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自分の家族から「家族とは何か」について考えてみた

■家族ってなんだろう

「家族」ってなんだろう。

そんなことを考えたのは、毎年家族で行っているキャンプでのこと。

地元から1時間半くらい行ったところにある、私たち家族のお気に入りのキャンプ場。小さい頃からずっと行ってるから管理人さんも私たちのことを覚えててくれて、予約時はいつもの同じバンガローを用意してくれる。ありがたい。

そして、このキャンプ場の主役は「五右衛門風呂」。薪を割って、くべて、窯で火を起こす。火をおこしすぎると熱すぎて入れたもんじゃないから、どのタイミングで入るのかもミソ。(とかいって、いつも担当は父と兄)。
お風呂に入る時は、釜に直接入ると底が熱いから、木の板の上にのって屈んで入るのがコツなのだが…これが最初は意外とむずかしい。小さい頃は怖くて母に板を押さえてもらいながら入ったような。笑

■そんな父をみて

そんな恒例のキャンプに行くにあたって、私と一つ上の兄は東京から飛行機で北海道へ。私は仕事の関係で1日目の夜からの参加になったのだが、空港には父が迎えに来てくれた。

父はシャイな部分があるから、久しぶりに会った時にあらからさまに喜ぶ様子は見せない。…けど、あれは確実に娘に会えて嬉しいときの顔だ。まぁ、わざとそれを父に言ったりはしない。そんな父をみて私は、「わかってるよ」と、心の中でニヤニヤするだけ。

車の中では、東京での生活のこと、仕事のこと、いつまで北海道いるのかなど、たわいもない会話をした。仕事の話では少し共通する用語が出てきたりして、まさかの話題で盛り上がってたのしかった。そして、車の窓から吹き込む空気がおいしくておいしくてたまらなかった。

■そんな兄をみて

キャンプ場に到着してバンガローに入ると、「おかえり〜」と笑顔で迎えてくれた母。そして、まだ20時頃だというのにすでに爆睡中の兄がいた。


兄はいつもそうだ。毎年キャンプにくると、これでもかというくらいとにかく寝る。朝はまず起きてこない。どんだけ体力あるんだよと尊敬するくらい寝る。普段色々がんばってるんだろうな。そんな兄をみて私は、「お疲れさま」と、心の中で労わるだけ。

そんなこと言ってる私も移動も多くて疲れていたのか、いつの間にか眠りについていた。それで1日目はおわった。

■そんな母をみて

キャンプ2日目の朝食を食べたあと、心地よい気温の中、私は外に置かれた木のテーブルの上で絵を描いていた。描いているうちになんだか眠たくなって、だら〜と体をテーブルに這わせていた。 

その時、母はコーヒーを飲みながらスマホをみていたから、「絵、描く?」と聞いたら、「う〜ん」と言った。そう、これは大して興味がない時の返事。母は私と似てる。いや、私が母に似たのか。

興味あることにはとことん費やすし、一人でどこまでも行くくらい行動的だけど、興味ないことには基本「う〜ん」という微妙な返事をする。やってもいいけど、別にいまはそこまで興味ないな〜っていうやつ。だから、「もう!一体どっちなの?!」と結論を急かされたり、問い詰められるはどうしても苦手だ。

そんな母の気持ちをわかっているから、私は母の分の紙とペンだけをテーブルに置く。きっと描きたくなったら描き始めるのだろうな〜と思って、私はまた体をテーブルに這わせた。

15分くらいたったら、母はのそのそと動き出して「描くか〜」といって紙とペンを手にとった。そんな母をみて私は、「ほら、やっぱり」と心の中で一人満足するだけ。

■改めて、家族ってなんだろう

…と、ずらずらと書いているがここでの話は、キャンプの思い出的な記録ではなくて、「家族ってなんだろう」だ。

以前、自分が「なぜこの家族のもとに生まれてきたのか」的なことを書いたんだけど、そのくらい昔から「家族」について考えることがある。

この存在を失ったら自分は果たして生きていくことができるのかな。耐えられなくて死んでしまうのではないか。と、いつか訪れる別れにずっと恐怖を感じていた。家族という存在を失って、一人ぼっちになってしまうことがとにかく怖かった。

だから、今回のキャンプでも「家族ってなんだろう」ってずっと考えていた。けど、結局その答えは見つけられなかった。

ただ一つ分かったのは、自分は「家族の特徴を意外と知っている」ということだった。だから、やりとりの中で都度確認をすることは少なかった。

例えば、父との車でのシーンで「いま、嬉しいって思った?」と聞いたり、兄が寝ているときに「お疲れなの?」と聞いたり、母に「紙とペン置いてこおこうか?」と聞いたり。これはすべて、確認してもいいけど別に言わなくても良さそうなこと。

…で、思った。

家族ってそんなもんなのかもしれないと。

■人が一人ではなくなる瞬間

「家族とは、〜である」的な答えが出るかなと、この記事を書きながらも思っていたけど、結局そんなかっこいい結論にはならなそう。

ただ言えるのは、「歳をとるとコミュニケーションが減る」とか、「年々家族で集まることが減る」とか(中には外部的要因もあるだろうけど)、基本的にマイナスに言われがちなことも、「言ってもいいけど言わなくてもいいことが増える」とか、「相手のことを知っているが故に心の中で完結することが増える」とか、言い換えることもできる。

家族って、何か偉大な存在だとずっと思っていたけど、案外シンプルな集まりなのかもしれない。  

たしかに、家族の誰かが亡くなって、自分のことを理解してくれる人が減るのは悲しい。けど、自分がわざわざ言わなくても理解してくれる人って、家族だけじゃない。友人や恋人、もしかしたらこれから自分の家族以上に自分のことを知ってくれる人が出てくるかもしれない。

そう考えると、なんだか少し安心した。

こんな記事を書きながらも、今でもやっぱり一人ぼっちになるのは怖いし、人は所詮、一人なんだろうなと思ったりもする。

けど、そんな一人ぼっちの自分を知ろうと周りが歩み寄ってくれるから、「人は、一人ではなくなる瞬間」があるのかもしれない。と、そう思う。 

その、人が一人ではなくなる瞬間という点をたくさんたくさん打って、線として繋がっているように見えるのが、もしかすると「家族」なのかもしれない。かもしれない、です。

■おわりに。父へ

きっと私はこれからも「家族」のことを考えるんだろうなと。

そんな今日は、父の誕生日です。おめでとう。

いつもありがとうございます。

24歳、北海道生まれ。2022年に日本一寒い村である北海道旭川市江丹別町への移住を決めると同時に、「&SHEEP」の立ち上げを決意🐑羊を通じて、心も身体も環境もととのう、そんな新しい衣食住のかたちを発信します⛄️🏠