花束の価値
「はい、どうぞ。お疲れ様」
税関の流れ作業のように、自分の顔より大きい花束を渡された。
幼い私の視界いっぱいに広がる花。
つん、と花の香りがする。
「わぁ素敵。綺麗だねぇ。先生、ありがとうございます」
隣に立つ母に促されて会釈したが、
正直全然嬉しくなかった。
花束の裏側
幼稚園に上がる頃、つまり物心がついた頃には、すでに私はピアノを習っていた。
2つ上の姉が習っていたのに便乗して、
自分の意思とは関係なく始めていたのだと思う。
ピアノの習い事というものは、
その教室の方針にもよるのかもしれないが、
私の通っていたところはコンサート、発表会なるものに出演する機会が多々あり、
その様々なイベントの最後に必ずと言って良いほど花束が渡された。
淡いピンク、黄色、空のような水色。
時々によって色が違ったり、生徒間でも色が違ったりした。
私はというと、その豪華にリボンがあしらわれた花束を受け取っても、なんの感情も動かなかった。
今でこそ、花束が割と高級品であるということもわかるが、物の価値が分からなかったから喜べなかったわけではない気がする。
大人になって、
というかここ一年くらいで、
人から花束を受け取る機会が急激に増えた。
そういうめぐりの年なのか分からないが、とにかく増えた。
誕生日、さきっぽかったから、散歩してたらお花屋さんがあったからーーーーー…。
その時々で理由も様々だが、
どれもおしなべてとてつもなく嬉しかった。
心が動いた。
その時、「あれ?私って花に興味ないんじゃなかったっけ」と不思議に思った。
思ったが、
とりあえずの解として「もらった花を飾ったり愛でたりすることの価値が分かったのだな。そして、花束は安いものではないから、それを私のために買おうとしてくれていた相手の気持ちが嬉しいんだな」と理解していた。
その喜びはひとしおだったので、
私自身人によく花を贈るようにもなった。
そんな中、
やはりなぜ幼少期の花束と今受け取る花とで喜びに違いがあるのか本当のところを考えたくなった。
なった、というか、
なんの前触れもなく突然解が降りてきた。
それは、
"私のため"であったかどうか、
その花束の裏側が重要なのであった。
ピアノのコンサート終わりに受け取った花束は、
物の価値が分からなかったからありがためなかったのではない。
流れ作業のように、出演者には誰にでも渡される物で、私のために、というような、顔を思い浮かべて買ってもらったものではない。
コンクール優勝、で、仮に私にしか渡されなくても結果は同じだろう。花を購入するときは誰が優勝するのかなど分からないはずであって、それは誰に渡されても良い花束なのだから。
そして、
コンサート演者には最後花束を渡す、といった儀礼化されている仕組みも喜べない理由の一つなのだった。
初めは感謝や労いから始まったかもしれないが、繰り返すうちにその行為の本質を忘れて、ただ形式化されたプレゼント。
毎年の予算にすでに組み込まれている"花束代"。
これらはどれも、
私の極端に嫌う、「私自身を見てくれていないこと」と繋がる。
でも、
私の誕生日に花束を贈ってくれるようなことは、
他にも祝い方はあるうちの花束であってあらかじめ組まれたプログラムではないし、
私に贈ることを前提に相手が悩んだり想像したりして買ってくれたことが本当に嬉しい。
花束の本当の価値って、
ここにあったんだなぁ。
同じ物でも、
どう渡されるか、どう受け取られるかで価値が変わるって本当に不思議で面白い。
世界のいろんなことって、どれもそんな風にできてるんじゃないか、って思った。
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