【書評#1】一つの町と家族の来歴が照らす歴史の深層(赤尾光春)/『ウクライナの小さな町』
■かつて東欧に点在したユダヤ人の町「シュテットル」
現在のウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、リトアニア、モルドヴァ、ハンガリーなどの東欧一帯には、かつて住民の大半がユダヤ人であった小さな町が点在していた。こうした「ユダヤ人の町」が分布した広大な領域は、11世紀から18世紀までヨーロッパの大国であったポーランド王国(16世紀後半以降は「ポーランド・リトアニア共和国」)の版図とほぼ重なり、18世紀末のポーランド分割以降はロシア帝国とハプスブルク帝国(後のオーストリア゠ハンガリー帝国)に二分され、第一次世界大戦以降には新たに独立した東欧諸国とソヴィエト連邦の一部となった。そして、第二次世界大戦の最中にナチス・ドイツに占領され、ホロコーストの主要な舞台となったのが、他ならぬこの地域である。
住民の過半数ないし大多数がユダヤ人であった東欧の町は、ユダヤ人のあいだで「シュテットル」(shtetl/shtetlekh)と呼びならわされてきた。シュテットルはイディッシュ語の「町」“shtot“の指小形で「小さな町」を意味し、ポーランド語で“miasteczko”、ウクライナ語で“містечко(mistechko)”、ロシア語で“местечко(mestechko)”と呼ばれることもある。
中世末期から近世にかけて中欧の諸都市に築かれたゲットーが劣悪な地区に高い塀で隔離された強制的な居住空間であったのとは対照的に、定期的に市(いち)の立つ広場を中心に同心円状に広がったシュテットルでは、ユダヤ人の住居とユダヤ教の施設(シナゴーグ、ヘデルやイェシヴァなどの学習施設、沐浴所など)が町の中心部に集中する一方、その大半が農民から成るウクライナ人やポーランド人は町の周縁部や郊外に集落を形成する傾向にあった。
こうしたシュテットルにおいて、ユダヤ人はいわば町の主役であり、そのため「我々の町」という郷土意識も発達しやすかった。ここではイディッシュ語が事実上の「公用語」となり、片言のイディッシュ語をしゃべる「異教徒」すらいた。ユダヤ人が居住地でマジョリティを占めるケースは長い離散の歴史でも他に例がなく、こうした特殊な社会的環境が東欧ユダヤ人に特有の安定したアイデンティティの形成につながったとも言われている。
■シュテットルのイメージ形成と研究史
シュテットルのイメージは、マルク・シャガールが生涯描き続けた故郷ヴィテプスク(現在はベラルーシ領)の空間がねじ曲がったような街並みと、ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』(原作はイディッシュ作家ショレム・アレイヘムの『牛乳屋テヴィエ』〔西成彦訳、岩波書店〕)で悲喜交々の人間模様が繰り広げられるアナテフカの二つに代表される。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、都市部へと殺到し始めたユダヤ人が近代化の荒波に揉まれる中、シュテットルは、貧困、後進性、伝統のしがらみなどを喚起すると同時に、郷愁を誘うアットホームな空間として、アンビヴァレントなイメージを伴って表象されてきた。そして、ホロコーストによってユダヤ人住民のほとんどが殺されて不在になって以来、シュテットルは半ば聖化された神話的な空間として、東欧・ロシアにルーツをもつユダヤ人にとってアイデンティティの主要な源泉となってきた。
シュテットルのこうした理想化を後押ししたのは、東欧ユダヤ人の生活における倫理的側面を強調したアブラハム・ヨシュア・ヘシェル の『大地は主のもの』(The Earth is the Lord’s, 1949)や、シュテットルの文化を他者の視点から文化人類学的に再構成したマーク・ズボロウスキとエリザベス・ヘルツォーグの『人々とともにある生活――シュテットルの文化』(Life is with People: The Culture of the Shtetl, 1952)のような古典的な著作である(後者は、著名な文化人類学者マーガレット・ミードが序文を書いている)。いずれも失われたシュテットル文化の復元と復権を求めて戦後まもない時期に書かれたものであり、ユダヤ人共同体の有機的な一体性を前提とした描写は、多かれ少なかれ本質主義的なシュテットル観に支えられていたと言える。
これに対して、2000年代以降には、従来の理想化されたシュテットルのイメージを相対化し、その虚像と実像を見極めようとする著作が続々と刊行された。近代ユダヤ文学におけるシュテットル像の創造過程を詳細に分析したダン・ミロンの『シュテットルのイメージと近代ユダヤ文学の想像に関するその他の研究』(The Image of the Shtetl and Other Studies of Modern Jewish Literary Imagination, 2000)や、シュテットルの神話的イメージと実際の社会的現実とのギャップを浮き彫りにした季刊誌『ポリン』(Polin)のシュテットル特集号(The Shtetl: Myth and Reality, 2004)と論集『シュテットル――新しい評価』(The Shtetl: New Evaluation, 2007)がその代表例である。
■二つのシュテットル論とユダヤ・ポーランド関係の溝
一連のこうした批判的なシュテットル論に先立ち、1990年代末に相次いで刊行された二つの著作が、ユダヤ人社会のみならず、ポーランド社会にも反響を呼んでいたことは特筆に値する。その一つが、2019年にみすず書房から刊行されたエヴァ・ホフマンの『シュテットル――ポーランド・ユダヤ人の世界』(小原雅俊訳、原題:Shtetl: The Life and Death of a Small Town and the World of Polish Jews, 1997)である。
ホフマンの『シュテットル』は、16世紀後半という比較的遅い時期にユダヤ人が居住し始めたブランスクという町を通したユダヤ人とポーランド人の葛藤に満ちた「共生」関係をめぐる歴史哲学的考察である。1996年にアメリカのテレビ番組『フロントライン』(Frontline)で放映されたドキュメンタリー作品『シュテットル』(Shtetl、マリアン・マジンスキ監督)に触発されて書かれた同書で、ホフマンは、ポーランド人とユダヤ人の共存の歴史を「この用語が現れる以前の多文化性の長い実験」と捉え、ホロコースト以降に顕著となった両当事者間の記憶の深い分断を乗り越えるためにも、複雑で決して一様ではなかった歴史的軌跡を丹念に辿り直すことが不可欠であると訴えた。
一方、ホフマンの著作の翌年に刊行されたヤッファ・エリアハの『かつてあった世界――シュテットル・エイシュショクの900年の年代記』(There Once was a World: A 900-Year Chronicle of the Shtetl of Eishyshok, 1998)は、ポーランド人歴史家とのあいだで論争の的になったことで知られる。
1935年にリトアニアの町エイシュショク(リトアニア語ではEišiškės)に生まれたエリアハは、1974年にブルックリンでホロコースト研究所(Center for Holocaust Studies, Documentation and Research)を設立し、カーター政権下でホロコースト問題の委員も務めたホロコースト研究の草分け的存在の一人である。同書は、豊富な資料と生存者の証言を駆使して故郷エイシュショクのユダヤ人の生活史を再構成したものだが、総じて反ポーランド的とみなされた記述、ことに第二次世界大戦の最中にゲリラ闘争を展開したポーランド国内軍が「ユダヤ人のいないポーランド」を目指していたとする解釈は、自身の母親と弟は国内軍による「ポグロム」の犠牲になったのだと彼女がテレビ番組で主張したことと相まって、ポーランドの歴史家たちの激しい反発を招いた。
ホフマンとエリアハの著作は、対照的な形とはいえ、ユダヤ人とポーランド人のあいだに今なお横たわる過去の記憶をめぐる相克を浮き彫りにした。両著作の刊行はまた、シュテットル研究が、専らユダヤ人研究者によって為されてきた従来のユダヤ研究の枠組みを越え、マジンスキ監督の映像作品とホフマンの著作に登場するズビグニェフ・ロマニュクのような若い世代のポーランド人郷土史家に象徴されるように、東欧の歴史と記憶をめぐる様々な当事者を巻き込むセンシティヴな領域になったことを示す契機ともなった。このように、よくも悪くもシュテットル研究の新時代を準備した両著作がともに、一つのシュテットルの発展から東欧ユダヤ人の歴史を浮き彫りにする手法を採っていたことは興味深い。
■入念な歴史記述とファミリーヒストリーが織りなす追悼の書
それから四半世紀を経て、この定点観測ともいうべき手法をいっそう推し進めた著作が再び現れた。それが、このたび作品社より刊行されたバーナード・ワッサースタインの『ウクライナの小さな町――ガリツィア地方とあるユダヤ人一家の歴史』(工藤順訳、原題:A Small Town in Ukraine: The Place We Came from, the Place We Went Back to、2023)である。すでにシュテットル研究の膨大な蓄積がある中、このように浩瀚な書物が今また現れたこと自体も驚きだが、本書が「文庫の殿堂」ともいうべきペンギン・ブックスの一冊として出版されたことも注目される。
ワッサースタインの著作は、東欧ユダヤ人社会の発展をその周辺で展開された歴史的動向と実証的に突き合わせて再コンテクスト化するという、過去20年あまりのシュテットル研究の方向性と軌を一にしている。とはいえ、本書は、実証的な歴史研究に著者自身の祖父をはじめとする親族が辿ったファミリーヒストリーを重ねわせるという、およそ対照的に見えるアプローチを組み合わせたハイブリッドなテクストである点で際立っている。数多あるシュテットル論の中で本書をとりわけ印象深いものにしているのは、徹底的なまでの細部への拘りとともに、私的なライフヒストリーを公的な歴史資料へと丹念に位置づける歴史家としての手腕と力量に他ならない。
本書が構想されるに至った経緯とともに、著者の経歴もユニークである。
著者であるワッサースタインは、祖父ベルンハルト(ベール)・ヴァッセルシュタインの生まれ故郷であるクラコーヴィエツ(ウクライナ語でクラコヴェーツ)という地名について、「およそ何も知らないまま」育ち、「父が厳しく沈黙を守ったことなどから」、「ほとんど口にすべきではないもの、だからこそいっそう謎めいて、神秘的でさえある祖先揺籃の地」というイメージを抱いていたという。
ところが、1980年代末に「鉄のカーテン」が突然開き、その直後にソ連邦が崩壊したのを機に、ワッサースタインは「新しく独立したウクライナ共和国の領内に姿を現した」その町を訪れた。「若い頃から意識の片隅にあったクラコヴェーツという場所に、何となくやり残した仕事があるように感じていた」彼は、「クラコーヴィエツの町とわたしの家族とのつながりについて確かめうることのすべてを見つけ、家族の出自にかんしてずっと抱いてきた癒しがたい好奇心を満たしたいと思った」という(『ウクライナの小さな町』(以下略)viii頁)。
その頃までにイギリスや委任統治時代のパレスチナのユダヤ人などに関する現代史の専門家としてすでに名を馳せていたワッサースタインは、その後もユダヤ人の現代史に関する著作をいくつも出しているが、本書は、東欧ユダヤ人に関する唯一の著作である。つまり、もともと東欧ユダヤ史の専門家ではなかった歴史家が、ファミリーヒストリーを紡ぎだしたいという内的な欲求に突き動かされて、「私たちがもと来た場所、そして戻っていった場所」であるクラコーヴィエツの「自伝」の執筆を決意したのである。
この途方もないプロジェクトを遂行するにあたって、ワッサースタインは手堅い歴史家ならではの徹底ぶりを発揮し、クラコーヴィエツに関する「見つけえたありとあらゆる分野の情報からなる巨大なデータバンクを構築した」ばかりか、「これまでクラコーヴィエツに住んだことのある者のうち、歴史上の記録に足跡を残す一人ひとりすべての人物を収録した人名事典を編纂しよう」と思い立ち、1万7千件以上もの「人名事典の見出し」を作成したという(ix-x頁)。郷土史家も顔負けの好奇心によって再構成された「ウクライナの小さな町」の歴史と、その町と運命の糸でつながった自らの家系の軌跡について知りたいという執念によって再現された「一家の旅路」とが交差する物語、それが本書『ウクライナの小さな町』である。
■歴史に翻弄された一家の運命
全13章から成る本書は、1938年10月28日、ベルリンで祖父「ベール・ヴァッセルシュタインは、ある朝、何も悪いことをしていないにもかかわらず逮捕された」(1頁)という記述から始まる。いうまでもなく、カフカの長編『訴訟』の冒頭をなぞった書き出しだが、ベールは、実際に「その夜、ドイツ全土で逮捕された約1万8000人(すべてユダヤ人)」(2頁)の一人であった。
ナチスによる本格的なユダヤ人迫害は、通常、1938年11月9日から10日にかけて起きた「水晶の夜」から始まったとされる。だが、この章から我々は、この有名な事件に先立って、ドイツおよび1938年3月に併合されたオーストリアに居住するポーランド国籍のユダヤ人が最初の標的となったことを知る。かつてのオーストリア帝国臣民であったベールはベルリンにすでに20年近くも居住していたが、彼の故郷クラコーヴィエツが1921年以降に新生ポーランド共和国領になったのを機に、自動的にポーランド国籍者となっていたのである。
逮捕されたベールと息子のアディ(著者の父親)はベルリンで強制的に列車に乗せられ、ポーランド国境沿いのズボンシンまで連行され、不衛生な即席の収容所で数か月を過ごす。ベルリンに残された妻チャルナと13歳の娘ロッテは後にベールと合流し、ベールの故郷クラコーヴィエツへと事実上「強制送還」させられた。一方、アディは、たまたま「ズボンシンを離れる前に、ポーランドに戻らない旨の誓約書に〔引用者注――ポーランド側から〕署名するよう求められていた」(164頁)ことから、家族とともに見知らぬポーランドの町へと「戻らず」に済んだ。この誓約書の有無が、ヴァッセルシュタイン一家の命運を左右することになる。
■三つの共同体の発展と相克
続く第2章から第6章までは、クラコーヴィエツ湖畔の牧歌的な自然や四季の描写から始まり、この町が初めて記録に登場した1423年以降の歴史が丹念に綴られる。約3世紀半にわたりこの地域一帯を支配したポーランド王国は、17世紀から18世紀にかけてコサック、モスクワ、スウェーデン、トルコ、タタールなどの軍勢による度重なる戦乱で弱体化し、18世紀末のポーランド分割によってハプスブルク帝国領となったクラコーヴィエツは、ポーランド人領主イグナツィ・ツェトネルが建てた豪奢な宮殿をランドマークとする町として発展した。そして、19世紀初頭になると、クラコーヴィエツはユダヤ人が人口の大半を占める町へと変貌を遂げ、「典型的な東ヨーロッパのシュテットル」の一つになった。
著者は、クラコーヴィエツの町章に描かれた三匹の魚――クラコーヴィエツ湖に棲む三種類の鯉をあらわした意匠などの説がある――について、「この町の歴史上の三つの共同体――つまり、西(厳密にはローマのある南西方向)を向いた二匹はローマ・カトリックとギリシャ・カトリックを、東(厳密にはイェルサレムのある南東方向)を向いた一匹はユダヤ人を象徴しているのではないかと想像してみたい」(22頁)と述べているが、祖父一家をめぐる記述が再登場する第7章、とりわけ第一次世界大戦の時期までは、この三つの共同体の発展を、なるべく公平に記述しようと努めていることが窺える。
クラコーヴィエツから300キロほど北に位置するブランスクの町を扱ったホフマンの『シュテットル』が、専らユダヤ人とポーランド人の関係を軸とした記述に終始していたとすれば、ギリシャ・カトリック教徒のルテニア人(後のウクライナ人)がもともと多く居住していたガリツィア(ウクライナ語ではハルィチナー)地域を主に扱った本書では、時代を追うごとにウクライナ人の動向に関する記述が厚みを増す――ガリツィアのユダヤ人の歴史については、野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』(人文書院)が詳しい。オーストリア゠ハンガリー帝国下で、ガリツィアがポーランド人とウクライナ人のナショナリズム運動の中心地となる中、ハプスブルク家が両者の相反する利害関係の調停に骨を折る一方、「居心地の悪い中間的な位置を占めていた」ユダヤ人は次第に困難な立場に追い込まれていった。
19世紀末から20世紀初頭にかけてポグロムが頻発したロシア帝国の「ユダヤ人居住地域」と違い、ガリツィアでは、反ユダヤ主義のむき出しの暴力は抑止されていた。だが、ハプスブルク帝国下でかろうじて保たれていた諸民族間の危うい均衡は、第一次世界大戦の勃発とともに崩れ去った。
ロシア軍に占領されたガリツィアでは、オーストリア軍の協力者とみなされたユダヤ人が総じて残忍な扱いを受け、戦時下で総計5、60万人近くのユダヤ人が他地域へ逃亡するか、追放の憂き目にあった――第一次世界大戦の東部戦線におけるユダヤ人の受難については、拙論「S・アン゠スキーの『ガリツィアの破壊』と記憶のポリティクス」(『思想』2015年5月号および6月号)を参照。さらに、戦争の敗北と革命で諸帝国が崩壊すると、独立を勝ち取ったポーランド人とそれに失敗したウクライナ人の間のヘゲモニー闘争は次第に血で血を洗う報復合戦の様相を帯びていった。多くの場合、ユダヤ人は中立を保つことに努めたが、そのこと自体が両陣営からしばしば「裏切り」行為とみなされ、スケープゴートになることも少なくなかった。
■情報の断片から浮かび上がる歴史の深層
続く第7章から第11章にかけては、祖父一家の来歴とともに、彼らを襲ったその後の過酷な運命が、それと直接・間接的に関係する同時代の歴史と並行して綴られる。ファミリーヒストリーと歴史とが交差する第1章も含むこれらの章では、諸国家の政策や外交といったマクロなレベルから、市井の人びとの振る舞いというミクロなレベルに至るまで、一般にはあまり知られていないものの、この時代を復元する上できわめて示唆的な情報の数々が開示される。それは、たとえば、以下のような事実関係である。
ポーランド政府もまた、ナチス・ドイツに劣らずユダヤ人を厄介払いしようとあらゆる手を尽くしていたこと
ベルリンからズボンシンへと向かう列車にすし詰めにされたユダヤ人の中には豚肉を使ったサンドウィッチが与えられた者もいたこと(8頁:これはホロコーストの現場でナチスがユダヤ人に対して行った悪魔的な虐待の最初期の例と言える)
ズボンシンで収容中のユダヤ人たちがポーランドの地元の若者に襲われ、暴力を振るわれたこと(11頁:ホロコーストの最中と直後における地元住民によるポグロムを予感させる)
ズボンシンの強制送還者の中に、後に在パリ・ドイツ大使館の書記官フォム・ラートを暗殺したポーランド系ユダヤ人のグリュンシュパンの家族が含まれていたこと(13頁:ナチスがこの暗殺の報復として「水晶の夜」を起こしたことが知られている)
ズボンシンへの大量追放は世界的な非難を巻き起こし、イギリスのメディアは怒りを表明したものの、ユダヤ人のパレスチナ移住を制限していたイギリス政府は事実上これを黙殺したこと(161-162頁)
1939年9月16日、ポーランドに侵攻したドイツ軍に随行したアインザッツグルッペンが、クラコーヴィエツ南東の古都プシェムィシル周辺のユダヤ人住民500名を虐殺したこと(172頁:アインザッツグルッペンによるユダヤ人の組織的な殺戮が本格化するのは、約2年後の独ソ戦の最中である)
本書の全体を通じて、読者は、多くの場合、大きな歴史からは忘却される傾向にあった兆候的ともいえる情報の断片をつなぎ合わせる作業へと誘われ、著者とともに歴史の深層へと一歩一歩分け入ってゆくことになる。
*【書評#2】に続く