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野球応援のお話

春のセンバツが始まりました。

私は野球が好きなのですが、高校の時に応援団に所属していた事もあり、アマチュア野球を見る時には応援にも注目しがちです。

私の母校では、早稲田メドレー(大進撃→スパークリングマーチ→コンバットマーチ)や、アフリカンシンフォニー、不死鳥の如く、チャンス法政など多くの六大の曲を使っていました。

なので、実際に試合を見に行ったり、テレビで甲子園を見たりする時にその曲が流れるとつい小さく振りをしながら応援しているチーム以外でもノリノリで聴いてしまいます。

応援の思い出はたくさんあって、1番思い出に残っているのは、夏大最後の試合となった日と、その日起きたある野球部員との思い出です。

中3〜高1にかけて、私はある野球部の子が好きでした。その子とは、中高6年間唯一同じクラスの子になり、口をほとんど聞かなくなった最後の夏、急に声をかけられました。

「〇〇、俺が代打で出た時はアフリカンシンフォニー流して欲しい」
ベンチ入りはしていましたが、1回戦ではスタメン入りすることは無かった彼。
奇しくも最後の試合となる2回戦の前日にそう声をかけられました。
「分かった、曲出しの時に伝える」と答え、
別れました。

スタメンの選手たちには大会前に打席に入った時に流して欲しい曲を聞いていましたが、ベンチの選手たちには聞いていなかったのでそう声をかけてくれたのだと思います。

迎えた試合の日、私たち応援団は試合前から
事件が起こりました。
公欠をもらえると思っていた吹奏楽部が授業があるからと許可をもらえなかったため欠席。
持参のスピーカーで応援曲を流そうとしていたのですが、そのコンセントは3つ出っ張りのあるタイプで延長コードに刺さらない…

「え、音が無い…」

正直、絶望しました。
コロナ禍だったため、声が出せず、これだと音は太鼓と手拍子しかないのです。

しかし、ヒーローが現れます。
部活の顧問です。
顧問は元々吹奏楽部の顧問で、ご自身も今でもトランペットを吹く方。万が一の時のためにトランペットを持参してくれていました。

しかし、急なことだったので先生が吹ける曲も限られていました。私が1番 曲や野球に詳しかったので、先生と打ち合わせをして、先生のトランペット1本と手拍子と応援団・野球部の太鼓のみで延長まであった試合を乗り切りました。

正直、コロナの影響で声を出すなと決まりがありましたが、とにかく応援を届けたくて、声を出しながら応援していました。
本部に野球部の部長先生がいたので、見回りに来る高野連の方も黙認してくれているようでした。(感謝しかありません…)

アフリカンシンフォニーを流してくれと頼んできた彼は、後半で代打出場。
先生に「アフリカンお願いします!〇〇に頼まれてるんです!」とお願いし、私は通路で手拍子をし願いながら見守りました。

彼はきちんと代打でヒットを打ち、出塁!
さすがに涙出ましたね…
試合後にLINEをしましたが、まぁ、そんなに話す仲でも無かったので「ありがとうございました」とだけ返信が来ました。
それでもあのヒットは本当に嬉しかった。

さて、その試合の行方はというと、勝ち越していた9回で同点に追いつかれ、延長の末に逆転負け。

3塁側だったので、相手校の逆転のランナーがが3塁ベースを蹴った時にはもう結末が見え、涙がボロボロと落ちました。

1年生の頃、シードだったのに応援に参加する部活の先輩たちが不仲なせいで不甲斐ない応援をしてしまった試合で終わり、2年生の夏はコロナで中止。
やっと応援に入れる最後の夏こそはと、部活間で会議をして挑んだのに全力で応援を届けられることなく終わってしまいました。
帰りのバスは、もう1人の女子団員と号泣しながら帰りました。

一方、スタンドにいた周りの子達は野球のルールを分かっている子達が少なかったため、チアにいたクラスの友達は「さきが泣いてるのを見て試合が終わったって分かった」と言ってて後に爆笑しかありません…

まぁ長々と書いてしまいましたが、高校球児だけでなく、スタンドにいる応援団、チア、吹奏楽も彼らと一緒に戦っています。

特に夏の大会は、暑い中で声を出し、型を振り、音を奏で、自分で言うのもなんですが選手たちと同じくらい見えない努力をたくさんしています。
(他校との合同練習で山を走って上り、頂上で鬼のように筋トレさせられて翌日起きられない程バキバキに筋肉痛になったこと、忘れられません…)

ぜひ、応援の音やテレビに映る姿にも注目しながら、センバツや夏の甲子園を見ていただきたいです!!


ちなみに、写真は後輩たちが開いてくれたお別れ会(?)で黒板に書いてくれた似顔絵。
隣の小さい絵は、私が好きな櫻井翔だそうです、ありがとね後輩たち。

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