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【連載#1】サイエンス・フィクションのなかの言語実験たち(鯨井久志) 第1回 ハーラン・エリスン
まえがき
「……敢えて言うなら、医学と同様、翻訳もまた芸術なのだ。ただし、それは科学に基づいた芸術である。……」――ジョルジュ・ムーナン『翻訳の理論』
翻訳。すなわち、ある言語で表された物事を、また別の言語に置き換える行いは、本質的に困難を孕んでいる。これは、シニフィエあるいはシニフィアンといった大層な言語学用語を持ち出さずとも、感覚として了解できることであろう……鳩を撃つのに大砲は不要なのだ。現実にあるもの――それはカギカッコ付きの「現実」であって、たとえそれが実在であろうが非実在であろうが構わないのだが――つまり、脳が処理したイメージを、さらに言語という記号で表してみせる一連の動作によって、われわれは会話をし、文章を紡ぐ。それが塊になると、戯曲になったり小説になったり、あるいは詩歌になったりする。発信者が抱くもやもやとした概念、情景、人物、何だってよいが、それをそのままの形で受信者に伝えることはできない。人間が個に分かれている以上、それは致し方のないことだ。
言語はある固有の体系を持つ。それは言語ごとに異なる体系であり、日本語とフランス語では語順が違うといった次元の問題ではない。現実の切り分け方が異なるのである。そして、その切り分け方は個々人によっても異なり……より正確に言えば、必ずしも一致を見ない、ということになろう。虹が何色に見えるかは文化によって異なる、という今や手垢のついた通俗脳科学的豆知識をここで披露するつもりはない。思い描かれた想念を言語という記号として表す段階、そこですでに一種の加工、そう言ってもよければある種の「翻訳」が介在しているのである。
一般的な翻訳は、その加工物をさらに別の体系に沿う形で加工されることで行われる。そして、その二次加工物は、受信者のうちで記号→想念の再加工を経て、はじめて認識される。そのうえで、発信者・受信者双方において抱く想念が、完璧に一致させることが翻訳の究極的な目的であるとすると、この著しい困難さは明白であろう。
べつに完璧な一致は必要でない、という意見はある。そもそもが不可能であるのだから。その傲慢な開き直りと目標への熱望、そして商業的な要請、これらによって現代の翻訳は成立している。「バベルの図書館」館主たるホルヘ・ルイス・ボルヘスは「決定的なテキストという概念は宗教にこそ、あるいは疲弊した精神にこそふさわしいものである」と書いた(「ホメーロスの翻訳」、『論議』牛島信明訳、国書刊行会)。作者が書いたテキストすらも草稿のひとつであり、その翻訳A, B, C……もまた、草稿A, B, C……でしかない。行き過ぎた相対主義は虚無でしかないが、極論としては一聴の価値がある。それにならって、ここでもひとつ極論を考えてみることとしよう。
逐語訳、単語単位の「意味」を言語間で揃える翻訳こそが完璧な翻訳たりえるか? 決してそうではない。学生時代の課題で、辞書を引き引き和訳文をでっち上げた記憶、あるいはAI翻訳以前の機械翻訳(AI翻訳もまだまだ発展途上で、充分なものとは言えないが)を思い浮かべれば、その理由は明らかだろう。文章には文脈というものが存在する。単語レベルでは補いきれない、言いえて妙たる言葉「行間」を読み取らなければ、到底発信者・受信者双方での想念を一致させる方向へと向かうことはできない。
では、文脈単位で訳せばよいのか? それも決してそうではない。そもそも二言語間にわたる文脈の把握、適切な語彙の選択という難度もさることながら、文章とは字面だけで存在するわけではない。はじめに音ありき。散文ではその重要性はおおむね少ないとは言え、詩の翻訳においてはほぼ必然的に音韻の問題が浮上する。そして韻を保存する翻訳が可能であったとしても、意味単位の保存との共存は極めて難しい。
翻訳上の特異点ともいえる「自己翻訳」をこなしたウラジーミル・ナボコフを例に取ろう。彼はロシアで生まれ、ロシア語で初め小説を書き、その後英語で小説を書いた。英語で書かれた自作のロシア語翻訳、あるいはその逆もこなしてみせた。だが、その彼が10年以上の歳月をかけ、全4巻・1600頁超(1巻が序文と翻訳、2・3巻が注釈と付録、第4巻が索引と原文)という長大な書物として世に問うた、彼自身がロシア語から英語への翻訳を手掛けたプーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』は、決して成功とはみなされなかった。知己の評論家・エドマンド・ウィルソンとの友情をこの翻訳の出来如何による議論で失っただけでなく、後世の批評家、たとえば比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュにも否定的な見方をされている。パラフレーズすることなく、かつ逐語訳でもなく、二言語間の連想・文法的な能力の限界まで文脈に沿った翻訳をすること、彼のいうliteralな翻訳は、読みにくさと脚韻の放棄という指摘の批判をもって受け止められた。
そう。読みにくさ。翻訳されたテキストはあくまでも読まれるものである。翻訳者ひとりのためのテキストでは、現在の商業的状況においては、少なくともない。この状況が不幸なのか否かといった議論をするつもりは、ひとまず今のところはない。とはいえ、ナボコフの目したliteralな翻訳という目標は、たとえ砂上の楼閣であったとしても、安易に却下されるべきものでもなかろう。現代の翻訳は、その綱引きの上に築かなければならない営みである。
日本における翻訳についても、二葉亭四迷にはじまり数々の先人たちによる論争やテクストと既存の日本語との間での鍔迫り合いを祖として、そしてそれが翻訳と「日本語体系」の静かな融合と混ざり合って、今の形を保っている。
この連載では、言語実験的なSF作品を題材に、その先人たちの争いと知恵の成果を論じていこうと思う。
なぜ言語実験的な「SF」を選ぶか。その理由には、それこそ商業的な要請や書き手(わたし、である)の技量的な問題がまず前提としてあるが、ここはそんなことを述べるべき場ではない。
まず、言語実験的な技法を用いられた作品は、ひとつの言語体系の上での、ある種の極論を試みる行いであると言える。この言語で表現できる限界の地平はどこにあるのか? そうしたフロンティア精神、前衛精神が書き手を突き動かして、あるいはそれに類するものを欲する読み手の欲望に応えて作られたものであろう。
一方、SF作品というものは、思弁的でありながら、かつエンターテインメント性も求められるという、よじれた性質を持つ。ジャンルという大きな箱の中で、歴史的に商業的成果が求められる土壌があり、そのうちで極めて粗雑なラベリングにおいてひとまとめにされてしまっているというのが実情ではあるが、そのラベリングを逆手に取り、ひっそりと、あるいは堂々と、実験的精神の発露の場として言葉を紡いできた優れた作家たちが存在するのも、また事実である。
例えば、タイポグラフィをふんだんに取り入れ、今までにない視覚的刺激を追求した〈ワイドスクリーン・バロック 【*1】〉のアルフレッド・ベスター。SFというクリシェへの徹底的なパロディを繰り返し、不条理な現実世界をブラックユーモアの形で描き出したジョン・スラデック。ジョイスの言語遊戯をSFに持ち込んだブライアン・オールディス。造語という意味では、サイバーパンクの祖ウィリアム・ギブスンや、『時計じかけのオレンジ』で知られるアントニー・バージェス、『リドリー・ウォーカー』でポスト・アポカリプス世界の壊れた言語体系を描いたラッセル・ホーバンもこの括りに入れられるかもしれない。
このあたかも増築を繰り返した古い旅館のような、ねじ曲がった不格好な複合体としてのSFに注目し、言語実験SFの翻訳史あるいはその技術史について論ずることは、現代の翻訳が立たされている極めてアンビバレンツな状況を、ある種のサンプリング的手法を用いて示す試みとして、一定の価値はあるのではないか。
いま〈技術〉と書いたが、本来的には英語で言うところのartである。技にして芸たる翻訳、その名にふさわしい翻訳を振り返っていく行いは、翻訳という芸術の価値と真髄を示すことにもなろう。
願わくば、読者諸氏へもその意図が、文字を通してその脳髄の中に再構成――「翻訳」――されんことを祈り、ややうやうやしいことを承知で、前文とさせていただこう。
第1回 ハーラン・エリスン
ハーラン・エリスン(Harlan Jay Ellison, 1934 - 2018)
1934年生まれ。アメリカのSF作家。「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」で1966年ヒューゴー賞短編小説部門、ネビュラ賞短編小説部門を受賞して以来、数十年にわたり主に短編を書き、数々の賞を受賞した。暴力と叙情、そして幻想が絡み合った独自の作風で知られる。日本では『世界の中心で愛を叫んだけもの』『死の鳥』『ヒトラーの描いた薔薇』というSF短編集がそれぞれハヤカワ文庫SFから刊行されているほか、非SF作品を集めた『愛なんてセックスの書き間違い』が国書刊行会より出版されている。2018年死去。
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伊藤典夫(いとう・のりお)
1942年生まれ。翻訳家。早稲田大学在学中にリチャード・マシスン「男と女から生まれたもの」の翻訳で1962年にデビュー。以来、海外SF紹介者として第一線で活躍し、戦後の日本SF界の発展に尽力した。主な訳書にブライアン・オールディス『地球の長い午後』、アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』、カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』など多数。海外SF紹介を含めた評論をまとめた『伊藤典夫評論集成』が国書刊行会より近刊。
連載初回の今回、まずはハーラン・エリスン「プリティ・マギー・マネー・アイズ」(伊藤典夫訳)を取り上げたい。
なぜこの短編を選んだか。本作は「翻訳の難度」ゆえに日本語に訳されてこなかった、幻の一作だったからである。その経緯を説明しよう。
かつて、〈サンリオSF文庫【*2】〉というSFの文庫があった。SFファンには周知の事実かもしれないが、一応説明しておくと、サンリオとは、あのサンリオである。ハローキティやポムポムプリン、シナモロールといった大人気キャラクターを抱え、今なお多大なる人気を誇る、あの。
「世界文学のなかにSFを位置づける」という姿勢で選ばれたというそのラインナップを見ると、初回配本にウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』が入っていたり、ナボコフの短編集が入っていたり、ラテンアメリカ文学が入っていたり、はたまた名も知らぬフランスのSF作家が入っていたりと、明らかに「攻めた」姿勢が感じ取れる。
そのなかで出た1冊に、ハリイ・ハリスン&ブライアン・W・オールディス編『ベストSF1』という本がある。原書は1968年刊行、その年(実際には1967年度)に発表された「SF作品」を集めた傑作選……すなわち「年刊SF傑作選」である。とはいえ時代は60年代後半、40年代・50年代のSFに対するカウンターとして、主流文学の手法、とくにヌーヴォー・ロマンといった実験的な作風の文学から得た影響をSFにつぎ込むことで新たな風を吹き込もうとした(そして究極的な目標は「SF」というカテゴリそのものの枠の破壊にあったとも言えよう)、SFにおけるニューウェーヴ運動【*3】まっさかりのころである。
当然、収録作もそうした香気を強く感じる作品、ニューウェーヴ運動の中心にいた作家の作品が多く採られている。たとえば、J・G・バラードの問題作「下り坂カーレースにみたてたジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件」(伊藤典夫訳。『残虐行為展覧会』、工作舎に法水金太郎(横山茂雄)訳が収録されている。その後『J・G・バラード短編全集04』、東京創元社に横山訳が収録)などはその最たるものであろう。
さて、邦訳版の『ベストSF1』に話を戻そう。基本的に原書通りに訳されているものの、実は一篇だけ割愛されている作品が存在するのだ。それが、ハーラン・エリスン「プリティ・マギー・マネー・アイズ」である。
訳者のひとりにして、当時の海外SF紹介者・安田均による解説を見てみよう。
……なお最後に一つお断りしておかないといけない。本書にはあと一篇ハーラン・エリスンの「プリティ・マギー・マネー・アイズ」Pretty Maggie Moneyeyes という、スロットマシーンでの男女のラブ・ストーリーが含まれているが、翻訳の難度ということや諸般の事情もあり、収められなかった
(『ベストSF1』、359ページ)
諸般の事情とは、ページ数の都合や版権の面での問題などが生じたためかもしれない。翻訳アンソロジーではしばしば起こり得ることではある。だが、翻訳の難度と明記される作品はそうあるものではあるまい。
『ベストSF1』邦訳版が出版されたのは1983年のことである。Pretty Maggie Moneyeyesが本邦ではじめて訳されたのは『SFマガジン』2000年2月号であるから、ゆうに17年間、この短編は訳されることなく、幻の作品でありつづけた。現在はニューウェーヴSFのアンソロジー『ベータ2のバラッド』(若島正編、国書刊行会)やエリスンの短編集『死の鳥』(ハヤカワ文庫SF)で読むことができる。
あらすじから始めよう。舞台はラスベガスのカジノ。主人公コストナーは、有り金をすべて使い果たしてしまい、絶望の淵に立たされている。
さっそくだが、冒頭付近から伊藤典夫の名訳が光る箇所を紹介しよう。ベガスのカジノのひりつくような、無機質な風景描写だ。
And at that moment Kostner knew what was wrong and immoral and deadly about Vegas, about legalized gambling, about setting the traps all baited and open in front of the average human.
(Harlan Ellison “Greatest Hits”, Union Square & Co, 2024 以下原文は全てこれに拠る)
ヴェガス。合法的賭博場。餌をぶらさげ、一般人のまえにこれ見よがしに仕掛けられた罠の群れ。ヴェガスのどこがおかしいのか、不道徳なのか、危険なのか、そのときになってコストナーは知った。
(ハーラン・エリスン『死の鳥』伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF、2016年 以下訳文は全てこれに拠る)
The woman’s face was gray with hatred, envy, lust and dedication to the game—in that timeless instant when she heard another drugged soul down the line winning a minuscule jackpot.
その永劫の一瞬――女の顔は、憎しみと嫉みと渇望とゲームへの意気ごみに土気色をしていた。列のどこかで、またひとりの魅入られた魂がお涙ほどのジャックポットを引き当てたのだ。
「ヴェガス」、「合法的賭博場」、「一般人のまえにこれ見よがしに仕掛けられたの群れ」を切り出し、体言止めにして順序を入れ替えることで、文体のリズム感を作り出している。また、後半では―in that timeless instant までを一文とし、日本語では2文に切り分けて、she heard以下の文をその後の文に含んで訳している。そう、「彼女は誰かがジャックポットを引き当てた音を聴いた」と訳していないのだ。視点を女に移すことなく、あくまでカジノマシーンたちが主体であることを巧みに訳出している。
コストナーはポケットのなかの1ドル銀貨を握りしめ、スロットマシーンに向かう。ここで、突然物語は視点が変わり、ヴィジュアル的にもイタリック体での描写に切り替わる。そこでは、チェロキー・インディアンの母とポーランド系労働者の父とのあいだに生まれた女・マギーの半生が語られる。青い瞳を持つ彼女は、娼婦として働いていた。
すると――カジノのコストナーにふたたび描写が戻る――スロットマシーンにも異変が起こる。本来起こるはずのない、三つの目が揃い、ジャックポッドとなったのだ……そう、青い瞳が三つ。
2000ドルを手にしたコストナーは、「どこか、このカジノではない別の境からFrom somewhere. not in the casino」ひびく笑い声に誘われ、ふたたび同じ台へ銀貨を投入する。
視点はまた切り替わり、マギーの物語へ。彼女はシチリアの男の娼婦としてみじめな扱いを受け、その怒りを晴らすためにカジノへと向かった。しかし、彼女を待っていたものは、ありえない痛みだった。
The reels cycled and spun and whirled and whipped in a blurringspinning metalhumming overandoverandover as Maggie blue- eyed Maggie hated and hated and thought of hate and all the days and nights of swine behind her and ahead of her and if only she had all the money in this room in this casino in this hotel in this town right now this very instant just an instant thisinstant it would be enough to whirring and humming and spinning and overandoverandoverandover and she would be free free free and all the world would never touch her body again the swine would never touch her white flesh again and then suddenly as dollarafterdollarafterdollar went aroundaroundaround hummmmming in reels of cherries and bells and bars and plums and oranges there was suddenly painpainpain a SHARP pain!pain!pain! in her chest, her heart, her center, a needle, a lancet, a burning, a pillar of flame that was purest pure purer PAIN!
リールはまわり、くるめき、転がり、すべり、舞い、うなり、飛び、かすみ、ぼやけ、マギー、青い目のマギーは、ありったけの憎しみをこめてレバーを引き、憎しみのことを考え、豚野郎とのこれまでの明け暮れと今後の日々を思いやり、もしもいまここで、この瞬間、この部屋中の、このカジノの、このホテルの、この街ぜんぶの金が手にはいるなら、あとなにもいらない、リールは転がり、すべり、舞い、うなり、彼女は解き放たれて、自由に、自由に、自由に飛び、もう誰にも二度と自分の体をさわらせない、豚野郎に二度とこの白い肌をさわらせない、そのときとつぜん、銀貨が銀貨が銀貨が銀貨があとからあとからマシンに流れこみ、リールはまわってまわってまわってまわって、チェリー、鈴、バー、プラム、オレンジがひらめくなかに、だしぬけに痛い痛い痛い痛い、刺すような激痛が!激痛が!激痛が!激痛が! 心臓を胸を体の中心を針が槍が灼熱が火柱がつらぬき、それはまさに混じり気ない澄みきった純粋な激痛!
猛烈な痛みが伝わる原文の衝撃。それを訳文でも決して句点で区切らず、1文で続ることで、日本語にそのまま移し替えることに成功している。
そして、マギーは息絶える。
On the floor.
Dead.
Struck dead.
Liar. All the lies that were her life.
Dead on a floor.
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原文では中心揃えであったところを、邦訳では絶妙な字下げで表現している。また、単純に置き換えるだけの訳ではないところにも注目しよう。原文ではLiar. All the lies that were her life.と2文で分けられているところを、「嘘で塗り固められた命が」としているところ、またStruck dead.を「斃れた。破綻した。」の2文に分けるところ、そして何といっても、とどめのごとく繰り返される「フロアの上で」……。こう訳されるとこれ以外ありえないと思ってしまう名訳だ。
そして描写は砕け散ったマギーの魂と、それがスロットマシーンに吸い込まれていくさまへと移る。
[A moment out of time ■ lights whirling and spinning in a cotton candy universe ■ down a bottomless funnel roundly sectioned like a goat’ s horn ■ a cornucopia that rose up cuculiform smooth and slick as a worm belly ■ endless nights that pealed ebony funeral bells ■ out of fog ■ out of weightlessness■ suddenly total cellular knowledge ■ memory running backward ■ gibbering spastic blindness ■ a soundless owl of frenzy trapped in a cave of prisms ■ sand endlessly draining down ■ billows of forever ■ edges of the world as they splintered ■ foam rising drowning from inside ■ the smell of rust ■ rough green corners that burn ■ memory the gibbering spastic blind memory ■ seven rushing vacuums of nothing ■ yellow ■ pinpoints cast in amber straining and elongating running like live wax ■ chill fevers ■ overhead the odor of stop ■ this is the stopover before hell or heaven ■ this is limbo ■ trapped and doomed alone in a mist-eaten nowhere ■ a soundless screaming a soundless whirring a soundless spinning spinning spinning ■ spinning ■ spinning ■ spinning ■ spinning ■ spinninggggggggggggggg]
[時間からはずれた一瞬◆光点の群れがくるめきまわる綿菓子宇宙を◆山羊の角のように段々状にすべり落ちる底なしの漏斗のなかを◆芋虫の腹のように柔らかくなめらかにせりあがる豊饒の角のなかを◆漆黒の弔のベルをひびかせる無限の夜の闇を◆霧のなかから◆無重量状態のなかから◆とつぜん完全無欠な細胞レベルの認識◆記憶が巻きもどり◆しゃべりちらす痙攣的な盲目◆プリズムの洞窟から出ようと音もなくあがく狂乱のフクロウ◆果てしなくすべり落ちる砂粒の◆永遠の波は濤とうの◆ばらばらに砕け散る世界のふちの◆内側から溺れて沸きかえる泡の◆錆びついた臭い◆焼けたラフな緑の隅◆記憶しゃべりちらす痙攣的記憶◆七つのほとばしる無の真空◆黄◆琥珀のなかに鋳込まれて融けた蠟のように流れ伸びる光の点◆肌寒い熱気◆頭上では停止の香り◆ここは地獄または天国への中継駅◆ここはリンボ界◆霧にむしばまれる無辺の地にひとり否応なく幽閉されて◆声なき悲鳴と無音のうなりと沈黙の回転◆回転◆回転◆回転転転転転転転転転転転転]
引用が長くなってしまったが、ゆっくりと味わいながら読んでほしい。原文の短く区切られた叩きつけるようなリズムの文体。そして、邦訳における圧倒的な語彙力と漢字の開き方のセンス。原文とでspining-回転の回数が一致していないことに気付かされるが、これは原文が回りすぎているような気もする。むしろ日本語にするうえでは3回程度がちょうどよい。エリスンの特色といえば、そのハッタリとも言えるほどの過剰な装飾が施された文体と暴力的なモチーフだが、それが如実に現れたシーンと言えよう。
そして、マギーはマシンの中へ……永遠の煉獄へと囚われる。
Maggie had wanted all the silver in the machine. She had died, willing herself into the machine. Now looking out from within, from inside the limbo that had become her own purgatory. Maggie was trapped, in the oiled and anodized interior of the silver dollar slot machine. The prison of her final desires, where she had wanted to be, completely trapped in that last instant of life between life/death. Maggie, gone inside; all soul now; trapped for eternity in the cage soul of the soulless machine. Limbo. Trapped.
マギーはマシンのなかの銀貨をすべて手に入れる気でいた。彼女はマシンに思念を注ぎこんで死んだ。いま内部のリンボ界からながめた彼女は、銀貨スロットマシンの油をしいた陽極酸化された内部がおのれの煉獄となり、そこから出られなくなっていることを知った。究極の欲望の奴隷、最後の願いに捕われて、彼女は生と死の境にある瞬間に身動きもならずにいた。マギー、奥底にすべりこみ、いま魂だけマシンの檻のなかに、永遠に閉じこめられてリンボ界をさまよう。逃げ場もなく。
Now looking~以下の原文と、訳文で絶妙に情報を取捨選択し、巧妙に分割していることに注目されたい。
こうしてマシンという煉獄のなかに囚われた哀れな女マギーは、マシンのなかからコストナーの欲望を引き出し、増幅させ、そして「こちらがわ」へと誘う。
男女のぎらつくような欲望と孤独――それらをこの叩きつけるような文体で描いた本作は、間違いなくエリスンの代表作と呼べるであろうし、また賭博小説というジャンルの中でも白眉の作であると言えよう。その魅力を見事なまでに日本語に移し替えた伊藤典夫の訳業も、これまた氏のベストともいえる仕事ではないだろうか。
さて、引き続いてエリスンの短篇から、「死の鳥The Deathbird」も紹介しておきたい。邦訳は、同じく伊藤典夫によるものである。
「死の鳥」それ自体について言えば、さまざまな隠喩と言及に満ち溢れた一筋縄ではいかない短篇であり、その解読だけで連載一回分はゆうに費やしかねない作品だ。そういったことは若島正先生にでもお任せすることとして(急に名前を出して申し訳ない)、今回はその形式的な側面に注目してみたい。
こんな書き出しから物語は始まる。
This is a test. Take notes. This will count as 3⁄4 of your final grade. Hints: remember, in chess, kings cancel each other out and cannot occupy adjacent squares, […] Not everyone tells the truth. Operational note: these sections may be taken out of numerical sequence: rearrange to suit yourself for optimum clarity. Turn over your test papers and begin.
これはテストだ。そのつもりで。最終成績の¾は、これで評価される。ヒントを与える。ひとつ、チェスでは、両軍のキングはたがいに相手を打ち消すが、隣りあうますを占めることはできない。[…]ひとつ、万人が真実を語っているわけではない。解答上の注意。以下の各章は、数字の順序に拘束されない。理解しやすいように配列を変えることは自由。テスト用紙をめくって、はじめ。
何とも異様な幕開けだ。作品がいきなり「これはテストだ」と宣言する。しかも、これで成績が評価されるのだという。いったい誰に? 何の成績を? 面食らいながら読み進めると、さらによくわからないことが書いてある。「万人が真実を語っているわけではない」。おやおや、信頼できない語り手宣言ですか……。そう思っていると、「以下の各章は、数字の順序に拘束されない。理解しやすいように配列を変えることは自由」と来る。おおよそ、次章以降に語られる物語は、直線的な語りではなく、一読では「理解しにくい」物語であることが示唆される。どうにも難物である。
さて、まあそういった作り手の妙な態度は一旦脇に置き、物語を読み進めるとしよう。まずは滅亡後の地球を旅する男の話が始まる。そして、第3章まで進んだところで……物語はふたたび叙述の形式を大きく変える。
4
1 Now the serpent was more subtil than any beast of the field which the LORD God had made. And he said unto the woman. Yea, hath God said, Ye shall not eat of every tree of the garden? […] —Genesis 3:1-15
[…]
TOPICS FOR DISCUSSION
(Give 5 points per right answer.)
1. Melville’s Moby Dick begins, “Call me Ishmael.” We say it is told in
the first person. In what person is Genesis told? From whose viewpoint
2. Who is the “good guy” in this story? Who is the “bad guy”? Can you
make a strong case for reversal of the roles?
4
1 さて、神である主(the LORD God)が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇がいちばん狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」[……]――創世記第三章一~十五節
[……]
論述問題(正解一問につき5点)
一、メルヴィルの『モービィ・ディック』は、「わたしをイシュメイルと呼んでいただこう」から始まる。われわれはこれを、一人称で語られているという。創世記は何人称で語られているか? だれの視点からか?
二、この物語の「善玉」はだれか? 「悪玉」はだれか? 役割の転倒を充分に立証できるか?[……]
この「論述問題」の問いは10まで続く。そう、試験が本当に始まるのだ。その内容も創世記の人称を問うたり、「主LORD」が全て大文字であるのになぜ「蛇serpent」は小文字なのか、神が全知全能ならなぜ逃亡したアダムとエバを見つけられなかったのか、など、聖書の内容を挑発的に読者に問いかける内容となっている。
そして創世記やファウスト伝説を下敷きにした物語は進み……ふたたび妙なことになってくる。
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SUPPLEMENTARY READING
This is an essay by a writer. It is clearly an appeal to the emotions. As you read it, ask
yourself how it applies to the subject under discussion. What is the writer trying to say? Does he succeed in making his point? Does this essay cast light on the point of the subject under discussion? After you have read this essay, using the reverse side of your test paper, write your own essay (500 words or less) on the loss of a loved one. If you have never lost a loved one, fake it.
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副読本
これは、ある作家の書いたエッセイである。内容は明らかに感情に訴えるたぐいのものである。本文を読み、これが本題とどのようにかかわりあうかを考察せよ。作者はなにをいわんとしているか? 要点のおさえはきいているか? このエッセイは本題に新しい光を投げかけるものか? 読みおえたら、テスト用紙の裏面を使い、愛するものを失った自分自身の経験を短文(五百語以内)にまとめよ。そういう経験がない場合は、でっちあげろ。
そう、あまり関係のない(と当初は思わざるをえない)何者かによるエッセイが急に始まるのだ。「アーブー」と題されたそのエッセイは、愛犬を亡くしたばかりの語り手が、その出会いと別れまでの軌跡を綴ったものだ。わりあい感動的なそれを読み終えたあと……ふたたび設問が始まる。
QUESTIONS FOR DISCUSSION
1. Is there any significance to the reversal of the word gad being dog? If so, what?
2. Does the writer try to impart human qualities to a nonhuman creature? Why? Discuss anthropomorphism in the light of the phrase, “Thou art God.”
3. Discuss the love the writer shows in this essay. Compare and contrast it with other forms of love: the love of a man for a woman, a mother for a child, a son for a mother, a botanist for plants, an ecologist for the Earth.
設問
1. 神(god)のつづりの逆が犬(dog)であることになにか意味があるか? あるとすれば、どのようなものか?
2. 作者は、人間ではない生き物に人間の属性を見いだそうとしているか? その理由は何か? 「汝は神なり」という語句を念頭におき、擬人観について述べよ。
3. このエッセイで作者が語っている愛について述べよ。この愛を、他の愛の形態、たとえば男の女への愛、母の子供への愛、息子の母への愛、植物学者の植物への愛、生態学者の地球への愛などと比較対照せよ。
何とも意味深な設問である。そして、読者はふと疑問を抱く。この設問を投げかける作者は、読者に何を読み解かせようとしているのか? 小説自体を問題文と設問で構成することで、何を示そうとしているのか? 模範解答は作中には存在しない。実際の試験同様(決して模擬試験ではないのだ)、回答者である読者それぞれが、それを思考し、答えを提出せねばならないのだ。
ちなみに、こういった試験形式の作品には、言語実験SFの第一人者と言ってもいい異端のSF作家ジョン・スラデックによる短篇「不安検出書(B式)」があるのだが、この連載でのちにスラデックを扱う回があるはず(たぶん)なので、紹介はその機会に譲ろう。
さて、ハーラン・エリスンは『世界の中心で愛を叫んだけもの』『死の鳥』『ヒトラーの描いた薔薇』(いずれもハヤカワ文庫SF)と三冊のSF短篇集が邦訳刊行されているのだが、実はまだまだ未訳の作品が残っている。そのなかにはSFやホラーの賞を受賞したり、候補作になったりしたものもあるが……しかし、発表から数十年経ったいまでも邦訳されないままでいる。分量の問題や権利的なこともあるのだと思われるが、これまで見ていただいた引用箇所からも推察されるとおり、まず第一にエリスンは翻訳が難しいのである。
最後に、その難しい作品群のなかでも、とりわけ翻訳困難であろうものを紹介しておこう。1970年発表のノヴェラ(=長めの中篇)The Region Betweenである。本作は1971年度のローカス賞を受賞しているほか、ヒューゴー賞およびネビュラ賞といったSFの主要な賞の候補にもなっている。
内容的には、なんだかよくわからない挿絵が入ってきたり、第1章の次が第1 1/2章、その次が 1 3/4章であったり、段組みが急に変わって二段になったり、急に文字が縦になったり右から左に流れたり……と書くだけで、おおよそその雰囲気は伝わるであろうが、極めつけはこれである。
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アルファベットが渦を巻いている! タイポグラフィここに極まれり。翻訳するなら……と考えるだけで頭が痛くなってくる。まあ、アルファベットをほどきなおし、訳したあと、ふたたび円状にぐるぐる巻けばよいのだろうが……翻訳者はともかく、編集者のひととDTPオペレーターの人は苦労するだろう。AI翻訳がいかに発達しようとも、これを見事に翻訳できる日はまだまだ来ないような、そんな気がする。
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*1 ワイドスクリーン・バロック
SF作家・評論家のブライアン・オールディスが著書『十億年の宴』(浅倉久志訳、東京創元社、1980年)で提唱した用語。「絢爛華麗な風景と、劇的場面と、可能性からの飛躍の楽しさに満ちた、自由奔放な宇宙冒険物」(同書284ページ)であり、アルフレッド・ベスターやチャールズ・ハーネス、E・E・スミス、A・E・ヴァン・ヴォークトの作品がこれらに該当するとオールディスは示している。
*2 サンリオSF文庫
1978年7月から1987年8月にかけて刊行された、サンリオによる文庫のSFシリーズ。海外SFの翻訳作品が約9年間で197冊刊行された。先行してSF作品を文庫で出版していた早川書房や東京創元社とはやや異なる、前衛的なラインナップが特色である。編集顧問を作家・評論家の山野浩一が務めたこともあり、自身の主導する雑誌『NW-SF』で日本にニューウェーヴSF運動の紹介を行っていた山野の実践的な場となっていた。詳しくは『サンリオ出版大全』(慶應義塾大学、2024年)に収録された加藤優「サンリオSF文庫の小説世界――山野浩一のSF論とその実践」や、牧眞司・大森望編『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社、2014年)を参照のこと。
*3 ニューウェーヴ運動
1960年代にSFで勃発した「新しい波」運動。マイケル・ムアコックが編集長を務めたイギリスのSF誌『ニュー・ワールズ』が中心となり、それまでのSF作品と一線を画した文学性や思弁性を重視する作品が生み出されるようになった。重要人物のひとり、J・G・バラードによる「探求すべきは、外宇宙ではなく、『内』宇宙なのだ」(「内宇宙への道はどちらか?」、『J・G・バラードの千年王国ユーザーガイド』、木原善彦訳、白揚社、2009年)という宣言で知られる。
【プロフィール】
鯨井久志(くじらい・ひさし)
1996年生まれ。翻訳家・書評家・精神科医。訳書に『SFが読みたい!2024年版』〈ベストSF 2023[海外篇]〉で1位を獲得した、ジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』(竹書房文庫)がある。