(2023年8月24日)父が亡くなってニヶ月とはんぶん

『お父さんの最初で最後のお願い』

父は、わたしのすることに何も言わない人でした。今思えば、言葉が少ない父の全肯定だったけど、言葉が少なすぎて関心がないのか?と感じるほどでした。

大学入学と同時に地元を離れたわたしは、連絡をマメにとるタイプではなく、業務連絡のようなものを時たま母にするだけ。
そんなわたしが父に連絡するのは、大学の授業初日にバス停が見つからずに半泣きになったとき(父がタクシーの存在を教えてくれました!田舎の郡上ではタクシーは珍しく、電話で呼ぶものだから、駅にいるとは露程も思わず盲点でした)、大学を卒業した春、突然アトピーを発症して家事さえもできなくなったとき(父はすぐ帰ってこいと言ってくれ、おかげで実家で休養できました)、大阪で住んでいたシェアハウスから急遽退出することにしたとき(今週末引っ越すから手伝って!とお願いしたら、ハイエースを手配して大阪まで来てくれました)、一年半働いていた会社を辞めることになったとき(「親には自分がどうしようもないから辞めることになったと言え」と上司に言われてそのまま伝えたけど、何も聞かずにわかったって言ってくれました)、島根でもしかして車検を受け忘れた!?とパニックになったとき(電話しながら車検証とか見直したら大丈夫でした。仕事中だったけど落ち着くまで付き合ってくれました)


書いていて泣けてきた。お父さん、わたしに一言も文句言ったことなかった。全部全部 受け入れてくれてた。
そして泣き止んで冷静になって思うんやけど、あの人何考えとったんやろう。笑
わたしがお父さんに連絡するのはいつも緊急のときで、そんなときお父さんはたいていどこか嬉しそうでした。


父にステージⅣの癌が見つかったのは、2022年11月のことでした。余命半年〜1年と宣告されました。
わたしはその頃、3月末で島根の会社を辞め、郡上に帰るつもりでした。会社の人にも家族にもそう伝えていました。
わたしに何ひとつ望んだことのなかった父の最初で最後の願いが「早く帰ってこれないか」でした。
はじめは母伝いにそれを聞いて、その後に電話で言われたときには、わたしにはわたしの生活がある!と正直思いました。急に仕事を辞めることにも抵抗がありました。
それでも、12月や年末年始に帰省したときに、わたしが帰らなきゃいけないなと腑に落ちて、1月末で仕事を辞めて実家に戻ることにしました。
そのことを父に電話で伝えたとき、「ありがとう」ととてもホッとしていたことを覚えています。

2月に大学病院から家に帰ってきて、亡くなる6月までの4ヶ月間をいっしょに過ごしました。
当初の予定通り3月に仕事を辞めていたら、2ヶ月しかいっしょにいられなかったし、その頃には身体も弱くなってたから、耕運機の使い方とか山水が止まったときの対処とか教えてもらえんかったなぁと思います。
そして、病院の付き添いをしたり、家でのんびりしたり、何でもないおしゃべりをしたり、何氣ない日常も少ししか過ごせんかったんやなぁ。

何も望まない人だったから、最後にお父さんの願いに応えさせてもらえて、有難かったです。
お父さんが言ってくれたおかげで、ふんぎりがついたし、とても大事な宝物のような時間を過ごせました。
たくさん考えたやろうし、遠慮もしたやろうし、勇氣がいったやろうし。
お父さんのため以上に、わたしのためである願いでした。「帰ってきてほしい」って伝えてくれてありがとうって、お父さんに伝えたいなぁ。


✳︎
6月は鬱々としていて、7月は溌剌としていて、お盆が終わってバイトもひと段落したら、氣が抜けたのか最近はよく泣くようになりました。ふとお父さんのことを考えて、記憶を辿ってしまう。前みたいにわんわん泣くというより、静かに涙が流れてる。
とはいえ、人といるときは元氣やし、「大丈夫?」って聞かれても「大丈夫」って答えます。
“誰か” に抱きしめられたいなぁと思って、その “誰か” は自分自身なんよなぁと思う。わたしがわたしの氣持ちに完全に隙間なく寄り添う。包み込む。
結局のところ、わたしの氣持ちはわたしにしかわからない。他者にわかってもらおうとしたところで、寸分の狂いもなくわかってもらうことなんて不可能で、外側に求めるのはやめようと、とても辛い今だからこそ思うようになりました。


✳︎
写真は、島根から友人が遊びにきてくれて、アテンド中の石徹白。一枚の画のようにここだけ光ってみえて、友人にフィルムカメラを貸してもらった。50点かな。いや、40点かな。もっと見たまんまに写したかったな。
わたしはわたしの瞳に映る景色が世界で一番美しいと思っていて、そう世界を瞳に映し続けたいと思う。

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