人の性格の無限なることを知る

8/3 15:36
さっきまで自分は、フィリップ・K・ディックが著すところの「ヴァリス」という本を読みながら電車に揺られていた。本を読んでいて、ヤクで頭がおかしくなるような感覚を得たのは初めてだった。この文章を今の自分を知る人が見たら間違いなくドン引くだろうが、(自分にとっての)事実なんだから仕方がない。

で、ついこの間まで僕はエーリッヒ・フロムの著作に触れ続けていた。会社の異動で乗るようになったバスの中で、必死こいてフロム理論の解説書を読んでいたのがつい昨日までだ。ユダヤ教由来? のヒューマニズムを徹底的に貫いているであろうフロムに対して、さっきまで読んでいた「ヴァリス」は主人公の友達が睡眠薬で自殺を試みようとしている場面から始まる。で、主人公は何とかしてその友達を助けようとする。読んでいて、フロムの言う「ナルシシズム由来の愛」そのものだな、と思い妙に感銘を受けた。

もう1つ面白いとおもったことは、物語は第三者視点で書いてあるように見せかけて、実は一人称視点そのもので書いてあることだ。しかも、主人公の名前はファットと言う(らしい)のだが、「ファット」と「僕」が別の人間(人格?)であるかの如く書かれていたことだ。冒頭、友達の元夫を分裂症呼ばわりする場面があったが、かくいうあんたがそうだろ、と思わずにはいられず、ちょっと苦笑の気分になった。というか、この小説自体別の誰かの妄想の産物なのでは? と思ったくらいだ。いや実際はディックのフィクションなんだろうが、読んでいて文章に一切登場のない人物の存在を明確に感じ取ったのは初めてだった。

ともかく、この小説自体に出会ったことが未知との遭遇みたいで、若干興奮気味である。自分の感覚では、これはかなりヤバい方の興奮であることを感じているが、もはやこの小説を読むことを辞められそうにない。マジの中毒に陥った気分だ。

ちなみに、冒頭引用したX(旧Twitter)の投稿は、この小説を読む前にポストしたものである。とある本とぼかしてはいるものの、このフレーズもフロムの本からだ。なんの著作だったかは忘れてしまったが。

頭から離れない原因ももう分かっていて、自分がそういう状態に陥っていることをはっきりと自覚しているからだった。会社での自分は、まず間違いなく「作り出された社会的性格」で行動しているように思う。人前で見せるようなあんな陽気さや話しやすさを、元来の僕は持ち合わせていない、としか思えないからだ。悲しいけど。

じゃあ、自分の本来の性格は? これに対して、自分は答えを見つけられずにいたが、表題にあるような言葉を思い出し、これが自分にとっての答えになり得るのでは、と思った。つまり、私の性格色々、分裂気味。ほら今だって、無意識に一人称を「私」で書いた。今まで「僕」とか「自分」だったのに(のこでさえもう分裂しているけど)。

というより、私が過度な感受性を持っている「エンパス気質」であろうことも関わっているのだろう。他の人間をあたかも自分かのように感じ取る。今少し冷静になったけど、さっきまでの自分にはファットが乗り移っていたような気がしてならない(今この文を書いている時点で16:06くらいである)。

てかお前、「自分の愛を育む」とかほざいてたのはどうした。──いやそれは、忘れているつもりはない。人として生きていく上で、それは大事な要素だからね。──でもだからって、この「ヴァリス」を読まない理由にはならないだろう。読みたい本を読んで、何か問題でもあるんかい?

本の虫に成り上がって(たぶん)、 2ヶ月くらい経ったように思う(たぶん)。その中で自己の内面で色々な変化が起きているように感じる。その感覚が好きだからあれこれ読んでいるけど、今の思考の流れ的に、いつか人との縁が切れ、孤立している自分が想像出来て、破滅の予感がしている。でももはや辞められそうにないから、これもまた中毒に陥っているのかもしれない。



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