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O mio babbino caro(私のお父さま)①


歌のレッスンでOmio babbino caro
を歌うことになった。


私のお父さま。
それは、私のピアノ人生のレールを敷いてくれた人。

『父』を思い出す時、ニコニコしている顔はほとんど思い出せない。

物心ついた頃から私はいつも怒られていた。
「叱る」、じゃなくて「怒る」。

私が2歳半頃、麻疹から髄膜炎を起こし、入院したことがあった。

当時は脳膜炎と言っていて、
高熱が続いたため、父は後遺症が残るかもしれないと思っていたそうだ。

少し熱がおさまってきた頃と思うが、
父は仕事帰り、必ず病室に寄り、友人が営んでいた古本屋から絵本を仕入れてはベッドに並べ、
片っ端からそれを私に読ませるのだった。
未だにあの時の光景ははっきり覚えている。
まるで幽体離脱して眺めているかのように。
ベッドの上でしゃくり上げながら、まだ読めもしない字を無理矢理読まされている私。
ただただ後遺症が心配で、無理矢理字を覚えさせようと、心配が怒りに変わっている父。
父の来る時間になり、廊下を歩く音が響いてきただけで泣いていた。


お陰で後遺症もなく?退院し、普通の子どもと同じようによく遊んだ。

しかし、相変わらずよく熱を出した。
熱を出すと父は私をおぶって、近くの医院に連れて行った。
昔は医院と家が一緒だったので、医師は叩き起こされる。
背中越しに、白衣を着ていない先生が普通のおじさんに見えた。

そんな日々が続いたある日、
何を思ったのか父は、カワイ音楽教室の体験レッスンに私を連れて行った。
父と一緒に後ろの列で、教室生(56歳)が弾くのを見ていて、「こんなこと私にできるのかな」と、不安になった。

ある日、家にオルガンが来た。
家と言ってもその頃の我が家は6畳一間と4畳くらいの玄関と台所が続きであった、小さなアパートに住んでいた。

耳は良かった。と、自分でも思う。
最初の頃は、楽譜を読まず耳コピで弾けた。
しかし、八分音符やちょっと複雑なリズムがあると、やはり楽譜を見なくてはわからなくて、
それがまた、楽譜を見てもなかなか
読めなくて、
父を怒らせることになった。

難しくて楽しくないから練習しないいつまでも弾けない怒られる。
毎度これだった。

もちろん、父も母も音楽とは縁もゆかりもないので、ドレミのドもわからない。


ある日、アパートの2階に住んでいた、ご夫婦が私をお銭湯に連れて行ってくれた。
その帰り、小さな中華屋さんに寄ってラーメンをご馳走になり、
家に帰ると、家の中は真っ暗。
何も見えない。
みんなを起こさないように静かに寝ようとすると、
「練習はどうした?!弾いてから行ったんだろうな!!」と、暗闇から父の声がした。
何も答えずにいると、今から練習しろ!と、夜な夜な泣きながら暗がりで練習した。

『こぎつねこんこん』
5歳の頃。

苦い思い出の曲になった。


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