遠回りの理由はなんだ
これ、全てにおいて言えるなと、そう思った。
少し要素が混濁してはいるが、
努力すること/全力でやること/泥臭いこと/苦手と対峙すること/
なんだか根性論だなぁ、とクサくて恥ずかしくなってしまうようなこと、
その辺りに普遍的に言えるものがこの一節にある気がした。
私は昔から何事にも全力になってしまう性分で、
”想い”とか”根性”だけでなんとかしてきて、
その度に「あぁ、もっとスマートにやる方法はなかったのか」
なんて思ったりもして。
そういう時に、とりあえず自分を納得させる言い訳として、
「頑張ったら報われた瞬間や完成した瞬間の達成感、喜びが倍増するんだ」
と、理解するようにしていた。
事実その要素がゼロではないし、
何かの大会・イベントを一緒に頑張る仲間がいるような場合は、
同じ苦楽を乗り越えての本番の一体感・感動はひとしおだ。
しかし、
その一方で、
辛い時期と報われた瞬間の落差を感じたいから頑張るのか?
と思うと、それもなんだか違う気がした。
わざわざ感動を増幅させたいがために、頑張っているんだろうか。
そんなに刺激が欲しいのか?
正直、一体感や感動なんていうものは確かに思い出にはなるが、
自己満足と言えばそれまでという気もする。
自分に聞いてみても、
「自己満足したいから頑張っているわけでもない」
そういう返事がやってきた。
その一瞬のためだけに頑張れるほど、我慢強くもない。
加えて、最終的に同じアウトプットになるならば、
しっかり最短ルートを組み立てて、
ショートカットしてたどり着いた方が良いに決まっている。
時間も無駄じゃないし、労力も使わない。効率的だ。
ではなぜ、あえて全力でやったり、最低限以上のことをしたり、遠回りしたり、向き合わなくて良いことにも向き合ってみたり、本気で闘ったりするのだろう。
どうにも説明がつかなかった。
そうモヤモヤしていた時に、引用した本の一節に出会った。
驚いた。
これだ、と。
私は最終的な結果にばかり目を向けていたから、
”一瞬の達成感や喜びのためになぜ頑張れる?”と迷宮入りしていたのだが、
そもそもそれが間違っていた。
私が大切にしたかったのは、結末だけではない。
大事なのは、そこに至るまでの過程だった。
そして、結果に対する快楽(感動や高揚感といったもの)を求めているのではなく、過程における学びを求めていた、ということならばこれまでの違和感に説明がつく。
本気で苦しんだり、悩んだり、失敗したり、寝不足になってうとうとしながら頑張った日々。
その中で知り得た新しい自分の感情や、人との出会い、触れてこなかった分野への知見、記憶に残る景色、そういったもの全てから何かを学んでいる、財産になっていると、無意識にどこかでメリットを感じていたのだ。
遠回りしないと、出会えなかったこと・もの。
それがとても愛しくて、宝物なのだ。
贈与の話でも、
ストーリーが大事、という話があった。
同じ時計でも、誰かからプレゼントされた時計と、自分で買った時計とでは価値が違う。
プレゼントを失くしてしまって慌てて同じものを買っても、もうそれは以前と同じ価値はない。
手元に届くまでの、ストーリーが抜け落ちるからだ。
何かを目指して力を出し切るということは、すなわち省エネをしたら見られなかったストーリーを見ることである。
遠いなぁ、無駄になるかもなぁ、なんて思いながら歩いていく道中自体を、
私は楽しんでいるんだと思う。
だから今後何がどうということではないのだが、腑に落ちないことが一つ腑に落ちた感動をそのままに。
SUPER BEAVER、ありがとう。
【ちなみに】
もちろん、なんでもかんでも遠回りしたいわけではない。
遊園地に行ったら普通に並ぶのではなくショートカットで乗れるチケットがあればそれで乗りたい。
鈍行より新幹線でささっと行きたい。
しかし考えようによっては、並んでいる時の友達との会話が楽しかったり(むしろアトラクションは付属品くらいの勢い)、鈍行の車窓から見える景色が素晴らしかったり、そういうこともある。
そんな曖昧なことをぽやぽやと思いながら。
どっちが良い・悪いの世界ではないから、
結論は特に書かないnoteでご容赦いただきたい。
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