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私がトランスを決意した理由。

「本当の自分に戻りたかったから」

他の方のトランス(生まれた時にお医者さんによって割り当てられた性別ではなく、自分自身が希望する性別で生きようとすること。性別移行とも言う)した理由を聞いていると、上記のような表現をよく見かける。

でも、私の場合、これだとどこかしっくりこない気がしていた。

先日友人と、「どうして家業を継いたり、親と同じ職業に就く人が多いのか?」という話をしていた時に湧いてきた言葉が、これまで語ってきたことと少し違って新鮮だったので残しておく意味でも綴ってみたいと思う。

◆カミングアウトした時の家族の反応
はじめに、私が家族にカミングアウトした時の反応をお伝えしておく。

私は現在実家住まいだ。母と祖父母、叔母と暮らしている。

父にはちゃんと伝えてはいない。先ほど実家暮らしと書いたが、うちの両親は昔から折り合いが悪く、私と妹がともに家を出たタイミングで母は自身の実家(私にとっては祖父母の家)に戻っている。なので私は現在"母の"実家で生活をしているため、父とはしばらく会っていない。母から「女装しているらしい」とだけ聞いているらしい。

祖父と叔母は適度な距離感を保っているが、ネックになっているのは母と祖母だ。特に母は相当ショックを受けたようで、顔を合わせてもしばらく口も聞かず、たびたび互いに涙しながら対話することを重ねてきた。その甲斐あってか、会話くらいはするようになったが、応援や受容などには至っていない。祖父母が健在なうちはしばらく大丈夫だろうという状態を保っている。

◆母と妹と、私と。
母は私の憧れだった。音楽教室を営む母を見て育ち、好きなことを仕事にしている母のようになりたいと思っていた。

ところで私には4歳下の妹がいる。幼少期には母の意向によって私も妹もピアノを習うことになったが、練習嫌いですぐに断念した私と違い、妹は3歳頃からピアノを習い始め今年の春にはついに音大の大学院まで卒業した。そんな私にとって妹の存在は目の上のたんこぶだった。
ほとんど家にいない父を除いて、母と妹と私の"サンコイチ"でいつも行動していたが、同じ共通項(ピアノ、音楽)を持つ2人の間に私は割って入ることができなくていつも疎外感を感じていた。
今思うと、この辺りのことが私の愛着形成に影響を強く及ぼしたように感じる。私は、寂しかった。

◆転機になった大学進学
高校を卒業して京都の大学に進学し、一人暮らしを始めた。ここで私にとって転機になった出会いがあった。

私が進学した京都産業大学には「F工房」という場所があった。F工房の"F"はファシリテーションのFで、「学内にファシリテーションのマインドと手法を広める」をミッションとした大学の部署の1つだ。

もともとは、「キャリアReデザイン」という1つの科目がきっかけとなった。同大学で留年や中退が問題になった時に、「授業に対して低意欲、低単位な状態にある学生に対して授業をしよう!」と立ち上がった科目だ。キャリア教育の一科目として運営されることになったが、学生一人ひとりの人生にかかわるものなので何かを「教える」ことはできない。そこでどうするか?ということで着目したのが「ファシリテーション」だった。何かを導き、教え諭すのではなく、学生自身が自らの大学生活を相対化してみることを意図し、周りの人間はそれを支援するのだという視点の転換が起こった。

そうして実践を重ねていく中でこの「ファシリテーションという手法とマインドは、大学内の他の場面でも有用だ」ということになり、1人の教員が発起人となって文科省の「学生支援GP」に採択され部署としてオープンされた(現在は大学の予算で運営)。いわば、「大学内NPO」だ。

このF工房はちょうど私が入学した年度にオープンしていた。ここには多様な人たちが集まっていた。部署なので職員という属性の人たちがいたが、いわゆる事務職員というお堅い雰囲気ではなかった。私がにとっては、"兄"と"イトコのお姉ちゃん"と"親戚のおばちゃん"のような存在だった。一人暮らしで不安と孤独を感じていた私にとって「安全基地」のような場所になった。

ここがあったからこそ、その後学外の活動に参加することができ、さらに多様な人たちと出会うことができた。

◆母には、母の世界がある。
話を家族へのカミングアウトに戻そう。

母とカミングアウトに際して対話を重ねていく中で、1つのお互いに「すれ違った」と感じる体験に話が及んだ。それは、高校卒業後の進路について。

私は高校卒業後、本当は音楽系の専門学校に行きたいと思っていた。川嶋あいやゆずが好きで、彼女らのようにストリートライブをして歌手になりたいと思っていた。しかし母は大反対で、音楽系の進路の不安定さを身にしみて感じてきた母にとって、音楽系の、ましてやクラシックでもないポピュラー音楽を進路として選ぶのは無謀だとしか思えなかったのだろう。

結局、私が断念する形でその夢は諦めたのだが、その後もどこかでずっと「諦めた」ということが尾を引いていた気がする。
母もそれを思っていたらしく、対話の中で「本当に申し訳なかった。今ならあんなことはしないと思う」と言われた。そして、「遅いかもしれないけど、あなたが望むなら取り戻していきたい」と、母の音楽教室で歌ってみないか?と提案があった。

母との関係修復を希望していた私にとっては願っても無い申し出に二つ返事で了承した。ただそこでネックになったのは「服装」だった。さすがに女装では出させられないと言われ、私も「この時だけ」と折れた。

そこで発表会用の衣装を一緒に買いに行くことになったのだが、この時の感覚はすごく印象に残っている。母がこれはどう?と渡してくる一つ一つのアイテムを受け取っていくうちに、自分の感情が死んでいくような気がした。私がいいなと思うものは怪訝な顔をされ、代わりに母が良いと思うものを渡される。そのやり取りを繰り返すうちに「もう何でもいいよ」と母の好みに従順になっていく感覚に陥ってきた。

発表会当日を迎えたが当日も無難にこなして終わった。当日で印象的だったのは、終演時にマイクで観客である生徒やその保護者たちに向かって挨拶をする姿を、客席から眺めていた時のこと。近くに思っていた母がすごく遠くに感じた。私が知らない人たちと過ごしている時の「知らない母」の姿を見た時、「ああ、ここは母の世界なんだ」「母には母の世界があるんだ」と思った。

ちょっと寂しい気もしたけど、どこかスッキリした気もした。

◆母からの決別宣言
私にとっては母が基準だった。でもそれがあの瞬間に一区切りついたのかもしれない。

母にカミングアウトした時のことを改めて思い出す。母は私に期待していたんだと思った。不仲だった父親の代わりを。若い恋人のように私をあてがって一緒に買い物に行ったりごはん食べたり。そして一緒に事業をしたいと。妹に音楽的な面を、私には教育的な面を一緒に担ってもらう夢を見ていたらしい。

嬉しかった。ずっと母に認めてもらいたかったから。音楽という母の根幹の期待に応えられなかった残念さと寂しさを、別の形でも貢献できる、と。

でもどこかで違和感を感じていた。その夢は母の夢で、私はたぶん合わせることになる。もし必要であればサポートをする用意はあるが、母の夢を叶えてあげたい訳ではないなと気づいた。

「これじゃ、ダメな気がする」そう思った。

母の望むとおりに生きるのなら、それは私の一部を殺すことになる。それはラクになる部分もあるかもしれない。でもそれはできない、と思った。

私には私の世界があるからだ。母に流されそうになった時、支えになったのはF工房や学外の活動で出会った人たちの存在だった。

「あんなふうに生きたい」と思わせてくれた人たち。そのためには私は、私の選択をすることが必要だと思った。

自分がどうしたいのか?何が好きで、何が嫌いなのか?そうしたことを重ねていくことで私は自由になれるとわかっていた。

今もまだ道半ばだ。自分がどうしたいのか、どう生きたいのか迷っている真っ只中。でも、感覚はもうわかっている。それを信じて、進んでいきたい。そう思っている。

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