それがす
 ーちゃんがやり取りしてた姫芽奈たちだったよ、という内容」
「いっ!?え、マジで!?姫芽奈”たち”って?」
「え~っと・・・」
「あ、すばる、住友さん、おっはよ~!」
「おはよ~」
「で、誰!?」
「え~っと、ミソラ?シ・・・読み仮名書いてなくてよく分からなくって
 (苦笑)ほら、姫芽奈は私も会ったことあるから覚えてるんだけ
 ど・・・」
 ミソラじゃなくてミランだよ。でもってシズクだね、きっと。画像拡散ん
か~~~~~~、最悪だな。未来の話、絶対それだよ~。
「お家帰ったらLINKするね」
「あ、うん、ありがと」
 ってもう教室着いちゃうんかいっ!中途半端過ぎる、中途半端過ぎる、どうしてそうなった!?聞きたい、聞きた過ぎる!
 でも、詳細は別として、何があったのかは分かった。未来からまだ返信が来ていなかったとしても、一日中得体の知れないモノに翻弄されて過ごすことだけは避けられた。
「おっはよ~、すーばるー!」
「うおっ!」
 千華が笑顔で体当たりの挨拶。千華の愛あるこの挨拶に、いつも心の中では痺れる程喜んでいるということは人には言えない。Sなのではなく、”友だち”として見てくれていることが、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて痺れるのだ。
「あ、乙君が近づいて来るぅ」
 ゲ、そういう情報はイラナイ。
 千華の声で視界の奥に宏介を見つけると、一瞬にして顔が引き攣るのが分かる。
「今日も乙君、クールな感じがいい感じぃ」
「何がだ、どこがだ!?」
「い~じゃ~ん、乙藤く~ん、おはよ~!」
「良くない、良くない、”おはよ~”じゃないっつの!」
 ゲ、乙が千華に手を挙げて挨拶返してる。千華ってば、いつの間に知り合いになっとるんだ!?え?
「や~ん、挨拶返ししてもらっちゃった~ん♪ はい、すばるも、はいは
 い」
 やめれ!勝手に手を持って手を振らせるなっ!おいっ!
「あ、行っちゃった」
 良かった、見られなくて。てか、ちーはーなー!
「あ~、ざんね~ん。せっかくデートした仲なのにねえ?」
「あれはデートじゃなくて、聖地巡礼ー----!」
「はいはいカワイイね~、教室入ろうね~、ミニテスト待ってるからね~」
 千華に引きずられて教室に入る。
 それでも、千華のSっぷりに翻弄されても、本当にイヤな気分になることはなく、愛のある絡みであることは、これまで”友だち”で苦労した自分にはその違いがよく分かる。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて痺れる。
 ただ、恐らくこれを人に話すと、自分が”M”認定されてしまう可能性があるので絶対言えない。
 
 学校では、昼休みと放課後以外の携帯使用は禁止されており、りーちゃんにざっくりを聞けたので、未来からの返信は昼休みでいいか、と思っていたが、眞理子たちとご飯を食べながら話をしているだけで時間が終わってしまった。
 帰り、自転車置き場で携帯を開くと、LINKのポップアップに未来からの返事があり、チラっと見えた文はりーちゃんが話していたことを示唆する。ので、とりあえず帰宅してからじっくり話を聞こうではないか。
 と思いつつ、塾に着いてから少し思いつくワードを幾つか入力して検索をかけてみると、出た。似た画像が連なっている。
 これ・・・
 見覚えのある画像。姫芽奈たちがCU応援団扇を抱え、斜めに構えて顎隠しピースをしてポーズを取っている。
 それと共に、見たことのない制服を来た、背景にカウンターとお酒と思われる中に、姫芽奈たちと思われる画像も流れている。
 それ以上いろいろ見てしまうと気になり過ぎてしまうので、一旦それだけを確認したら鞄に携帯をしまい込む。
 てゆーか、こわっ!
 年齢をごまかしてガールズバーで働いていたことが書かれており、どこから引っ張って来たのか、CUファンの間で拡散されまくっている。
 恐らく、CUのファンの中でしか広まらないであろうとは思われるが、正当でないことでファンの怒りを買い、ファンの中ではかなり拡散されたであろこれが数字なのだろう。
 名前、年齢、在籍している高校まで書かれており、それを見てゾッとした。
 実は、自分も姫芽奈たちが年齢を詐称してバイトをしていることは知っており、やんわりと”辞めたほうがいいのでは?”的なことを伝えたことがあたった。が、そんな自分の言葉に耳を貸すはずもなく、サラ~っと笑い飛ばされてしまい、関係が切れることに不安もあったので傍観することにした。そうするうちに結局は関係が切れたので、それ自体すっかり忘却の彼方。
 どこからどうこれらの画像が出回ったのかは不明だが、特に姫芽奈は強気で、恐らく何かしら衝突したこともあった人もいた可能性が考えられ、ここぞとばかりに標的にされたのではないかと思った。
 一方、姫芽奈たちをよく知らないファンは、CUのファンだというのに素行が許し難き、みたいな、ネット警察的な正義感で拡散したんだろうなと思う。 
 ていうか、会ったこともない人達にもこんな形で拡散されるとか、やっぱネットって恐怖・・・こんな主役になんかなりたくない。 
 ファン友だったし、楽しく会話をしていた時期もあった分、やっぱり心は痛い。今はブロックされているから彼女たちの呟きを見ることはできないし、どんなことを思っているかも分からないが、知っている人がこういった状況に陥っていると知るのは、何だか気持ちがザワついて気も漫ろ。何だか嫌な感覚。
 高校に入ってから、この高校を選択したのは正解だったと思っているし、小、中学の時よりずっと生きている感覚があるし、平和に、何事にも巻き込まれずにこのまま生活したい。
 今回は間一髪、関わりが切れていて自分に火の粉が降りかかりはしなかったが、彼女たちに降り掛かっている現状を考えると軽い頭痛のような重みを感じるが、平凡な女子高生は、本当に、本当に、本当に平穏に暮らしたい。 
 
⦅えらい世の中やの~⦆
「うん・・・」
 塾の授業も、集中しているつもりで仕切れていなかったことは後で気付くのだが、気にならないワケがなく、帰宅して携帯の画面に釘付け。
⦅何や、反応うっすいのぉ⦆
「ん・・・」
 自業自得とは言え、流石にちょっと可哀想と言うか・・・イヤな形で切れてしまったけど、暫らくの間CUで繋がっていた子たちでもあるし、情報を貰えて嬉しかったことも事実だし、自分に害さえなければどうでも良かったという状態だったから、こんな形でとんでもないことになっているのは流石にちょっと・・・
 未来からのLINKの返事を読むと、姫芽奈たちは自分のMutterなどのアカウントを削除したことや、それまでに嫌がらせのコメントが来たり、まだコメントがき始めた頃にそのアカウントを遡っていくと、子どもも結構大きい年配の女性ファンだったりということもあったそうで、気の毒、というよりも、そんないい歳して、いくらCUのファンとは言えやりすぎなのでは!?と思った。
 きっと姫芽奈たちは、ネット上じゃなくても制裁を受けることになるだろうし、ライブやグッズなど、必要経費や欲しい物にお金が掛かるのを、自分で何とかしようとしたがやり方を間違った、というところではあり、見ず知らずの人たちから集中砲火を浴びるところまでは行き過ぎかな~~~~~、と思う。
 勿論、高校生だし、ライブに行く回数とかグッズとか、大学生や社会人になってある程度稼げるようになるまでは我慢するとか、そういうことも必要だと思うけど、我慢よりも欲求が強かったと言われたらそこまでだけど・・・CUのファンは品行方正であれ、と自分も心掛けてはいるが、姫芽奈たちだけでなく、結構年配のお姉さま方でも、品行方正どころかみっともなくない!?と思うような言動行動をしているのもいるではないか。
⦅おえ~、無視すんなや~⦆
「へ?」
⦅”へ?”ちゃうわ⦆
「ん~・・・」
⦅因果応報やな~⦆
「え?ん~、いやそうかもしれないけど~・・・」
 と言われても、何かやっぱり周りがやり過ぎっていうか・・・未成年にいい大人まで攻撃的にコメ残す上に、画像拡散っていうのは・・・自分の身に置き換えるとゾッとする。
⦅そんなん言うたって、悪いことしたんやろ~?自業自得ちゃうん、よう知
 らんけど⦆
「やあまあ、法を犯してもいるし、そうなんだけど・・・」
⦅まあ、先のことも考えずやり過ぎたんやろ。オマエも何かエラい目に遭う
 とったやんけ。喉元過ぎたら何とやらやけど、オマエは忘れ過ぎやろ。脳
 みそ、どこ置いてきとんねん⦆
 いや、忘れてないし。てゆーか、”脳みそ置いてくる”とか、スゴい言い草。そこまで言う!?
⦅は?こんなん”へ”でもないわ、へっ!⦆
「あ~も~、意味わからんっつーの」
 う~ん・・・”へでもないわ”が何かは知らないけどさ~、いやいや、されたことはハッキリ覚えてるよ。チケット詐欺の時は、姫芽奈たちが勝手に巻き込んで来て大変だったし、関わりたくないと思ったもん。んでも、それとこれとは・・・
⦅そんな甘っちょろいからターゲットにされんねやろ~⦆
 や、てゆーか、言葉のチョイス!
⦅ま、ワシのお陰で切れといて良かったやんけ⦆
「は?何が?」
⦅何が?ちゃうわい。ワシのお陰で、チケット詐欺から逃れたんやろ~。ん
 でもって、一緒に映った画像、顔隠されんで拡散されてみ?オマエの素性
 も根掘り葉掘り調べられんねんでぇ~。おっこわっw⦆
 んんんんん~~~~~~~~~・・・
⦅いや?切らんと拡散されて有名になった方が良かかもな~⦆
 そんなワケないだろ!
⦅ないやんな~、そうやんな~、いや~、ワシ、ええ仕事したなぁ。な
 あ?⦆
 ん~~~~~~~~~~~~ずっと言われそう。都度じゃなくて、言うまでずっと続きそう。傍でずっと工事されてるような状態になるに決まってる。ん~~~~~~~~~~~~・・・
⦅え、ワシ、何も言うてへんで?笑⦆
 いやいやいやいや、言ってるのと一緒じゃん。てゆーか、言ってるんじゃん。はあ~・・・
 傍らで工事がずっと続くのか、ここはサラっと言うこと言ってしまった方がサッサと終わるのか、言ったところで都度言われるのか、たかがこんな小さいオッサン放っておけばいいのか・・・いや、放置しようにも何かされる危険があるが故、放置は無理だ。回答は2択。
 眉間に皺を寄せ両手をグーに握り締め、暫し葛藤。深呼吸、葛藤を繰り返す間も、オッサンが何か言っている。
 ああ、これが続くのか・・・これは・・・それは不快感極まりなし。ここはもう一気に畳みかけて終わる方を選択するか!?
 顔が引き攣っているのがこんなにも容易に感じられるとは、自分の意識では止められないこともあるものなのだと改めて知る。
 ここは・・・深呼吸・・・・・・・・せぇのっ!
「んーっふっふーーーーー。ええ、ええ、その説はどーーーーーもお世話に
 なりましたーーーーーあ、ありがとうございます、オッサンのお陰でぇ、
 助かりましてよ!」
⦅ほ~お、オマエ、しーゆーとやらの前でもそほぉ~んな言い方できんの
 か?ん?なあ~んかいっつも言うとったよな~、“二人に恥ずかしくないよ
 うな行動を”って人にはw 二人がさっきのん聞いたら、どう思うやろな
 ~、んっふっふっふ~)
 いやいや、CUがこんなとこ来ないし、聞かないし!いや、落ち着け、落ち
着け自分。
 深く息を吸い込み、怒りと葛藤をまとめて口から吐き出すことを繰り返し、頭にCUの姿を思い浮かべる。
 脳の中では、いつも舞台の上で感謝の気持ちを言葉にし、舞台の上のみならず、いつ何時もその姿勢を崩さない姿で、舞台の上からこちらに向かって手を振っている。
 ああ、何というシアワセ・・・
⦅おい、こるぁ、何妄想に耽っとんねん⦆
 オッサンのガラの悪い声で現実に引き戻されると、目の前でオッサンが鉛筆を持ってバットの素振り的なことをやっている。
「いたっ!」
 側頭部に何かが当たり、肩などに当たり床に落ちる。少し先が丸くなった鉛筆が、コロンと無機質に寝転がっている。
「ちょっとー!危ないじゃないのよー!何の嫌がらせよ!」
⦅いや、幻想の中におったみたいやから、起こしたってん⦆
 “はあ”と深くため息を吐いて鉛筆を拾い上げ、鉛筆をじーっと見つめる。
 でも、相当オカシな現実よな、有り得ないような、うん。でも、鉛筆痛かったし、現実よな、うん。いや、夢か????? いや、でも痛かったし。
 今度はベッドの上で、オッサンが仰向けに寝転がり、手足を平泳ぎのように呑気に動かしている。
 もう何が現実か幻かが分からない。
⦅でも、痛かったしw⦆
 ムカっとしつつ、オッサンの様子をじーっと睨み付けるように見つめていると、その周辺の物の輪郭がぼやけて来て、思考も鈍くなり始める。
 やめよ、今さら。宇宙の果てを考えるぐらいワケがわからなくなる。
 椅子から立ち上がり、ボーっとしたまま部屋を出る。
⦅ヲイ、放置か!⦆
 
 今日は下限の月か・・・
 帰り道、小さい頃にたまたまTVで観た、邦画の主題歌の中で覚えた月の呼び名を思い出しながら、空に浮かぶ月を遠目にふらふらと自転車を走らせる。
 学校帰り、仕事帰りの自転車、小学生を乗せた塾のバス、湿気が漂う中を徒歩で帰宅の社会人、携帯を弄りながら不安定に自転車を漕ぐ大学生。暗がりを照らす街灯と家々の上方に垂れ下がる下限の月は、空気の冷たい真冬のほうがキレイかな、などと思いつつ、家まで続く道を行く。
 姫芽奈たちのことはMutterの中でもあっという間に流れなくなり、拡散されるのも早いが、話題とならなくなるのも早い。ただデジタルなので、暫らくは検索すれば出て来る状況にはあることは否めない。
 気付くと、CUの日々の情報やその他芸能人の情報、話題のスイーツ、動画などが上がって来て、自分もあまり姫芽奈たちのことを気に掛けることはなくなった。
 いつものように玄関から部屋に向かい、鞄を扉脇の椅子に無造作に置き、鞄から携帯を取り出して充電器に繋げる。
 良いか悪いかは別として、いい加減、オッサンの存在に慣れてしまっており、オッサンが気に食わなければ何処かで悪戯を施されているだろうし、今や部屋の中が適度に整頓されていればオッサンは何もしないことも理解している。ちょっと厄介な見張り番が部屋にいる、と諦めている。
 夕食は軽く塾で済ませていたので、ジャージとTシャツに着替えてお風呂の準備をしてからキッチンに向かい、冷蔵庫の中からどくだみのボトルを取り出し、マグカップに注いで温めるか否かを少し考え、軽くレンジで温めることにする。
 やっぱ真夏までは、ややぬる茶のほうが体にはいいよね~。
 ”チン”という音と共にマグカップを取り出し、点いているTVに目を遣ると、オネエ系タレントが素人を弄り、笑いを誘っている。
 ここまで言ってもイヤな印象が付かないって、途轍もなく羨ましい。自分が同じことを同じように言っても、絶対嫌われると自信を持って言える。
 ソファーに凭れ掛って寝入っているお母さん背中が見え、”またかよ~”と思いつつ近寄り、“ちゃんと布団で寝たら?”と言い掛けたその時、唸るような声。
 寝相が悪いとか変な状態で寝ていると、ヘンな夢を見たりすると聞いたことがあるが、それを目の当たりにしているようだ。
 お母さんに声を掛けて体を揺すると再び低い唸りが一瞬聞こえ、更に体を揺すると、一瞬ソファーにチョコレート色が見えた。
 一瞬なのに、映像とリンクして頭の中で巡る”チョコ””溶けた””ドロっと””黒い”、いろんな言葉が駆け巡り、ハッと我に返ってお母さんの正面が見える方に足が勝手に動いた。
 半分見えるお母さんの口周りとその下に見える茶色い何かは、その様子から血だと認識。ソファーにうつ伏している状態のお母さんの上半身を返すと、ゴホっとまた口から血らしきものが飛び出し、その瞬間思わず仰け反ってしまった。
「お母さん!お母さん!お母さん!」
 う・・・という声しか聞こえない。どうしよう・・・
 恐怖と焦燥。目の前に、吐血をしたお母さんの姿を前に頭の中がパニックとなり、全く頭が働かない。
「お母さん!お母さん!」
 勢いよく揺すると再び”う・・・”とだけ声がし、多分、そのまま呼び続けて、やっと”すばる・・・”と搾り出すように言うのが聞こえ、意識はまだある、と思った、と思う。
 何故か、取り敢えず変な姿勢になっているのを楽な姿勢にしないといけないと思い、何とか寝かせようとしたが、一瞬、寝かせると血を飲んでしまうのではないか、という推理小説で得た知識がフっと頭を過り、どうやってやったか記憶はないが、ソファーに座る形に引っ張り上げた、らしい。
 脱力した人間を動かしたり担ぎ上げたりというのは激しく重い、ということは小説で読んだだけだったが、お母さんをソファーに引き上げた時のことは覚えていないので、それ自体記憶がない。もしそうだとすると、火事場のバカ時からを無意識のうちに体験したということだ。
 それからのことは更に記憶になく、何かバタバタ動いたこと、救急隊の人が来たこと、救急隊の人がお母さんに声を掛けていたこと、家を出るぐらいに裕子さんが来てくれて、誘導されるままに手を動かし、脚を動かし、救急車に乗り込んだ、という映像しか残っていない。
 ただただ平穏な日々を願っていたのに・・・
 開きかけの視界に、ぼんやりペールグリーンの色が目に映る。グラデーションがキレイ。そしてまた瞼が視界を遮る。
 そこからどのぐらい経ったかとか、まず自分が眠りについていたなどという意識もなく、少し下がった体温に身体が少しずつ起こされ、今度は先程より明確に覚醒し始める。 
 焦点が合い始めると、ペールグリーンのグラデーションがカーテンの形を成し、目の前にある白い物が布団であることを認識し始めた。
 そして、何かに寄り掛かっていて、そこに体温を感じていることに気付き、ハッと飛び起きた。
 そうだ・・・!
「お母さん?お母さん!!」
 椅子から勢いで立ち上がると、ベッドで寝ているお母さんの姿。
「すばるちゃん、大丈夫だから。ちょっと寝かせてあげよう」
 肩に手をかけ、落ち着かせようとする優しい声の方に顔を向けると、見慣れた顔。裕子さん。
「裕子さん、お母さん・・・」
「大丈夫よ」
 裕子さんに一旦椅子に座るよう誘導される、状況が理解できていない不安、焦燥感から、勢いで裕子さんの両腕を掴んだ。
「大丈夫って、お母さん、あれ血だよね?血吐いたんだよね!?ね、お母さ
 ん、死ぬの!?どうなっちゃうの!?」
「しーっ。すばるちゃん、大丈夫だから話聞いて。少し入院は必要だけど、
 後はちゃんと回復していけるから、大丈夫だから、死なないから」
 裕子さんがゆっくりと丁寧に説明をしてくれ、お母さんは極度のストレスから発疹が発祥し、胃潰瘍にもなっていて、突発的に吐血をしたという説明を受けた。
「本当にもう大丈夫なの!?ストレス性って何?ストレスって、何がストレ
 スだったの!?仕事?ってか、あたし!?」
 裕子さんは、“ううん、どっちでもないと思う”と歯切れの悪い返答をするが、それでは納得がいかないと訴えると、口を一文字に噤んでへの字にしながら“ん~~~~~”と唸って腕組みをしたまま頭を垂れてしまった。
 そこへ一人の看護士が来て、時間になったら入院手続等が必要であることの説明をしていたが、まだ頭が回らない上に、今まで入院手続なんて縁なく来たので、英語以外の外国語が頭の上を飛び交っているような感覚に陥る。
 ”私が手続きするから”と言ってくれた裕子さんに、反射的に頷いた。頭が働かない分素直にというか、縋れるものには縋りたい。
 自分は、自分が思うより頼りなく、結構なヘタレであることを思い知らされた。
 これまで病に伏せるお母さんの姿など見たことがなかったが故に衝撃だったからか、小説を読みながら、何かあった時にはこうする、ああするなどと考えていたことは全く活かせず、準備万端だと思っていた自分に幻滅。
 一旦、裕子さんが入院手続きをしてくれて、病院に迎えに来てくれた裕子さんの旦那さんである健一おじさんの車に乗り込んだ。
 手続きに必要な保険証は、自分が咄嗟に掴んで持って来たお母さんの鞄に入っていて、印鑑も必要と言われた時、ふと制服のジャケットのポケットに入れたことを思い出し、取りに帰ってからという手間は省けた。何故お母さんの鞄を咄嗟に掴んだかは分からないし、印鑑もそうだし、いつ制服に着替えたのかも覚えていない。
 事が事だからか、仮眠しか取れていないからか、ボーっとする。ボーっとする中で腕時計を見て、今日が何日で何曜日で、今が普段何をしている時間なのかを認識できない。
 ポケットから携帯を取り出して画面を見ると、知らない電話番号(後から学校の番号と知る)から複数回の着信と、眞理子、千華、琴乃から、りーちゃんからのLINK、着信履歴があり、ようやく今が平日で、学校が既に始まっている時間であることを悟る。
 そういや、いつ裕子さんに連絡したんだろう・・・
 発信履歴を見ても、まずお母さんのあの状況を見た時間を覚えていないので、見てすぐなのか、時間が経ってからなのかは不明だが、救急車で運ばれるぐらいに来たっていうことは、すぐ連絡したのかもしれない。
 充電も残り少ないので、取り敢えず眞理子たちとりーちゃんにLINKしておけば、学校には何かしら伝わると思うので、どう打ったらいいか迷いつつ、何とか売って送信した。
「あ、お父さんにはあたしから連絡しておいたから。休み貰ってこっちに来
 るって」
「あ・・・ありがとう」
 再びLINKを見ると、みんなからの温かいことばに少しホッとさせられる部分もありつつ、“心配させてゴメンね”と返した。
 返信をして携帯をポケットに入れて一息吐いた時、助手席の裕子さんが、今日は一旦着替えなどを取りに家に行き、裕子さんの所に泊まるよう言ってくれた。
 今、一人で家にいるなんて絶対無理だから。お母さんが出張とか、社員旅行とかで家にいないとなった時は、家に自分一人という心地よさを堪能できた嬉しかったが、今は、無理・・・
 
「お母さんのはあたしが準備するから、お母さんの旅行鞄とか下着とか入っ
 てるところ教えてくれる?すばるちゃんはうちに泊まる準備して」
「あ、うん・・・」
 元気な様子で仕事から帰宅するであろうお母さんを待つ家と、まだ目覚めていないまま荷物の準備をしに帰宅した家とでは、玄関を開ける時の感覚も違う。
 何でこんなことに・・・ドアが滅茶苦茶重たい、脚も重たい、身体も重たい。
 裕子さんにスリッパを出そうとすると、”バタバタするからいい、いい”と言われ、そのまま引っ込める。いつもはお茶したり、ご飯食べに来るから履くスリッパ。一つ一つが状況の違いを認識させられる。
 朝ではあるが、家の中が薄暗く感じるのは気持ちの問題か。いつもこんな感じだっけか?
「家にコロコロある?」
「あ~、修学旅行に持ってったヤツなら・・・」
「Mサイズかなあ?それ見せてくれる?」
「うん」
 TVのある部屋の収納を開け、スーツケースを引っ張り出して裕子さんに見てもらい、このサイズであれば足りるとのことでお母さんの部屋に移動。
 本当なら、次にこのスーツケースを使う時は、旅行かライブ参戦だと思っていたのに、まさか行先が病院だなんて・・・
 裕子さんは”開けるね”とこちらに許可を取ってから、病院から受け取った入院の手引きを見ながらあるものをてきぱきと詰めていく。
「すばるちゃんはまた取りに帰れるから、必要最低限でいいし、うちで使え
 る物は使ってくれていいからね」
「うん」
 裕子さんの家には何度も泊まったことがあるので、必要最低限がどのぐらいかは把握できる。とはいえこの状況。入れたつもりが入っていない、どうでもいい物が入っていた、なんてことが生じる可能性大。
 そういう意味で、すぐ取りに帰ることができる裕子さんの家に宿泊するということは、学校にも普通に行けるし、とても有難い。
 取り敢えず部屋に向かい、クローゼットから何となくライブツアーバッグを取り出し、二日分の着替え、ルームウェア、携帯充電器を詰め込み、学校の鞄に全ての教科書を突っ込む。
⦅よう、オカンどないや?⦆
「・・・取り敢えず、命に別状はないけど、入院」
⦅ほうか⦆
 これ以上何か言われたり聞かれたら、一気に爆発しそうな気がしていたが、オッサンはそれ以上何も言わず。珍しい。
「暫く裕子さんとこ泊まるから」
⦅ほうか⦆
 何だよ、”ほうか”って。静か過ぎてキモイ。
「すばるちゃ~ん、ちょっと来てぇ~」
「あ、は~い」
 なんだよ、いつもならもっと突っかかって来るクセに。なんなんだよ。
 再び車に乗り込んでから裕子さんの家に着くまでが、何だか妙に遠い。窓の外の景色も、さ~っと目を撫でるように流れて行き、全く残らない。
 あ・・・
「健一おじさん、今日仕事・・・」
「あ、大丈夫、大丈夫。お母さんのことも、職場には休むこと伝えておいた
 からね」
「あ・・・ありがとう」
 恐らく、午前中か一日か、有休を取ってくれたのだろう。有休には取れる日数があるとお母さんから耳タコぐらい聞かされていたから、健一おじさんの家のことではないのに申し訳ない。けど、自分一人では何もできなかった。有難い。
 裕子さんの家に着き、一旦家の中に入って、杏ちゃんの使っていた部屋を使っていいからと通された。
 杏ちゃんの部屋は何度も泊っているが、それは杏ちゃんがいる時なのであって、とても慣れた部屋なのに、一人で杏ちゃんの部屋というのは何だか違和感。
 でも何だかとても疲れていて、とりあえず一旦荷物を下に置き、杏ちゃんの机の椅子に座る。
 あ~・・・今、自分・・・どんな状態?
 お母さんが血を吐いて倒れているのを見て、死ぬの?死んだらどうしよう!?とか頭がパニックになり、結局入院して治療で治ると言われてホッとしたものの安心できず、普段使わない部分の脳を使い、身体も何だかよく分からない部位が筋肉痛のような状態で、暫しの仮眠程度で全てがリセットされるワケでもなく。
 分からない。ただ、疲れてる。学校は休む。また病院に荷物渡しに行かなくちゃ。お母さん、目、覚めたかな・・・
「すばるちゃん、レモンバームのお茶入れたから飲まない?」
「あ、うん」
 裕子さんが部屋まで呼びに来てくれたので、その誘いに乗って椅子から立ち上がる。体が重い。
 ノロノロとダイニングに向かい、いつも勉強の時に座る位置に置いてくれているハーブティー。同じ風景に安心する。 
「疲れたでしょ、はい」
「あ、ありがとう」
 椅子に座り、香りと共に立ち上がる湯気がを見つめる。窓からの明かりとテーブルクロスの色が、普段なら色の薄いレモンバームのお茶の湯気はあまり目立たないのに、目の前のカップでは、お茶の上を湯気が躍るように漂っている。
 普段、こんなこと見ていない。人って、普段と違うことが起こると、こんなところに目がいってしまうような、そんなメンタルになるんだな。
 湯気が減って来たところで自然にカップに手を伸ばし、そろそろと口に運ぶ。思ったより温度は下がっていたようで、いい感じの温かさのレモンバームのお茶が口から喉を通っていく。
 落ち着く・・・
 正直、レモンバームのお茶をすごく美味しいと思ったことはないけど、香りは好きだし、まろやかで飲みやすくもあるし、多分、ハーブティーは体にいい、というのが自分の中に刷り込まれているから躊躇なく飲んでいるのだと思う。
「すばるちゃん。お茶飲んだらお風呂入ったら?」
「え、お風呂?病院は?」
「大丈夫。病院がお母さんを見てくれてるし、焦らなくても大丈夫だから、
 一旦整えてから行こう。昨日、お風呂入ってないって言ってたでしょ?何
 か食べた方がいいし、多分、歯も磨いてないよね」
「あ、そう言えば・・・」
 言われて初めて気が付いた。いつもならそれは欠かせないルーティンのハズが、こういうことがあると、やっていないことすら覚えていないものなのか。
 ただ、言われてからは口の中も気になるし、髪もニオイも気になって来た。何だか全身がベタベタな気もして来た。確かにこのままで病院に行くのは良くない。
「・・・じゃあ、お風呂入る」
「うん、その方がいい。その間にもう少し足りない物準備して、スーツケー
 スに入れておくね」
「裕子さんはお風呂とかは?」
「あたしは昨日電話があるより前に入ってたから問題ナシ。後は、普段の朝
 のルーティンをこなすだけで行けるから」
「あ、そう・・・。裕子さん、ありがとう。あたし一人だったら何もできな
 かったから・・・」
「そりゃ若いんだもん。知識が増えるのもこれから、って時なんだから、で
 きなくって当然よぉ」
「そうかな~・・・何かテンパっちゃって・・・」
「お母さんの鞄とハンコを持って来てただけでも十分よぉ。機転がきいてる
 って思ったよ」
 う~ん、そんなモノなのかな~・・・
「とりあえず入っておいで。お腹空いてるかどうか分からないけど、少しだ
 けでも食べてから行こう。あっちですばるちゃんが倒れたら意味ないから
 ね」
「・・・そっか、そうだね」
「バスタオルとか諸々はいつも通りね」
「うん」
 レモンバームのお茶を飲み終えてから、杏ちゃんの部屋に入浴に必要な物を取りに椅子から立ち上がった。
「何か、身体がバキバキする」
「きっと普段使わない筋肉とか使っちゃったのね。でも若いっていいわよね
 ~。あたしなんて筋肉痛が出るの二日後よ~。すぐ出るのは若い証拠だ
 わ、羨ましい」
 裕子さんはいつも、無意識かもしれないが、その場が暗くならないような声掛けをしてくれる。しかも、特別なモノでなくて、日常的な話題で。
 いつか、自分も裕子さんみたいなことが出来るような大人になりたい。
 その前に、お風呂入って整えて、少しでも何か食べて、お母さんに荷物を届けつつ様子を見に行く。まずはお風呂。少し思考が動き始めたような気がするところで動き出さないと。
「あれ?健一おじさん」
「あ、すばるちゃん、お母さん大丈夫だからね~、ゆっくりしてって~」
「あ、うん。あの、ゴメンね、お仕事まで休ませちゃったみたいで・・・」
「気にしない、気にしない。行ってきま~す」
「行ってらっしゃ~い」
 健一おじさん、ホントにありがとう。いつもそうだけど、滅茶苦茶笑顔で滅茶苦茶手を振ってくれるおじさん。笑っちゃいけないけど、何か笑っちゃう。
 若松家はいつも明るい、憧れのお家。
 
 裕子さんの運転する車に揺られ、お母さんの入院先に向かう。
 裕子さん曰く、お母さんが倒れて入院にはなったが、それでもお母さんはラッキーな方だったのだと言う。
 搬送される病院がなかなか見つからず処置が遅れることもある昨今、搬送先が割と早く見つかったということ、搬送先で受け入れてもらえるぐらいの病状だったということだと。
 帰る前に聞いた話や裕子さんの話などから、お母さんはすぐにどうかなるような病状ではないということが次第に理解できてきた。入院も、1~2週間ぐらいになるだろうと言われている。
 それでも、倒れた時の映像が脳裏にへばり付き、ふとした瞬間に甦る。シール剥がしならぬ、記憶剥がしというものがあればいいのに、と思ったり。  
 入浴も済ませて少しご飯を食べ、時間が経ったのもあり、いろいろと冷静に考えることが出来始めた。
 入院した病院は少し家から遠いし、その辺の土地勘はないが、距離的には自転車で通えないワケではない。車からの景色を見ながら、目印となりそうな場所を頭に刻む。 
 
 病院に着いたが、搬送された時も離れる時もロクに病院を見ていなかったので、初めて病院を見る感覚。
 夜だったし、裕子さんが全部やってくれたから、病院名とか外観まで見る余裕なかったな~・・・
 車から降り、後部座席からお母さんの荷物を入れたスーツケースを引っ張り出し、裕子さんが荷物を運ぼうとしたので、自分が運ぶことを伝え、裕子さんの後について駐車場を後にする。
 病床のある病院に向かうのはおばあちゃんの時以来だが、病院というのは兎角イヤなことを思い出させる場所だ、と独り言ちる。
 おばあちゃんの時は、お母さんの自転車の後ろに乗せられて通い、病院に着くと、お母さんは決まって自分を雑に荷台から下した。
 お母さんがピリピリしているのは認識していて、一度、あんまりにも行きたくなくて、荷台から下ろされることが嫌で足を引っ掛けて阻止しようとしたことがあった。
 お母さんは更にイライラ度を上昇させ、”あんたまで手焼かせるな!”と怒鳴り散らした。周囲が驚いてこちらを見たのも覚えている。
 荒っぽく自転車の前の籠から荷物を取り出し、歩幅も違うのに、そのまま病棟に足早に向かうお母さんの後ろ姿を、一生懸命追い駆けた。お母さんは振り返りもせず、ただ只管真っ直ぐに病棟、いや、おばあちゃんの元に向かった。
 入院するおばあちゃんを可哀想だと思えず、ただただお見舞いに行くのが嫌いだった。今考えると、あれはお見舞いというよりも、態々サンドバッグになりに行っているようなものだった。
 なのに、お母さんはおばあちゃんの病院に通い続けた。娘だからといって、そんな思いをしながら通い続ける必要があったのだろうか?今自分がお母さんの入院先に行くのは心配だからで、お母さんは実際はどうだったのだろか。あんなおばあちゃんでも心配に思えていたのだろうか。
 どちらにせよ、自分は必要以上に病院というものが好きではない気がする。
 一瞬立ち止まり、病院の外観をざっと見て、再度スーツケースを引きながら、少し距離の開いた裕子さんの後ろをについて行く。
 お母さんのいる病棟の廊下には、看護士その他が忙しなく行き交う姿があり、少し開けたスペースに、TV、テーブルとイスがいくつか置いてあり、お見舞いと思われる人と、入院中と思われる人が点滴を付けたままで一緒に喋っていたり、TVを見ている人、新聞を広げて読んでいる人などがいる。
 朝のうちに大部屋に移ると聞いていたので、裕子さんがナースステーションで部屋を聞き、看護師に案内について行く。
 部屋番号を確認するがネームプレートがなく、開けっ放しの扉の陰から恐る恐る部屋の中を覗き込むと、それぞれにペールグリーンのカーテンが閉まっていて、取り敢えず4人部屋で、全部埋まっていることは分かったが、お母さんのベッドは一見しては分からない。
「こちらです」
 看護師の誘導で、右手奥のベッドに案内される。陽当たりが良さそうで、悪くはない。
 看護師はそこで戻って行き、カーテンの開いてる方に回り込んでお母さんの様子を窺った。
 お母さんは眠っているが、昨日の顔面蒼白からすると血色は悪くないように見える。
「荷物、少しずつそ~っと出して移そうか」
 裕子さんのバッグを椅子に置いて、小声で声をかける裕子さんに頷き、スーツケースをそーっと倒し、開けようと手をかける。が、スーツケースというものは開ける時に”ガチっ!ガチっ!”と結構大きな音を立てるもの。
 その音を立てないようにして開けられるのか!?と思う一方で、まあ開ける時の音ぐらい、とも思う。
 そろ~っと開けようと試みるも、スーツケースの構造的なところに関してはどうすることもできるハズもなく、予想通り”ガチっ!ガチっ!”と音を立て、静かな病室に結構大きな音が響く。
 おお~・・・お母さん、起きちゃうかも・・・
 裕子さんはそこまで何も感じていないようで、スーツケースを開けてタオルなどを取り出し、戸棚に収めていく。
 どうやらお母さんはスーツケースの音では起きなかったよう。
 その様子を見て少し安堵しつつも、自分は何をしたらいいのかが分からず、何となく裕子さんの行動を見てオタオタしている。
「よう!」
「え?あ、お父さん!」
「あ、徹さん」
「あ~、これはどうも、裕子さん。この度はお世話おかけしまして」
 お父さんがカーテンの陰から姿を現し、裕子さんに深々とお辞儀をし、一連の対応について謝意を述べる。
 思わず、”この度”どころか、いつもお世話かけてるんじゃん、と思ってしまう。
「ササっと片づけちゃいますね」
 裕子さんが更に手際よく片付けを始めたので、お父さんは”ちょっとコンビニに”と言い、お母さんのベッドの足元に荷物を置いて病室を離れた。
 いやいやいやいやお父さん、そこは”自分がやりますよ”じゃないの!?裕子さんにやらせるんかい!
 呆れて溜息を吐き、何をしたらいいか分からない中でも、何か裕子さんの手伝いをしようと向き直した時、お母さんの目がゆっくりと開き始めた。
「お母さん?」
 昨晩よりは血色は良いが、反応は鈍い。
「お母さん!」
「あずさちゃん、目覚めた?」
「ん・・・あ、裕子さん・・・」
「あ~、起きなくていいから、寝てて、寝てて」
 無理やり起き上がろうとして力を入れられないお母さんを裕子さんが制止し、動くことを早々に諦めたお母さんは横になったまま裕子さんに謝意を述べる。
 ”気にしない、気にしない”と言いながら、最低限必要な物をスーツケースから取り出して片づけ、スーツケースを閉じてから立てて、引き出しなどのある棚の横と壁の隙間に寄せる。
「学校、休んだんでしょ・・・ゴメンね」
「あ・・・うん」
 ”ゴメンね”と言われても、何と返したらいいのか分からない。できれば学校は休みたくないが、昨日はそれどこじゃなかったでしょ!?
 裕子さんが体が辛いかを聞くと、今は点滴だか薬だか何の作用かは分からないが、痛みなどはないそう。
 ただ、暫くは点滴で食事を摂ることが出来ないので、嫌でも力の抜けたような状態は続き、食事に戻していくにしても、ドロドロした物からになるらしく、体力、気力が戻るにはまた時間が必要らしい。
「・・・ありがとね」
 何か、見たことないようなそんな弱弱しいカオ、見せないで欲しい。
 せっかく何とか不安を緩和されてきたと思っていたのに、再び漠然とした不安に襲われそうな感覚を覚えた瞬間、“おまた~”と父親が能天気な様子で戻って来る。
「おまた~・・・」
「“おまた~”、知らん?」
「意味分かるけど、懐かしのナントカってTVでしか聞いたことないし」
「まあ、いいじゃん、いいじゃん。あ、母さん、まだ飲めないだろうけど、
 一応2Lのお茶とー、母さんの好きなナタデココのゼリーあったし、好き
 な作家さんの小説も置いてたから、買って来たゾ」
 お父さんはそう言いながら、お茶とゼリーを冷蔵庫に入れるよう、こちらに手渡して来て、小説はベッドの足元に置いた。
 お父さんはお父さんなりにお母さんのことを心配し、朝一の新幹線で戻って来たことなどを考えると、お金のことさえなかったら、そこまで仲悪くもないし、寧ろ、好みとかまで知ってたりするんだ。何だか変な関係。
 “お父さんも心配なんだね”と裕子さんに耳打ちされ、“な~んかね”と複雑な心境を見せまいと、少しおどけたように耳打ちをし返す。
「あ、裕子さんもこれどーぞ。はい、すばるのも」
 お父さんが更に温かいペットボトルのお茶を袋から出し、手渡して来た。
 普段の生活では全く気が利かないが、こういうことは何とか気が回るらしい。これは、外に働きに出ているから身に着いたのだとしたら、やはり離婚は間違いではなかったのかもしれない、などと考えたりする。
「別に、良かったのに」
「いやいや、もうお世話になりっぱなしで、すいません」
「じゃあ・・・いただきます」
 一旦手を止め、温かいうちにお茶を飲もうと、バッグを退けて椅子に座る。お父さんは一旦その場を離れ、外から椅子を持ってまた戻って来た。どこで借りて来たのやら。
「あずさちゃん、うちで暫くすばるちゃん、預かるね」
「え、いや・・・それは・・・流石にちょっと・・・申し訳ないの
 で・・・」
「ううん、すばるちゃんは学業もあるワケだし、今ご飯もちゃんと食べない
 といけないし、家に一人でいられるだろうけど、いきなり生活が変わると
 大変よ」
 自分でも一人でいられるとは思うし、こんな状況でなければ、一人暮らしを経験できるラッキーな状況、となるワケだけど、今はそんな気分ではなく、正直一人は心細い。昨日の今日で、まだあのお母さんの衝撃的な姿も頭から離れないし、だからと言って、お父さんに家に来てというのも違う。
 両親は離婚の時に、お父さんに甘くするとまた怠けるからということで、元さやに戻ることはないし、お父さんは家には入れず、会う時は外で会うこと、と決めているのだ。
 となると、裕子さんの申し出は涙が出るほど有難い。
 きっと、お母さんも自分が裕子さんのところで生活するほうが安心だろう。
「お父さんは?」
「ワシは、こっちに今日、明日いて、明後日朝帰るわ」
「え、たった2日!?お母さん、倒れたのに!?」
「いや、急遽休暇貰ったから、スケジュール的に2日しか無理だったんだっ
 て。そんでも休みくれたんだよ~。それにほら、お母さんも入院して治療
 したら治るんだし」
「そりゃそうなんだけどー・・・・」
 そりゃそうなんだけど、そうなんだけど、こういう時ぐらいもう少し
・・・と言いそうになったが、よく考えてみたら、確かに何もできないお父さんがずっといても、そりゃ邪魔なだけか。
 と思ったが、お父さんは面会ギリギリまで病院にいるつもりで、歩いてすぐのホテルを取っていると言うと、お母さんは迷惑そうな顔どころか、何だか安堵の表情が垣間見えた。
 何故だ?働かなくてあれだけ大喧嘩してたというのに、離婚して適度な距離ができてから、逆に良い感じってどういうこと???イミフなんだけど。
「ま、今日、明日は一緒に晩飯食べに行こうや」
「うん」
 
 裕子さんはお母さんに何かまだ必要な物はあるかを聞き、足りなかったら持って来ることを伝え、お母さんも何度もお礼を言い、一旦戻って行った。
 お母さんから、親戚でもないのにここまでしてくれることがとても有難いという言葉を聞き、よく考えたら”そうだな”と思った。
 それまで、初めてのことだらけでパニックになっていて、メンタルギリギリだったのでそこまで考える余裕がなかったが、確かにそうだ。
 お母さんには兄がいるが疎遠だから、いとこがいるらしいが会ったことがない。おばあちゃんは既にいなくておじいちゃんはもっと昔からいない。お父さんにも姉がいるが殆ど面識はないし、お父さん方のおばあちゃんも遠方に住んでいて殆ど会うことがないし、おじいちゃんも随分前からいない。
 頼れる親戚がいない中、裕子さんや健一おじさんがいてくれただけでなく、昔から知っているとは言え、赤の他人なのにここまでしてくれている。
 夜中に呼び出されて、パニックに陥っている高校生を落ち着かせつつ、夜中じゅう手続きから何からやって、その上朝になってからも、朝ご飯にお風呂にメンタルケアまで。
 裕子さんと健一おじさんがいなかったらどうなっていたのだろう!?と思うと、ゾッとする。オタオタするだけで、もしかしたらお母さんは手遅れになって死んでいたかもしれない(後から、胃潰瘍で死ぬとなるとよっぽどの状態だと言われた)。
 なんせ、自分で救急車をどうしたのかとか、裕子さんに連絡したのかとか、今思い出そうとしても、何故か記憶がすっぽり抜けている。玄関の鍵は裕子さんが閉めてくれたらしいが、それも見た記憶がない。
 ”遠い親戚より近くの他人”とはよく言ったもので、正しくそれを今体感している。いざとなると、遠くでばかり仕事をしているお父さんだってすぐに駆け付けてくれるワケじゃない。
 本当にお母さんの言う通り。感謝しかない。

 お母さんは、正しくは胃・十二指腸潰瘍だそうで、胃痛はあったが病院に行く程とは思っていなかったらしく、そうする間に昨日の状態になったそう。
 2、3日は絶食で、検査をしながら治療を進めていくとか。どちらにしても、取り敢えず入院していてくれていたほうが安心だし、とにかくしっかり治してから退院して欲しい。
 ということで、正直なところ自分がいても何もやることもできることもないし、長く話せる程お母さんの体力もないが、元々そんなに和気藹々と会話をしたり冗談を言い合ったり、CUの話題で盛り上がる親子関係でもないので、いても傍にいるだけになるが、それでもまだ心配が全くなくなったワケではないので、”何となくいる”という状況。
 とは言え、自分もまともに睡眠を取っていなかったので、気付いたらお母さんのベッドにうつ伏して寝てしまい、その間にお母さんは検査にも行ったようで、そんなことにも気付かず、次気付いたら夕方になっていた。
 ああ、何という・・・カーテン越しにも、病室の窓から夕焼けを感じられる。
 起こしてくれれば良かったのにとお父さんに愚痴ると、一度起こそうと揺すったが、全く起きる様子がなかったらしい。どれだけ爆睡していたんだか。
 ただ、お母さんが治療をすれば治る状態と知った安堵感からの爆睡だろうし、目が覚めると気持ちも少し落ち着いていて、お母さんが目の前で眠っていても、大丈夫と思えている。
 ”眠る”ことでこんなに気持ちの切り替えができるのかと思うと、”寝ることは大事”と言われるのが何となく分かるような気がする。とは言え、安心感がなければ、連日寝不足にでもならない限り爆睡なんてならないだろうけど。
 それでも、まだ何となくフワフワと目の前の状況を受け入れられないようなないような思考だったのが、今は目の前のこととこれからのことを考えられる状態になっている。
 お母さんはまだ眠っているが、ここの面会時間は17時まで。そして、次第にお昼を食べていない代償がお腹から聞こえてきて、恥ずかしさも相俟ってそろそろ退散した方が良いだろうということで、お父さんと徐にお母さんのベッドを離れ、病室から退室した。
 来た時、ボーっとした頭で裕子さんの後をついて来たので、どこをどう通って来たか全く覚えてい。所々、見た光景はあるが、外に出るまでの同線が分からないので、頼りはお父さん。
 しかし、病院というのは、何だか非常に気持ちが重くなる場所だなと感じる。普段あまり来ることがないので気付かないが、やはりそこにはいろんな思いを抱えた患者さんたちがいるからなのか、はたまた、只の自分の気のせい、気の持ちようなのか。
 とは言え、病院から一歩出るとやはり空気が軽い。呼吸がし易い。思わず深呼吸してしまう。昔のドラマで見た”シャバの空気”というのも、こんな感じなんだろうか。
「近くで晩御飯にするか」
 深呼吸をしていたので、返事のタイミングが微妙にズレたが、”うん”と返し、軽い空気を感じながら歩き出す。
 普段なら、食べてみたいものやお店をリサーチしてからお父さんを連れて行くが、今日は流石に今からそんなことをする気持ちの余裕もお腹の余裕もないので、お父さんの言うように、病院から見えるチェーン店の中華のお店に入ることにした。
 あまり入ったことはないが、このお店を好きな人は結構多いと聞くし、既に結構人が入っていて、聞いているように人気であることは容易に知れる。
 そして、メニューを見て、その多さに一瞬クラっとした。
 こんなに多かったっけ?
「ワシは、餃子と唐揚げと台湾胡瓜とビール」
「え?ちょっと決めるの早くない!?」
「足りなかったら後から頼めばいいんだし、餃子と唐揚げは外せんだろ。す
 ばるも食うだろ?」
「え?あ、うん」
 あ~、今は”食う”なんだ。お父さんって、現場行く場所によって、ことばの影響受けすぎ。”食べる”って言ってる時の方がいいのにな~。
「あ~、どうしよ!?う~ん・・・」
 かた焼きそば、普段食べないから滅茶苦茶惹かれるな~、どうしよ?
今炭水化物ガッツリ食べると後が辛いか?いや、昼を食べてない上に、今は時間的にまだ早い。しかし、途中で食べるのを挫折してしまったらもたいない・・・どうすべきか!?あ、ジャストサイズなんてのがある~。
「あ、揚げそば、エビチリ、野菜いため、全部ジャストサイズで」
「え、全部ちっさいやつ?」
「ちょっとずつが丁度いいんだよ。お父さんも食べるでしょ?」
「おん。じゃあ。すいませーん」
 お父さんと昼食兼晩御飯を共にし、お土産を渡すからと言われ、宿泊しているホテルに立ち寄る。
 小遣いを手渡されたのは嬉しかったが、更に手渡されたお土産の袋。この緊急時によくお土産なんて気になったなと呆れながらも、お父さんから差し出された紙袋二つに手を伸ばす。
 軽いのかとお神酒や、想像以上の重みに思わず前のめりになる。
「ちょ、何これ、滅茶苦茶重いんだけど!」
「いや、だって健一さんとこにお世話になるって聞いたし、お金渡すのも拒
 否されそうだし、お土産ならと思って」
 え、何、こっちはテンパってたのに、お父さん、何でそんな淡々とお土産なんて用意できるんだよ!?
「そんなので前のめりって、筋肉ないな~」
「いや、そういう問題じゃないでしょ、コレ。何入ってんの!?」
「蕎麦とおやきと五平餅、野沢菜漬け。あと~、牛乳パンとカントリーマダ
 ムのりんご味と巨峰味、くるみゆべし。あ、あとジャムが幾つか」
 まあよくここまで重いものばっかし選んだな~、チョイスは悪くないけどさ~。
「や、うん、重たいけど、ありがと」
「おう。明日も学校休むのか?」
「いや、う~ん、まあ入院してるから安心と言えば安心なんだけど・・・学
 校自体はあんまり休みたくないけど、もう一日休む・・・かなあ。昨日の
 今日で、ちょっとまだ本気で安心して学校に行くっていう気持ちにはなれ
 ないかな~と思って。基本、出席日数皆勤だから、二日ぐらい休んでも大
 丈夫だし」
「そうか。じゃあ、来るならまた病院でな。ワシは新幹線の時間があるか
 ら、適当なところで病院出ないといけないんだけどな」
「うん」
「裕子さん、迎えに来てくれるんだろ?」
「うん。でも明日は自転車で来る」
「そうか」
 携帯のバイブが鳴ったので見ると、裕子さんが病院の前に着いたという連絡。
「裕子さん、着いたみたい」
「お、じゃあ、裕子さんに宜しく言っといて。でもって、迷惑かけんなよ」
「小学生じゃないっつの」
「じゃあ、また明日な~。ちゃんと寝ろよ~」
「うん」
 手を振りながらホテルの前でお父さんと別れ、重いお土産を両手に持ちながら歩き始めると、思わず”おもっ(汗)”と口を突いて出た。
 車までお父さんに運んでもらえば良かった。ていうか、気付けよオヤジ、って感じ。お父さんって詰めが甘いんだよな~。そこまで気が利いてたら、離婚もなかったかな~・・・いや、これとはまた別か。
 一応離婚しているので、お父さんは家には泊まらない。それはお母さんの信念で、お母さん方のおばあちゃんの男性関係のだらしなさを見て来て、やはり線引きは必要と言うのだ。
 確かにお父さんは家に入れるようになると、何かと入り浸って、また仕事に行かなくなる怠惰な状態にならないと言い切れない。
 普通のサラリーマンで、毎朝同じオフィスに仕事に行き、自分に与えられた仕事をこなし、毎月最低限決まったお給料を貰える状態だったら離婚にはなっていなかったのかもしれない。
 と思ったところで、お父さんには向かないことも理解していて、何時でも連絡が取れるツールも存在する今、現状の家族の形に不満は抱えていない。
 ただ、今回お母さんが倒れたという中では、お父さんが家にいてくれたら、と少し思ってしまったことは事実。いや、考えても無駄なことは考えない、考えない。
 病院の前に裕子さんの車を見つけ、何となくホッとして嬉しくなって駆け寄ろうと思ったが、両手のお土産が重過ぎた。すぐそこだというのに、この距離がやたらと遠く感じるというのはどういうこと!?
 
 一応離婚しているので、お父さんは家には泊まらない。それはお母さんの信念で、お母さん方のおばあちゃんの男性関係のだらしなさを見て来て、やはり線引きは必要と言うのだ。
 確かにお父さんは家に入れるようになると、何かと入り浸って、また仕事に行かなくなる怠惰な状態にならないと言い切れない。
 普通のサラリーマンで、毎朝同じオフィスに仕事に行き、自分に与えられた仕事をこしたり、決まった作業を続けたりして毎月最低限決まったお給料を貰える、営業でガンガン成績上げられるような態だったら離婚にはなっていなかったのかもしれない。
 と思ったところで、お父さんには向かないことも理解していて、何時でも連絡が取れるツールも存在する今、現状の家族の形に不満は抱えていない。
 ただ、今回お母さんが倒れたという中、お父さんが家にいてくれたら、と少し思ってしまったことは事実。いや、考えても無駄なことは考えない、考えない。
 病院の前に裕子さんの車を見つけ、何となくホッとして嬉しくなって駆け寄ろうと思ったが、両手のお土産が重過ぎた。すぐそこだというのに、この距離がやたらと遠く感じるというのはどういうこと!?
 あ~・・・疲れたな~・・・と言っても、お母さんが入院治療で治るって聞いたから、そんなこと言ってられるんだろうな~・・・
 杏ちゃんのベッドの上に寝転がり、大きく溜息を吐く。ボーっと天井を眺める。天井の色が違う、模様が違う、高さが違う、ライトが違う。
 そんなことは、遊びに来ての宿泊であれば気にもならず、ボーっと見ることもなく、こんな状態でないと気付きもしなかっただろうと思う。
 今は遊びに来ているワケではなく、普段とは全く状況が違い、今はいろいろ疲れ過ぎて何かを考えるほうに頭が回らない。が故に、杏ちゃんの部屋の天井をボーっと見るに至った。
 ただ、体が重いし、よく”体が鉛のように”と表現するのを聞くが、こういうことかと今激しく実感。それ以上、頭に何も浮かばない。大工さん、申し訳ない。
 寝返りを打つのもやっと。こんなことで体はちゃんと元に戻るのだろうか?今のところ、やっぱり明日学校に行ける気がしない。休みで正解。
 でも何よりも、取り敢えずお母さんは治療で良くなる。良かった。お母さんが突然死ぬとか、流石にそういうことではなくて良かった・・・ホントに・・・
 しかし、静かだ。
 寒さで一瞬目が覚め、あの服のままベッドの上に寝転がった状態で眠ってしまったようであることを何となく認識するが、布団カバーと布団を捲って布団の中に入るので精一杯で、再び泥のように眠った。
 きっと家ならオッサンが何かしら仕掛けてきて、早々に起こされているに違いない。
 次に起きた時は、遮光カーテンであっても隙間から零れる光で、外が明るいことが分かった。
 自分の部屋ではないことを思い出し、杏ちゃんの部屋のどこに時計があったかを記憶から引っ張り出し、思い出した方に目を向ける。
 まだ”朝”の時間で良かったとホッとした。ガバッと勢いで起きるほどまだ体が起きておらず、起き切らない頭で、いつもなら学校に向かってる途中だなとか、服で寝てしまうというのはゴワゴワして結構窮屈なんだなと思いつつ、かなり疲労感が強かったからそれどころではなかったんだな、などと、取り留めもなくだらだらと思ったりした。
 なかなか体に力が入らず起き上がらないまま、”起きよう”と体と思考が一致するまで、ベッドの中で寝返りを打ったり、布団の中に潜ったりした。
 これから約2週間ぐらい、これまでと全然違う生活なんだ・・・でも、お父さんとお母さんが離婚した時、どうなっちゃうんだろう!?と思ったけど、結局は慣れて今の生活に落ち着いた。
 その時と比べると、2週間ぐらいで退院できるって見通しがあるから・・・いや、多少お母さんも療養的なこともあるだろうから、いきなり仕事とか家事なんてのは無理だろうし・・・家事・・・トイレ?お風呂・・・は使った際にやればいいとして、掃除機は・・・休みの日か。
 朝ご飯は、ご飯さえあれば、納豆とインスタントの味噌汁で何とかなる。けど、お弁当・・・パン買うか、夜のうちに作って冷蔵庫に入れておく・・
・にしても晩御飯?う~ん・・・実は考えること山積み。
 ダメだ、こんな動かない脳みそで考えても整理できない。起きよ。ていうか、重い・・・
 ”何言うとんねん、アホちゃう!?はよ起きれや”
 っと、空耳(苦笑)やばしw これ、言い方真似たりしたらまた、”へんな大阪弁喋んなや”って言われるんだよねw
 何だか勝手に笑いが込み上げてきて、徐にベッドから上半身を起こした。
 再度深く息を吐きつつ、”よいしょっ”と布団を捲り、”ふんっ”とベッドから脚を下して座ってみた。
 おお~、体がだるいぞ?重いぞ?手をついてないと座ってられないかも・・・いや、取り敢えず勢いで立ち上がれ!若さと勢いだけはある!
 以前裕子さんに言われたことばを思い出して立ち上がろうと思ったが、結局ベッドからズルっとカーペットに座り込み、四つん這いで携帯をどこにやったかを探す。
 きっとここにオッサンいたら、またいろいろ言われんだろうな~。いや~、いなくて良かった、良かった。言い合いしてたら物事が進まない。
 携帯、携帯・・・鞄だったか、ブルゾンだったか・・・いや、昨日は学校の鞄も持って行ってないから、トートバッグか・・・ていうか、充電もせずに寝てしまったはず!病院に行くまでに充電できるか!?いや、せねば!
 鞄、トートバッグ、服が重なった場所を探り、デニムパンツのポケットから携帯を見つけ出した。画面はすっかり真っ黒。
 き、切れてる・・・充電(泣)
 また鞄やトートバッグの中を探って充電器を見つけ出し、何とか携帯に充電を施すこと完了。
 あ、学校に連絡!!これ、自分で連絡できんじゃん(泣)裕子さん、裕子さんにお願いしないと!!
 這いつくばっていた状態から、短距離のスタートさながら瞬発力を利用し、何とか立ち上がって漸く部屋を出た。
 何か、ゴソゴソしながら”アホちゃうん”とずっと言われていたような気がするって、オッサン病の末期だ。
 裕子さんに学校への連絡ができていないことを伝えると、既に連絡をしたと言う。でも、裕子さんではなく、お父さんが連絡をしておいたらしい。
 ていうか、いつの間にうちの高校の電話番号を?まあ、考えられるのは、お母さんがいざという時の為にお父さんに言っておいたのかもしれない、ということ。
 自分の知らないところで結局お父さんとお母さんは、ただの繋がりなのか、気持ちが繋がっているのか、ワケが分からない。大人のことは、ホント全く理解不能なので、考えないようにしたほうが賢明。どうせ分からない。
 裕子さんが用意してくれた朝ご飯を食べに、テーブルに着く。目の前には、久々に見る裕子さんの家の朝ご飯。小さい頃泊まった時の記憶が甦る。
 あの時は、こんな感じで裕子さんのところに泊まり、朝ご飯を食すなど考えたことは微塵もなかった。お泊りが嬉しくて、朝ご飯も家とは違う感じで、キラキラと星というかスターダストみたいなモノが舞っていた。
 今は楽しいお泊りではないので、何だかちょっぴり恐縮感。勝手知ったる人の家、とは言え、入り口が違うとその居心地も違うものなんだ、ということを初めて知る。
 というか、四の五の言う前にとにかく食べないと力は出ないし、病院のあの雰囲気に生気を持っていかれそうになるので、まずは有難く頂こう。とにかく頂こう。
 ”いただきます”と小さく呟き、家ではしないぐらい丁寧に手を合わせて軽く頭を傾ける。
 目の前のマグカップに手を伸ばし、温かいスープを食す。舌の上の食感と味覚、湯気と共に嗅覚、マグカップから伝わる温度と相まって、体中に染み渡る旨味。
 ん~~~~~~~うま・・・
 
 お父さんはもう既にお母さんの病室にいると連絡があり、裕子さんの車に乗せてもらい、遅れて病室に到着。
 少し気持ちが落ち着いたこともあってか、病室入口に至った時、太陽が病室に差し込む光も穏やかに見えた。
 何て言っても、”もしここにオッサンがいたら”と考えて笑ってしまうぐらいのところに気持ちがあるというのは、あの怒涛の1日から考えると雲泥の差だ。
 カーテンの壁を通り抜け、健康状態を良くしてくれそうな陽の当たる窓際のベッドの方に歩くと、椅子に座っているお父さんの背中が見えてくる。
「おはよ」
「おお、おはよう」
「おはようございます」
「あ~これはどうも、お世話になってすいません」
「いえいえいえ」
 お父さんがそそくさと椅子から立ち上がり、裕子さんに”どーぞどーぞ”と勧めるも、裕子さんは”いえいえ、大丈夫なんで”と遠慮をし、放っておいたらこの攻防が暫し続くこと必至。
 見ていても仕方がないので、サッサと入り口辺りに重ねてある丸椅子を二つ取りに行く。
 お父さんも、自分たちが来ることを分かっているワケだから、先に置いておいてくれればいいのに、と一瞬思ったが、お父さんがそんなところに気が利くのなら、離婚に至ってないか、とも思ったりする。
 持って来た椅子に裕子さんは一旦裕子さんの鞄を置き、お母さんに持って来た荷物について説明をする。
 自分が”体が重い”と思いながら起き上がるのと格闘をしていた間に、裕子さんは必要物品を準備してくれていたということで、本当にとてもとても有難い。自分だったら、結局何が必要なのか分からないから、都度聞いては持って来るか買って来るかで、恐らく、不便極まりない状況になっていただろう。本当に、神だ、仏だ、お釈迦様だ。
 お母さんは暫く絶食と聞いていたので、点滴やその他の管が昨日同様繋がっており、治療をすれば治ると聞いていても、如何にも“病人”という様子が痛々しく見える。
「調子、どお?」
「うん、まあ・・・」
「少しの間絶食なんでしょ?お腹空いたりしないものなの?」
「いや・・・今はそれどころじゃないから・・・」
 そりゃそうだ。聞いた自分はバカなのか?と思わずツッコミ。オッサンがいなくて良かった。
「すばる、学校・・・」
「大丈夫。昨日、今日休んだけど、明日からは行くし」
「ゴメンね・・・」
「いや、別に大丈夫」
 何に対して”大丈夫”なのか、自分で言っておいてよく分からないが、取り敢えず口から突いて出たので、大丈夫な生活をせねば。
「今ってどこか痛かったりするの?」
「ん~、今は鎮痛剤とか入ってる・・・のかな?・・・体は・・・ちょっと
 重たいけど・・・」
「そぉりゃ、こぉ~んな格好でずうっと寝てりゃ、痛いよりツライだろう
 よ。俺だったら発狂しちゃうね。ツライ時は、“あたしはツライんだよ
 ぉ”って顔してりゃいいんだよ、無理しなさんな」
 お父さんが大袈裟にツラそうな顔を演じながらサラっと言うのを見て、お母さんも張っていた気が抜けたのか、腑の抜けたような掠れた声で、でも笑っている。
 あのおばあちゃんの元で育って、おばあちゃんの入院中のキンキン声でギャーギャーとお母さんが言われていたのを思い出すと、頼りないけど、ツラい時に話を聞いてくれて、ヘラヘラと笑わせてくれるお父さんみたいなのが逃げ場になったのかな~。とは言っても、優しくて思いやりがあって、ツラい時に話を聞いてくれて、楽しい話をしてくれて、しかもしっかり仕事もしていてって男子もいるだろうにな~(憮然)大人って複雑。こういうの考えると、大人になりたくないな~とか思ったり。
 今は4人部屋で全て埋まっているので、普段通りのボリュームでは会話は出来ないが、お父さんのトークは継続。
 何を下らないことを喋ってるんだ、と思いはするものの、寝たままで心身ともに疲弊するかもしれない闘病中のお母さんの様子が、確実に緩和されているのが見て取れる。
 正直、自分は裕子さんと話をするほどお母さんと共通の話もないし、容体は心配ではあるが、”大丈夫?”とか”何かいるものある?”とか、”次どんな治療するの?”など、既に聴取済みのことを”聞く”しかないので、実は少し助かっていたりする。
 裕子さんもお父さんの話を聞きながら笑っているし、“こういう時に役立つお父さんのテキトーさ”なのかも、と少しばかり尊敬してやってもいいか、と上から目線。
 
 新幹線に遅延や何かがあってはいけないからと、お父さんが早めに病院を出ると言う。
 いつもはいないのが当然だが、やはり今みたいな状況ではいないよりいてくれるほうが気持ちは楽。裕子さんがいるので大丈夫だが、何と表現すればいいか・・・お父さんは塩、砂糖、醤油、裕子さんは〇〇の塩、三温糖、出汁醤油、とか?いや、適切な表現が見つからない。あ。お父さんは昔ながらのオムライス、裕子さんはトロトロ卵の乗ったオムライス。違うか。
 それでも、仕事なのだからこれは仕方がない。お父さんは、何かあったらいつでも連絡をするようにとお母さんに伝え、お母さんも軽く頷く。
 お母さんを裕子さんに任せて、お父さんを病院のロビーまで見送りに行った。
「ま、すばるも何かあったらまた連絡して来いよ。すぐには飛んで来れない
 かもしれないけど」
「うん。でもアレだね、お父さんも、いないよりいる方がマシよね」
「なんじゃ、そりゃ!?マシって何だ、マシって」
 お父さんがヘッドロックの真似事を仕掛けてきて、大して痛くもないが、一応”ゴメン、ゴメン”と謝ってみる。お父さんの愛情の示し方なんだろうと思うと、安堵感を覚える。
「も~、髪ぐちゃぐちゃになるじゃ~ん!」
「も~、髪ぐちゃぐちゃになるじゃ~んw」
 お父さんがオウム返しをしながら手を離し、“へへへ~”と笑っている。
 ・・・この感じ、デジャヴ・・・オウム返し、何かあのクソヤジ的な・・・
 ”気のせい、気のせい”と頭を小刻みに左右に振り、思考を払拭。髪の毛を手で大雑把に整える。
「まあ、先生の話でも大丈夫そうだから、後は病院に任せて、勉強、頑張れ
 よ~。宿題やれよ~、風呂入れよ~」
「はいはいはいはい、いつの時代のよ」
 お父さんは時々、昔のバラエティを出してくるので意味不明なのも多いが、昭和の古いものは嫌いではなく、結構覚えやすいフレーズも多いので、いつの間にか記憶してしまっている。眞理子ほどではないが。
「ん。じゃあ行くわ」
「うん、気をつけて」
 お父さんは片手を上げて、ホテルのほうに向かって歩いて行った。普段は”次はどこのお店連れてってもらっちゃおっかな~?♪”とか”お土産楽しみ~♪”とかそんな能天気なことしか考えていなかったが、お父さんの姿が小さくなるに連れそれと比例して、不安なのか寂しさなのかフワッとモヤっとしたものが入り混じったものが大きくなっていく。
 幸いなのは、夕暮れの黄昏時でなかったことだ。周りには人も車も忙しそうに行き交い、時間的に雰囲気が忙しく、何となく感傷に浸らずに済んだ。
 あんな父親でもいてくれた方が心強いと思ってしまう自分、あ~、残念過ぎる。一緒に住むと面倒だけど、自分がお母さんの相手をと言われても続かないけど、お父さんなら可能。何かしら起こった時、未成年で経験不足の自分にはできない対応も、お父さんは最低でも手続きは可能。
 大人になりたくない、けど、未成年でできないこともある。親の離婚から時間が経ち、この生活が続いていくんだろうと漠然と思っていたのに、晴天の霹靂。
 高校を卒業して大学生になって、就職すると自然に大人になるのだろうと何とな~く思っていたのに、突然突きつけられた現実。
 ふと頭を過った、”いつまでも あると思うな 親と金”という言葉。いつ、誰が言っていたのかを思い出そうとしたが思い出せず、その言葉の意味を思い返す。
 毎日いると忘れるけど、親も年を取る。時折、”もう若くないんだから~”と軽口を叩くが、それは”あ~腰痛い””肩痛い”と口を突いて出た言葉に対してのレスみたいなものだ。
 昔のアルバムを見ると、お父さんもお母さんも若く、”若い頃ってこんなんだったんだ~ 笑”で終わってたけど、写真で見る親は飽くまでも昔のその瞬間の記録でしかなく、その写真を見ても実際は自分の中では今の親と紐づかない。毎日が”今”なワケで、今が精一杯で、親が高齢者になったらなんて考えが及ばない。
 でも、或る日突然、こうやって何が起こるか分からないし、今、この瞬間、経験不足の女子高生は、あんなお父さんでも今は傍にいて欲しいと思ってしまう。それでも、お父さんの性格を考えると、今は我慢、我慢。
 お父さんは今現場を転々としているけれどずっと元気でいてもらって、定年年齢になったら、再度籍を入れなくてもお母さんと一緒に暮らすよう提言しようかな。
 お父さんの後ろ姿が消えても、ボーっとしつつ思考を頭の中で整理。漸く整頓が終わったところで、”あ、ペットボトルのお水とお茶”と病室に戻る前に買いに行くつもりだったことを思い出す。
 再びあの重苦しさを感じる病院に戻るべく、”よし”と気合を入れ直し、踵を返してコンビニに向かう。
 
 コンビニによって再度病院に入り、何となく病院を観察してみようと思った。
 あれだけバタバタと時間が過ぎたので、真面に病院内を見ておらず、何処に何があるかも分からない。おばあちゃんが入院していた病院とはまた違うことと、あの頃はまだ小さ過ぎて、院内を見回ったとて意味も分からずだったハズ。
 入口を入ると受付や会計窓口があり、待合の椅子が並んでいる。待合の椅子の前にはTVと、その上には会計の番号が出るモニター。奥の方に売店や自販機、それを購入して飲食ができるようにか、テーブルと椅子が幾つかあり、ソファー、公衆電話。TV用のカード購入機も置いてある。
 そこを曲がると、検査室というのが並び、これ以上先には行ってはいけないような気がし、元に戻ってエスカレーターを上る。
 エスカレーターを上がると、内科、血液内科、消化器内科、産婦人科、小児科と並び、更に奥にも続いていて、これ以上先に進んだとて、いろんな科の診察室が並んでいるだけであろうと判断し、引き返してエスカレーターで階下に下りる。どうやらこの1階、2階に外来の診察室や検査室等が集約されている様子。
 その科を見れば概ね何を対象としているのかは理解できるが、詳細は分からない。興味深い。
 1階の柱に掲げてある科を見ると結構な数の科があり、今まで自身が殆ど入院施設のある病院と全く縁がなかったので、じっくり見るのは初めてで、こんなに細かく分かれていることも初めて知る。
 ある満足したところで、外来とは別の病棟行きのエレベーターに乗り、お母さんの入院している病棟へ向かい病室に戻った時、丁度検査のためにこれから移動をするという状況だった。
 しまった!携帯見てなかったけど・・・裕子さんからLINK来てるっ!
 LINKに、これから検査に入ること、掛かる時間が不明なので、お母さんから帰宅を促されたことが打たれている。
「そっか!」
 いそいそとペットボトルの水は冷蔵庫に入れ、お茶は裕子さんと自分の分として購入したが、飲む時間がなかったため、そのまま持って帰ることにした。ゆっくり見回り過ぎたことを少し後悔。
 お母さんを見送り裕子さんと病室を出て、家から自転車で裕子さんの家に行くことを伝え、自分の家の下で下ろしてもらうことにした。
 自転車だけ取って行けばいいか、と思っていたが、もう少し着替えも持って行こうと思い、結局家の中に入ることにした。
 鍵を開けてドアを開けると、何だかんだで全く家を空けているワケではないが、何だか空気が違い、雰囲気が違って見えて、自分が住んでいる家という感覚からやや距離を感じる。不思議だ。
 家に入り、一番気になったのはキッチンの横のTVのある部屋で、そこのソファーにお母さんの吐血の跡が残っているハズ。それを見ると、あの映像を思い出して動悸が起きそう、と頭のどこかで思いつつ、もう一度確認したい気持ちも同時にあり、こういう時は”怖いもの見たさ”が勝ってしまい、後悔するタイプの自分。
 そしてその後者が勝者となり、恐る恐るソファーの方に近付く。近づくに連れ、心臓の鼓動が早くなり、”今血圧や脈拍を図ると、自分、倒れそうな状態かもしれない”などと思いながら少しずつ距離を縮める。
 もうすぐ見えそう、というところで目を閉じてしまい、まだ心の準備ができていない自分に気が付く。こういう時、徐に目を開けようと一気に目を見開こうと結果は一緒だが、心の準備のスピードに合わせ衝撃を緩和している、というところか。
 取り敢えずは首を伸ばし、薄目でソファーを確認しようとするが、思うようにな薄目にならず、自分で決めたにも関わらず先に進まず。恐らく、途轍もなく残念な顔になっていて、CUになぞ絶対見せられない。
 これでは埒が明かない、と心を決め、もう少し目を開くことを試みると、ソファーの背凭れの上の方が目に入る。
 当然のことながら次第に眼筋が疲れてきて、自分で自分に”いい加減にしろ”とツッコみを入れ、腹を決めて少しずつ視線を落としていく。
「ん?あれ?」
 目を見開いて近づくと、吐血の跡が消えている。
「ん?ん?ん?これは・・・」
 あ、もしかしたら裕子さんと荷物を取りに来た時に、裕子さんが拭き取ってくれた?????
 キャメル色の小さいソファーは、紛れもなくキャメル色一色で、赤や茶色といった余計な色が付いていない。更に近寄って見てみても、吐血跡はすっかりなくなっている。
 自分でも驚愕の安堵。思わず力が抜け、座り込んでしまった。漫画で表現するところの”ヘナヘナヘナ”といったところか。
 暫しボーっとしてしまったが、中途半端に家を出た上に、少しの間裕子さんの家にいるのであればと、冷蔵庫の中、お風呂、洗濯機の中などが気になり、チェックし回った。
 野菜庫の中の野菜は少なかったので良かったが、置いておけば悪くなるので裕子さんの所へ持って行くことにし、冷凍できる物は全て冷凍庫に詰め込んだ。
 お風呂は湯舟から水を抜き、窓を開けて空気を通して一旦掃除をすることにし、洗濯機の中も気になり、外に干すと入れる為に帰宅するという作業が増えることを避け、洗濯をして家の中に干してから裕子さんの家に行くことにした。
 お風呂掃除を終え洗濯機を回し、一旦休憩と携帯を手に取り、LINKに着信数が表示されているが、まずは裕子さんに現状を伝え、終えてから家に行くことを伝える。
 裕子さんから、それであればゴミ袋が満杯でなくても、一旦ゴミ袋をマンションのゴミ集積所に捨てておいた方が良いと提案。確かに。
 このマンションは古いが、ゴミの日に出さなくても、集積所にいつでも捨てておけば、収集日に収集車が来てくれるので、普段は何も思わないが、それは有難いことだと今は実感する。なぜなら、ゴミ捨ての日にしか捨てられないとしたら、ゴミの日に裕子さんの家から駆け付け、出しに行かないといけなかったということだ。
 ゴミはまた後にすることにし、冷蔵庫の中のあと少し残っているどくだみ茶をマグカップに入れ、レンジで少しだけ温めて、再度椅子に座って休憩。
 Mutterはまたあとにし、とりあえずLINKをチェックする。
 眞理子、千華、琴乃、りーちゃんと、労ってくれる言葉と、今日の授業のノートの画像が送られて来ている。本当に有難いし、自分にもこんな風に気に掛けてくれる友達ができたということに感動しきり。
 ヤバい・・・寂しくて震える感覚は分からないが、嬉しくて震えるってこんな感じか!?
 眞理子たちのグループリンクに返信し、りーちゃんに返信し、お父さんからのLINKを開くと、『医者が褒めとったぞ』とだけあったので、何のことかとLINK電話を掛ける。
「おう、何だ」
「何だじゃないよ。何”医者が褒めとったぞ”って。さっき何も言ってなかっ
 たじゃん」
「お~、言うの忘れててな~、ハハ」
「いやいやいやいや、忘れて~、じゃなくて、何を?」
 お父さん曰く、吐血した後の素早い対応だったということと、担当ナースからも、吐血をしてそのまま時間が経過し過ぎてしまうと、最悪は出血性ショックで死亡をしてしまうケースもあるとのことで、迅速に対応したことを褒めていたということだった。
「え、そんなの早く言ってよ~」
「悪い、悪い。取り敢えず、よくやった、ということだ」
「な~んか軽いよね~」
「ワシはいつもこんなん」
「知ってる。次いつこっち来るの~?」
「今度行けるのは、お母さん退院した後になるかな~。また何かあったら連
 絡くれ~い」
「うん、分かった」
 我が父親ながらこの軽い感じ・・・(苦笑)でも、このぐらいの方がこちらの気持ちも楽なのかも、と思わないでもない。
 しかし・・・や~ん、対応褒められるとか、嬉し過ぎなんだけど~ん♡
・・・でも、と言うか、何したか覚えてないし、裕子さんに電話したことと、救急車が来てお母さんが運ばれていったのは覚えてる。
 実は医師もナースさんも勘違いをして、裕子さんがしてくれたことを自分がしたと思っての言葉かもしれず、手放しでは喜べない。
 暫し記憶を呼び起こそうとするが、どうしても所々すっぽりと抜け落ちており、思い出せない。どれだけ唸ってみても、どれだけ絞り出そうと思ってみても、全く何も出て来ない。断念。
 あ、洗濯物終わるまでに、もう一式着替え準備しておこう。そういやオッサン、元気なかったな~。流石に事が事だったから、あんなオッサンでも多少遠慮したのかな~。だったら、暫く大人しいかも?な~んてね。そんなワケないかw まあ、鉛筆立て倒すとか、消しゴム飛んでくるとか、まあ慣れたし。って、慣れたらダメなヤツなんじゃないの!?暴力よ、暴力!
 自分の部屋に向かい、扉に耳を当てて耳を澄ます。何も音もしない。声もしない。ただ聞こえないだけなのか、オッサンが大人しいのかは不明。
 勉強や真面目に考え事をしている時はオッサンは出て来ないので、今はどちらかというと出て来ない時?だろうと信じたい。
 扉から耳を放し、そろ~っとドアノブを回す。更にそろ~っと扉を開けて、隙間から見える感じは特に何もない。が、ここでホッと溜息を吐くことはまだできない。
 更に扉を開けて部屋に入り、部屋を見渡してホッと胸を撫で下ろし、”さあ”と持って行く着替えの準備を始める。
 すると、大音量の音楽が突然鳴り出し、誰の何の曲かも判別がつかないぐらい大音量で耳が痛い。
 ヤバい、ヤバい、ヤバい!これは・・・
 耳を押さえながら頭を抱えていると、いつの間にかポケットから落ちたとみられる携帯が目に入り、CUの曲が画面に出ているものの、音をMAXにしていて何も聞き取れない。
 この服装で携帯が落ちるとは思えず、明らかにオッサンが引っ張り出して、音量MAXにして嫌がらせをしている。ああ、なんと言う・・・
 耳を劈くような音量を何とかとめないと!で、必死で携帯を拾い、音楽を止めて音量も下げる。これではいくらCUであっても、”彼らの曲だから~♪”で聴けるレベルではない。一体、何のためにこんなに大きいボリュームが利用できるようなものを搭載しているのか?
⦅んなもん、意味なく搭載してるワケないやろ、ハゲ⦆
「はあ!?何なの一体!!」
⦅お、えらい威勢ええやんけ⦆
 何言ってんのか、わからんワイ!
⦅何が”褒められるとか 嬉し過ぎなんだけドーン♡”やねん。誰のお陰や思て
 んねん。記憶ない、やと!?今から思い出さしたるわ!⦆
「え・・・誰のお陰?ということは・・・オッサン?」
⦅ほうや、ほうや、ほうや!忘れたとは言わさへんど!耳の穴かっぽじって
 よく聞け、カスー!⦆
「カス・・・」
 ちょっと日が開いただけで、”カス”も結構な衝撃・・・すばるはライフが20減った。
⦅アホちゃうん⦆
 ”アホちゃうん”がマイルドに聞こえる(泣)
 
 机の椅子に座り、何故か説教される前のような気分。他の人にはオッサンは見えないワケだから、傍から見たら、恐らく自分がただ椅子に座り、じーっとしているだけの図。
⦅説教ちゃうわ。よく聞け⦆
 その時の状況はテンパり過ぎて記憶が抜け落ちているので、取り敢えずは聞くことにしたが、きっとその間に”アホちゃう”とか”カス”とかいろいろ入って来るんだろうな、という心構えをする。
 予想通り、オッサンは弾丸のように捲し立て、関西弁でもあるので途中何回も聞き返しては”はぁん⁉”と何だか凄まれるを繰り返し、何とか聞き取った。流れはこうだ。
 お母さんが倒れたのを発見し、テンパりながらも部屋に戻って携帯を取りには来た。にも関わらず、自分は携帯を持ってオタオタしていたので、オッサンが”119や”と何回も言い、それでやっと119を押して電話が繋がった。
 向こうから聞こえる質問にもまともに答えられていなかったので、オッサンの声をなぞるように回答していった。
 お母さんの状態を聞かれ、扉の横にある椅子のある場所にしかオッサンは出没しないが、何でも、Blu-rayレコーダーなんかを収納している台の上に置いてあるサンスベリアにオッサン仲間がいるらしく(オッサン曰く、仲間じゃないらしい)、それがお母さんの一部始終を見ていて、電話向こうの質問に全部答え、それを自分が復唱していったそうだ。
 言われても、声が聞こえていたか否かは全く思い出せない。ただ、自分は冷静ではなかった自身があるので、恐らくオッサンの話は正しいのだろうと思う。
 とは言え、この家にオッサン以外の意味不明物体がいるということに驚愕。オッサンだけでもお腹いっぱいなのにまだいるのかと思ったが、オッサンに、”物事を知らな過ぎる”ということをこれでもか!というぐらい捲くし立てられた。ぐうの音も出ず。
 そして、裕子さんに電話をするよう促したのはサンスベリアの何かで、そのサンスベリアの何かにパジャマから服に着替えるよう促され、部屋に戻って右往左往していたところを、オッサンが”制服でええやんけ”と言ったので制服だったようだ。更に、お母さんのカバンと保険証その他諸々もオッサンの誘導だったらしい。
 ここまで来ると、自分で考えてやったことと言えば、救急車を呼ばなければと携帯を取りに部屋に戻ったことだけか、と。
⦅何言うてんねん。救急車呼べ言うたんもアイツや⦆
 話の流れで、オッサンの言う”アイツ”は、サンスベリアに憑りついてる何かだということは理解できた。
⦅”憑りついてる”とか、恩知らずか、オマエは⦆
 ”憑りついてる”ワケではないのか。言葉のチョイス。
 結局、携帯を自分の部屋まで取りに行ったのも誘導によるもので、自分だけでは何一つできなかったということだ。何とも使えない自分に、意気阻喪。
⦅な、分かったやろ~。感謝してもらわなw⦆
 確かに。裕子さんが来てからは裕子さん任せで、気付いたら病院にいて、その前はオッサンとサンスベリアの何かのお陰でお母さんは助かった。自分一人だったら、救急車を呼ぶのも裕子さんに連絡するのももっと遅れていたに違いない。こればかりは・・・
「うん・・・ありがと・・・」
⦅え?うわっ、きっしょ!⦆
「はあ⁉あんたが感謝しろって言ったんじゃん!」
 流石に、”きっしょ”が”気持ち悪い”ということだというのはすぐにわかるようになった。嬉しくはないが。
⦅いやいやいやいや、オマエが素直とか、きぃっしょ!いっつも”はあ⁉”と
 か”バッカじゃないの⁉”やのに、天変地異起こるんちゃう⁉⦆
 う~ん、感謝しろと言ったり茶化したり、何なんだ、このオッサンは・・・いや、取り敢えずサンスベリアにお礼を言いに行こう。
 オッサンが何やらこちらを挑発するような動きをしているが、どうせこの部屋からは出られないワケだから、放置してTVのある部屋に向かった。
 最初の一週間は、学校が終わると塾の日以外は自転車で病院に向かい、裕子さんの家でお世話になった。
 一週間経ち、お母さんの容体も良くなっていっているのが見えたこともあり、家から学校に通うことを提案した。
 一人だから洗濯物は毎日しなくてもいい、掃除も別に毎日しなくてもいい。お風呂だけはどうしても湯舟に入りたいので、掃除をしないワケにはいかないが、それぐらいは問題ない。ご飯も炊いて小分けにして冷凍しておいてチンすれば毎日炊かなくてもいいし、お味噌汁はインスタントでもいい。冷凍庫に作り置きもあるのでそれで凌げるし、スーパーに行けば何でも売っている。
 裕子さんも健一おじさんもかなり心配してくれたが、何かあればすぐ連絡するというところでお母さんからも了承を得た。
 学校に行くと眞理子たちが心配して気を遣ってくれて、疲れてウトウトしてしまっていたがノートの画像を送ってくれたり、りーちゃんも心配してくれて差し入れを持たせてくれた。裕子さんのところに英語の勉強に行った時も、帰りにお惣菜を持たせてくれた。
 お弁当は夕食を食べた後すぐ、大量に炊いた粒麦と半々小分けして冷凍していたものを解答し、おにぎりケースにラップを敷いた中に入れて作っておき、弁当箱にプチトマト、お母さんが作り置き冷凍している惣菜を二種類ほど入れて冷蔵庫に入れておいた。
 自分でも簡単には調理をしたし、作り置きといただき物で何とかやっていけた。お惣菜を買えば早いが、一度買ってみたもの、何となく味付けが濃く、野菜系の惣菜は量が少なく、結局はブロッコリーをチンした物や、ピーマンをレンジでお浸しの方が食べ慣れていて美味しく感じた。
 初めてインスタントのお味噌汁を買い込んでみたが、やはりお母さんが作る物とは違うので、味も具も何となく物足りない感は否めないが、かと言って朝自分で作る時間はない。ので、乾燥ワカメを買って来て入れることにした。
 それよりも、インスタントという物が多くの人々の手により改良が加えられ、人々の食と健康を助けているのだと、味わいながらしみじみと感じた。
 発見もある反面、日々次第に冷蔵庫、冷凍庫の中からお母さんの作り置き惣菜が姿を消していく。何時もあって当たり前だった物が無くなっていき、冷凍室の扉を開ける度に一つ、また一つとタッパーを出しガランとしていく様子に、漠然とした不安なのか寂しさなのかよく分からない感情が湧き上がる。流石にお母さんの作り置き惣菜のレシピは知らないので、作り足していくことが出来ない。
 更に、学校に通いながら勉強しながらそんなに家事がプラスされた感はないのに、CU情報をチェックする時間が確実に減っている。確保できないというよりも、寝落ちしてしまっているのだ。
 仕事をしながら作り置きもしながら毎日食事を作り、その他の家事もこなしているお母さんは簡単にこなしているのかと漠然と思っていたが、手馴れていないことを差し引いても、塾や帰宅後の勉強時間を差し引いても、何となく精神的に時間に追われる感。
 胃潰瘍というのはストレスによるものも多いとネットで見たが、それもストレスの一つになっていたのだろうか。
 もっと簡単にできるだろうと思っていたが、こういうのを“愚案”と言うのだろうと、何時ぞやに現国担当の教師が言っていたことを思い出しながら、洗濯物を干す。
 お母さんが退院したら、もうちょっと家事手伝お・・・
 部屋では相変わらずオッサンが時折暴れるが、以前は転寝をすると鉛筆立てを蹴り倒していたものの、このところは寝落ちをしてもそれがない。
 以前は、洗濯物を畳みはしたものの、オッサンの椅子の上やベッドの上に洗濯物を置きっ放しにしていると、どうしたらそんなことができるのかと首を捻りたくなるような形に置かれていたが(靴下がドーナツにされていたり、Tシャツを椅子にすっぽりかけて引き伸ばされていてる。小さいおじさんの他に協力者がいるんじゃないかとさえ思う)、家に戻って二回ほど置きっぱなしにしてしまっていたが、そのままになっていた。
 逆に、朝は目覚ましを止めて二度寝しそうになると、眉毛や耳を引っ張られたり、何かが顔を這う不快さ、引っ張られる痛みとで飛び起きる。
 本来ならば起こして貰っている訳なので感謝すべきであるが、如何せん方法に問題があるため怒り心頭。
 そして、オッサンには思ったことが勝手に伝わってしまうので、調理の味付けがいまいちだったと思ってしまうと、普段手伝っていないので自業自得だと嫌味を言われ、疲れて入浴を朝にしようと思うものなら只管“くっさー!”を連呼され、結局夜のうちに入浴を余儀なくされる。
 頭では分かっている。学校の実技・家庭科で料理はするも、じゃあ、家で頻繁に料理を手伝っているかと言われればそうではない。入浴も、朝は何時もより早く起きなければならないし、今の季節、多少汗もかくのでそのまま寝るのは決して気持ちのいいものではないし、母親からは髪の毛をいい状態で保つためには夜に入浴と散々言われ、そうなると早く入るに越したことはない。
 形は違うが、オッサンの嫌味や悪行は理に適ってる。適ってはいるが、言い方だよ、やり方だよ、それがいちいち気に障る。
「ねえ、もうちょっとやり方あるじゃんさあ」
⦅“もうちょっとやり方あるじゃんさあ”って、あらへん、あらへんw オマ
 エの体たらく棚に上げて何ぬかすw 大体なあ、わしゃ、やっさしぃで?
 これでも、やさしぅやっとったってんねん 笑⦆
 ・・・ムカつくわ~~~~~~
⦅お前がムカついても、痛くも痒くもおまへんなあ 笑⦆
 オッサンが机の上で、ワザとらしく全身を掻き毟る真似をしている。何とも憎たらしいというか、このイラつきをどう表現すべきか。
⦅ほんでオカン、いつ出所してくんねん?⦆
「退院ね!」
⦅わかっとるがなw⦆
 あの、”ほうか”だけを呟いていたオッサンはどこへ行った⁉
⦅お前、日本語わからんくなったんけ?いつやねんって聞いとんねん⦆
「・・・来週の水曜」
⦅お~、良かったやんけ。まあ、しばらくは今までみたいに動かれへんやろ
 からな~、しっかり手伝ったりや~)
「わかってるって」
⦅わかってるってw⦆
 フン、人を小馬鹿にするのだけは天下一品よね。
⦅おおきに~⦆
 オッサンが科を作って返すのを見て、対峙するのを諦めた。
⦅ワシに勝とうなんざ、百万年と三百六十五日早いっちゅうねんw⦆ 
 ・・・それ、百万年と一年でいいじゃん。
⦅お~!お前、思ったより頭ええやんw てゆーか、まあ、オカンも更にオ
 マエにストレス与えられたら、えらいこっちゃやで⦆
「はあ?」
⦅おっこわ~w⦆
 カニ歩きで左右にちょこまかと歩き始めるオッサンを前に、再び溜息を吐いて頭を垂れ、お風呂に入ろうと椅子から立ち上がる。
⦅まだ湯ぅ、入ってへんでぇ⦆
 ・・・はいはい、さいですね~。
 お湯を張る間、ここにいるよりあっちにいる方がマシだと思い、着替えを持って部屋を後にする。
 これが原因で、自分も胃潰瘍になったりしないよね~(汗)
 
 いつもは自転車で結構な距離を走り抜けて病院に着くが、今日は日曜日で、裕子さんも一緒に行くということで車に乗せてくれた。有難い。
 自転車だと分からないが、午後に行くと道路も駐車場も混むそうで、午前中に面会に行った。それでも病院に近い方の第一駐車場はまあまあ車が停まっていて、今日は診察がない日なので、殆どは面会なのだろうと予測が立つ。
 お母さんがこの病院に入院してから、駐輪場や駐車場から歩いていると時々高齢者に声を掛けられ、入院病棟はどこかと聞かれる。普段、外を歩いていても誰にも声を掛けられることがないので、他にもいるのになぜ自分?と思うが、病院に来ると足取りが重くて歩くのがゆっくりだから声を掛けやすいのか?
 兎にも角にも、入り口が二つあるのが悪い。そして、もっと分かりやすく表示すべきではないのか?と思うが、まあ、こちらとしては教えるだけでいいことをした気分にはなるので、別に困っているワケではない。
 今日もまた、裕子さんの”先行っててくれる?すぐ行くから”という言葉通りに歩いていると、同様に聞かれた。
 大体は女性で、一昨日も何だか品の良さそうな、オールシルバーのオカッパの女性だった。豪邸の広いリビングで、お紅茶をいただきながら横に座る毛の長い高そうな猫を見て微笑む、みたいな感じ。
 で、また今日は、白髪多めのメガネを掛けた、スーツを着た男性。学校の校長先生というよりは教頭先生的な?(笑)こんな日曜日にスーツとは、家族のお見舞いではなく、会社とか何かのってとこですかねー。
 そして、人に言うことでもないけど、今日も一つ小さな良いことをした気分でお母さんの病室に向かう。お母さんが回復していることを実感しているから、こんな下らないことを考える余裕ができたのだろうと思う。
 そして更に、今日はお母さんの退院の日が決まったと聞き、安堵。通院は必要であるも、取り敢えず退院できることになったことは大きい。
 会社の人と話をし、最初は時短で様子を見て仕事に復帰することになったそう。システムがどうなっているかよく知らないが、産休明けの人や病み上がりの人に合わせた形を考えてくれる会社なんだそうだ。それが一般的なのだと思っていた。
 小学生の時、学校の先生で子どもができた先生は、”産休に入ります”宣言をすると別の先生がピンチヒッターで最後まで担任をやってくれていたし、そんなものだと思っていた。
 世の中は産休明けでも病み上がりでも、即元の状況に戻ることを求められる職場もあるそうな。まだ痛みもあるようだし、今でも体を起こすのに入院前よりゆっくりなのに、即仕事に戻ってもきっと動きはゆっくりで、それまで通りのスピードで仕事ができるとは思えない。
 そういうのを聞くと、自分がいつか就職する時は、福利厚生とやらをしっかり理解してでないと、恐ろしいことになりそうだ。
 お母さんと裕子さんが話をしているのを横で聞きながら、その話からいろいろ頭の中でこれからのスケジュールややることなどを整理する。
「お金、足りてる?」
「うん、まだ大丈夫」
「遅刻せずに学校行けてる?」
「うん、取り敢えず」
 苦笑気味。来る度聞かれるが、仕方ない。まさか、オッサンに攻撃食らいながら起きてるとか言えない。というか、言っても頭オカシな子と思われるのが関の山。
「あ、会社の人がお見舞いに来てくれてね、焼きプリン貰ったから食べた
 ら?」
「プリン?」
 母親が冷蔵庫を指差したので開けてみると、その箱に釘付け。
「え、え、え、『Aimavble(エマーブル)』の焼きプリン!!何これ、すご
 過ぎ!」
「何、有名なの?」
「有名も何も、数量限定だし、高校生が手を出せる金額じゃなあい!」
「あんた、そういうの好きね。て言うか、そんなに高いの。何か申し訳なか
 ったなあ。まあ、取り敢えず食べたら?」
「うん、うん、うん!!」
 思わず携帯を取り出し、プリンの入った箱、箱を開けた上からのアングル、プリンを取り出してそれと分かるアングルで画像を撮り、一瞬LINKのTLに上げようとしたが、お母さんが倒れてそのお見舞いとして頂いた物を喜ぶってどうよ⁉と、CUファンの自分が囁き、画像を保存するのみに留めた。
 4つあったので裕子さんにも勧めたが、”これはすばるちゃんとお母さんへのお見舞いだから”と断られた。今の自分、大人になった時にこんな風に断れる自信ナシ。
 1個750円のその焼きプリンが絶賛される理由を味わいながら、脳の働きが落ち着き、体中がリラックスするのを感じる。
「おいひぃ~♪」
 美味しく感じるのも、お母さんが治ってきてるからだよね~、などと思いながら、プリンが減っていく寂しさ以上に、口の中の多幸感を味わう。
「ホントに良かった~」
「何が?」
 思わず口を突いて出た言葉にそんなに意味はなかった気はするが、お母さんの“何が?”と聞いたのに何の意味があるのかと超高速で頭の中で考える。何か気に障ることを言ってストレスなぞ与えて、胃潰瘍をぶり返されたらたまったもんじゃない。
 ルーレットのように頭の中を駆け巡るいろんな言葉や映像と、どこでストップをかけるか・・・
 お母さんの”何が?”に返す時、判断のつかない地雷を踏んだり、自分で手榴弾を投げることになることがあるが、今のこのやや弱っているお母さんに関しては、これまでと状況が違い過ぎて正解が分かりにくい。
 そうなるともう出たとこ勝負。裕子さんがいるし、病院なので、ここでプチ切れることはないだろうと思いたい。
「うん、お母さんの退院が決まったから、プリンも普通に味わえるなと思っ
 て」
「そう・・・心配かけてごめんね」
 おっと、何だかフツーに謝られると不気味。というか、慣れないというか違和感というか、何か居心地悪い。取り敢えずこの空気から早々に抜け出そう。
「お母さんは、このプリンはもうフツーに食べれるの?」
「そうね。ゆっくりだけど」
「それは良かった」
 一瞬シーン。正直、お父さんと違って、お母さんに対しては何もないところから何か話しネタを持って来るのは結構難しい。何が地雷になるか分からないし、普段の生活を共にしているから発生する会話も、今目の前に特に共通の話題もないし、実は下らない話や会話はお父さんのほうが普通に出来たりする。
「ちょっとトイレ行って来る」
 この”ちょっとトイレ行って来る”というのは、なんと便利な言葉なのだろう、と思いつつ、一旦病室を出る。
 とは言え、別に本当に行きたかったワケではないし、自分だけで来ていたら適当に帰るが、今日は乗せて来てもらったので、裕子さんのタイミングを待たねばならぬ。
 まあ、お母さんの退院も決まったというところで、自分でも驚く程の安心感を得たと思われる。でなければ、ちょっと目を離した隙に容体悪化した、などということが起こったら⁉と思うと、そんな容易に離れるなんて気持ちになれなかった。
 気分が変わると、重苦しく感じていた病院の中も、何となく空気が軽くなったような気がするから不思議。
 トイレで髪の毛などをいじってから病室に向かい、病室の入り口に着くと、ヒソヒソと話をする声。
 現在4人部屋には3つのベッドが使用中で、そのうちの1つは窓際のお母さんのベッド。他の2つは今特に来客がないので、このヒソヒソ声はお母さんと裕子さん。
 さっきも周りに気を遣って声は小さめにしていたが、それより更に小さく、これこそ”ヒソヒソ”と言わんばかりの小ささ。
 何の話をしているのだろうと思いつつ、驚かしてやろうという気持ちも相俟って、そろそろと忍び足でベッドに近付く。
 が、近づいて耳を澄ましても何を話しているのかは聞き取れずで、更に聞き耳を立てるが、やはり聞き取れず。
 業を煮やし、思わず”何の話ぃ?”と言うと同時にカーテンを少し除けると、2人ともこっちが驚く程驚いていた。
「そこまで驚かなくても」
「もう、心臓に悪いよ~、すばるちゃん」
「そんなに驚いたんだw」
「お母さんは病み上がりなんだから、家でやっちゃダメだよ?」
「あははっ」
 裕子さん、大丈夫。裕子さんがいるからやっただけで、お母さんだけならやらない。そういうの、笑ってスルーできるタイプじゃないから。ほら、お母さんの微妙な顔~。
 怒ってはないけど、何だか大きなため息吐いてるのは、やっぱり病み上がりで心臓に悪かったからか?いや、胃は心臓とは関係ないから、傷口痛んでしまったか?だとしたらスイヤセン。
 あっという間に退院の日になり、自分が学校に行っている間に裕子さんが迎えに行ってくれるとかで、久々に家から帰り、外から家を見ると電気が点いていた。
 たった1週間とは言え、偶にお母さんの方が帰りが遅いのとは違い、連日、帰宅しても電気が点いていなくて、何だかうら寂しい感じだったが、点いていると安心するという・・・
 これが自分から望んで始めた一人暮らしだったらそこまで感じないのかもしれないが、突然お母さんが入院するという形で突如始まったことだったし、裕子さんのところにお世話になっていても良かったかもしれないが、1泊ならともかく、やはり何日もとなると何だか気を遣っている感が否めず、自分で戻ったワケで。
 CUの曲にも、”明かりは〇〇の証”な~んて歌詞があるけど、奇しくもこんな形で意味を実感するとは・・・窓の明かりは、誰かがいるとか、誰かが待っているというのは、安心感ってやつか~。
 お母さんは裕子さんみたいに何でも話せるフランクなタイプでもないし、健一おじさんみたいに温室みたいなタイプでもなく、お父さんみたいに、くだらない会話でバカ笑いできるタイプでもない。けど、自分の母親、というよりも、ナンダカンダでずっと生活してきた人、だよな~。
 いたら鬱陶しいこともあるけど、突然いなくなると、それはそれで・・・人間の感情って複雑、などと思いながら、気付いたら自分の家の階にエレベーターが着いた。
 取り敢えず暫しの間はこの感覚があるし、お母さんの体調が万全になるまでは、穏やかに、波風立たずに過ごせるだろう、と思う。
 あ、波風どころか雹や霰降らすようなのが毎日部屋にいたか。ま、そこは置いておこう。
 鍵を開け、ドアノブに手を掛けると、やや緊張している自分に気付き、ヲイヲイ(苦笑)と思わずツッコむ。大きく深呼吸。
「ただいまー」
 おっと、こんなお母さんに聞こえるように”ただいま”なんて言ったのはいつぐらいぶりだろう。まあいいか。

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