遊び心と美の再探求について No.2

はじめに

第二回のテーマは「メディアアート」である。今日、たくさんのメディアアートが台頭している。その背景には、活発なメディア開発、新しい媒体の発見に加え、発見者がそのままそれをアートに転用する例も珍しくない。メディアアートは本記事の本質に迫るものであって、それは「そもそもアートとは何か?」「現在評価されている芸術作品においてそれの何が芸術的価値を持っているのか?」という問いについて、新しい表現方法、新しいフレームの構築に価値を置くメディアアートは「わかりやすい芸術」として形容できるかもしれない。

1.美術における価値、「リチャード・マット事件」


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 上の画像はデュシャンによる『泉』。1917年に作られた作品だが、当時ニューヨークでは"ニューヨーク・ダダムーブメント" ("ダダイズム"は、第一次世界大戦<1914~1918>に対しての虚無感を根底に持ち、既存の価値観の否定、破壊を思想とする) の中心人物であったデュシャンが小便器をモチーフにして作った作品である。デュシャンはこれを、”出品料さえ払えばだれでも出品できる”という展覧会に送ったが、この作品は展示委員によって隠され、カタログにも載ることはなかった。この事件を指して「リチャード・マット事件」と呼ばれている。

 この事件は後に、美術史に残る大事件として、そして、美術の革命として解釈されるようになる。なぜなのか。それは、1)モチーフである「小便器」が低俗なものだとされたこと。2)「低俗なもの」が、美術として認められなかったこと。3)すでに小便器として作られたものを美術として作品とするのは盗作(正しくは「剽窃」といいます)であるということ。 の3つである。

ではなぜ『泉』を通して美術の革命が起こされたのか。それまで、美術として認められていたのは、「美しいもの」かつ「作者が作ったものである」ということだった。それに対してデュシャンは「レディメイド(=ready made、既製品)」という「新たな芸術」を主張したのである。すでに作られたものに新しい「芸術品」としての価値を見出し、普段見ているものの価値のアップデートを図った。これはのちの現代芸術、そしてメディアアートの文脈へ受け継がれていく。

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これは2019年第22回岡本太郎現代芸術賞において、太郎賞を受賞した檜皮一彦さんの『hiwadrome: type ZERO spec3』である。『泉』のような、既製品にアレンジを加え新しい視点を見せるような手法が使われている。

『泉』はこうして、「あたらしい価値観」を提供することにより、自身の価値を取り戻すことになったのである。さてこれがどうメディアアートと関わっていくことになるのだろうか。