三島由紀夫と聖杯

筆者が生まれる前に亡くなっているとはいえ、そのセンセーショナルな死によって、職業としての作家という立場を超えて、三島由紀夫という存在は、時間の流れに逆らうかのようにたえず再生し続け、後代に謎解きを提示している。

作家として最高の栄誉に浴することはかなわなかったかもしれないが、没後50年にあたる昨年2020年には、腫れ物に触るような特集が多数のメディアから発信された。
NHKBSなどの番組をいくつか見たところ共通しているのは、親交のあった有名人による三島とのエピソードなどで、華々しいキャリアとのギャップや、不可解な生涯について示唆を与えるところに止まり、最も知りたいことがわからずじまいで、危険なところを美談にすり替えられている印象が残った。

当時を知らないからなんとも言えないが、偉大な作家のように三島由紀夫を扱のはどうも違和感があり、本当に日本のためにやっていたんだろうかという疑問が出てきてしまう。
というのも、彼が命を懸けていた対象は、彼だけでなく、その時に至るまで民衆が共有していた概念としての「日本」であって、彼がそれを守るために行動すればするほど、その「日本」はますます毀損され、「日本」を「日本」たらしめるために犠牲になった有象無象の存在を蘇生させることになってしまったから。

その意図を彼のような卓越した怜悧な知性の持ち主が意識化できずに操り人形として振る舞うことに甘んじていたこと、そして誰もがそこから逃げることを許されない絶望感が、あの事件に導いたのではないかと考えられる。

とすると、そういう化け物が、私たちが学校で習う歴史よりずっと古くから日本を棲み家にしていて、それに対峙するしかなくなった者は孤独な闘いに命を捧げるしかなく、それ以外の者はそれを見せないように道化になるしかないという構図が、日本で生きる者のさだめであるのではないか。

関連するキーワードとして、中曽根康弘、日本航空123便墜落事故などとともに、時間ができたらゲマトリア数を調べようと思う。

三島由紀夫の不可解さに興味を持って『春の雪』を読み始めたが、筆者がもともと小説を読まないためなのかもしれないが、とても文章が巧く引き込まれるように読み進められるけれど、こいつら(小説の登場人物)がどうなろうと私の人生になんの影響ももたらさないという、無関心さが終始頭をもたげ、共感できる作品ではないなという感想を持った。もちろんそういうことで評価されていたわけではないので蛇足として。


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