音楽史:チャイコフスキー

ごきげんよう、さきすみです。

今回も歴史をやりたいと思うんですけども、チャイコフスキーさん、良く知らないですが、やりたいと思います。ここから、700文字くらいは引用なので、面倒な方は、飛ばしていただいて、最後の本題を見ていただければ、いいと思います。

わたくしが、自分の話をしたい故やります。ウェキペディアですが。

1840年生まれらしいです。交響曲、バレエ音楽、協奏曲などが愛好されているらしいです。

なんか、ウクライナ・コサックのチャイカ系を祖先に持つらしいですね。伝統的はウクライナの苗字らしいです。祖先には軍関係者が多いらしいです。
北方戦争における戦いで、ピョートル大帝の下で活躍したと書かれております。そうでしたか。

凄いです。かれは6歳の頃に、ドイツ語とフランス語を流暢に話せたらしいです。

なんか、オーケストリオンとかいうオルガンなんですかねで、演奏をしていたらしいです。

モーツァルトさんとかに夢中になったと書かれています。
で、コレラでお母さまが無くなってしまうらしいです。
ドストエフスキーさんと異なってですね、お母さまが死んだことに、大きな打撃を受けます。
この直後から、音楽に熱心に取り組むようになったそうです。

法律学校を出て、法務省に入ったみたいですね。意外ですね。
平凡な文官として歩みながら、ロシア音楽協会に通い、編曲と作曲を学んだようですね。
(本当ですか?私今から学んでも遅くないかもしれません。)

23歳の時に法務省を辞して、音楽に専念するようになるみたいです。
わぁ、ああ、ロシア5人組知ってます。凄い有名です!

なんか、音楽の授業でやった気がします。
彼らと知り合いになるみたいです。

まぁ、この後色々あるみたいです。
歌手と婚約するが破綻となるとか、批評家になるとか、
未亡人の方から資金援助を受けるとか。

で、そして、アントニーナさんに求婚され、結婚したものの、結婚はし失敗で、自殺を図るほど追い詰められたと記載されてますね。
どんな感じで失敗だったんでしょうか?

で、『白鳥の湖』と、『エフゲニー・オネーギン』を作りましたとさ。
『オネーギン』有名じゃないですか!プーシキンさんです。

あと、なんか長く務めた音楽学校を辞めて、ヨーロッパを転々とするらしいですよ。
まぁ、この後の話で、有名なのでは、『くるみ割り人形』ですかね。カーネギーホールで、こけら落としに出演、大成功と書いてあります。凄いですね。

”アレ3”によって、国葬が決定されたらしいですね。

分かったことは、大体ドストエフスキーさんと同じくらいの時期に活躍していると言う事ですね。
ドストエフスキーさんの方が年上です。19歳ぐらいですか。
ドストエフスキーさんの約十年後くらいに亡くなっておりますね。

私は今日、この歴史を話す気はありませんでしたが、まぁ、教養として学んでおくのもいいでしょうと言う事です。

で、ここからが本題なんですけども、わたくしが、3年前に、世界史Aを受けて、全てを失敗し、『白痴』を読んで、気を紛らわせていた時にですね、このチャイコフスキーさんの曲を聴きました。NHKで。『四季』の一月です。

なんか、暖炉の火が煌々と燃えていて、私は、虚ろにその映像をずっと見ていたんですけども、(全く病んでいませんでしたが、)自分の人生を感じるような気がしたんですよ。自分は暖炉で燃やされている木のようだ、そう思ったものです。

なんか、暖炉の火の映像を見ながら聴くのをお勧めしたいんですけども、寒い日に聴くのにぴったりなんですよ。

11月のトロイカも見ました。雪の上を走るトロイカをただじっと眺めていました。雪の上を颯爽と走っていく、”雪上のツァーリ”、です。
テキトーに言ってみました。意味はないです。


まぁ、チャイコフスキーさんの弱弱しい性格から生まれる細やかな音楽であったんだろうなという気がしなくもないですね。

本題は以上です。



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