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『元出雲』と呼ばれる丹波の国一ノ宮『出雲大神宮』、大国主の国譲りの真相と出雲大社の謎

御祭神
出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

古事記や日本書紀に見られるように、大国主命は因幡の素兎で知られる慈愛に満ちた神様で、当宮末社に祀られる少那毘古名命(スクナヒコナノミコト)と共に国土経営に尽力なされました。

その後、皇孫に国譲りの後、幽世(カクリヨ)を統治すべく、現在の島根県にある出雲大社に鎮座される事となります。

『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。
名称
古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」[4]、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある[5](前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。

一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており[4]、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている[6]。島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方[1]、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している[7]。

古文書に見える社名は次のとおり。


天日隅宮(『日本書紀』)
杵築宮(『釈日本記』)
出雲宮(『八雲御抄』)
厳神之宮(『日本書紀』)
出雲大神宮(『日本書紀』)[8]
杵築大神宮(『和漢三才図会』)
所造天下大神宮(『出雲国風土記』)
大社杵築大神宮(『国花万葉記』)
杵築大社(『延喜式』)
出雲国大社(『享保集成総論』)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
天日栖宮(『出雲国風土記』)
出雲石(石同)之曽宮(『古事記』)[9]。

 小説の続きを書こうとして、時代考証を兼ねて丹波の国の歴史を調べていたら、とんでもない歴史が出てきた。
 完全に僕たちは大和朝廷というか、明治政府に騙されていたことが判明した。
 島根の今の出雲大社は杵築宮(『釈日本記』)、杵築大神宮(『和漢三才図会』)、大社杵築大神宮(『国花万葉記』)、杵築大社(『延喜式』)と呼ばれていたようです。
 京都の亀岡市に『元出雲』と呼ばれる丹波の国一ノ宮『出雲大神宮』とい
うのがあって、出雲大社は元はここにあって、今の出雲大社は杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれて、1871年(明治4年)に出雲大社と改称したようです。
 明治時代なので、おそらく、皇国史観のためにそういう名称の改称が行われたんですね。

 元々日本を緩やかな部族連合として統治していた国津神である大国主は、大和朝廷の侵略によって、天津神の娘である后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を妻に貰って、杵築大社(今の出雲大社)に移されて幽閉されたようです。
 その証拠に、出雲大社の本殿の大国主命は国譲りの稲佐の浜の方角である西向きにいて、僕らが参拝する際は大国主命が横向きにいるという奇妙なものになります。
 大国主命を幽閉している天津神の五柱を僕らは実際には拝んでることになります。
 大国主命は、別格の神様により監視されているので、横向きだという説(井沢元彦氏)が有力だと思います。


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私達が神社に参拝して、神様を拝む時、その神様は私達と対面(向かい合っている)していると思っています。たしかに、ほとんどの神社では神様は正面を向いて鎮座しておられます。

しかし、上の図のように、出雲大社のオオクニヌシは違います。
御本殿の御神座とされる大国主命が向いているのは、参拝者に対面するのではなく、横向きなのです。大国主命が向いているのは、西の方、国譲りの稲佐の浜の方角なのです。

一方、参拝者と対面しているのは、御客座五神といわれる神々です。大国主命を拝んでいるのに、実は、御客座五神という別の神に手を合わせている格好になります。

ところで、御客座五神とは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)、カミムスビノカミ(神産巣日神)、ウマシアシカビヒノミコト(宇麻志阿斯詞備比古遅神)、アメノトコタチノカミ(天之常立神)です。

これらの神々は、天地開闢(かいびゃく)の時に、最初に生まれた五人の神のことで、特別貴い神であるとして別天神と呼ばれている神々です。

そこで、なぜ大国主命は正面を向いていないのか、古くから謎とされています。

1.大国主命は、別格の神様により監視されているので、横向きだという説(井沢元彦氏)。

2.大国主命は、わざと西を向いて背を向けた形で、東の大和に嫌がらせをしているのだという説。

3.大国主命は、ふるさとの朝鮮?をしのんで、西を向いているのだという説。

4.大国主命は幽界(あの世=日の沈む方向)を支配する神様なので、西を向いているという説。

なんか、みんな怪しいなー。でも不思議だなー・・・・。

 僕は吉備国(岡山県、広島の福山、兵庫の西部)の出身で、母方の親戚とか瀬戸内市(邑久郡邑久町虫明、秦氏が瀬戸内の塩田多数経営)とか赤穂市坂越(秦河勝が聖徳太子失脚後に逃れてきて塩田経営)で、日本のユダヤ人である秦氏がルーツらしく(二、三万人ぐらい渡来)、温羅伝承(桃太郎元の話)とか知ってるので、このあたりの事情がよく分かる。



 吉備津神社もそうなんですが、大和朝廷に侵略された古い神々(元の統治者)は、吉備の場合、百済の皇子と言われる温羅なんですが、神社の隅に追いやられてしまいます。
 吉備津神社の本殿の四隅に祠があって、丑寅(鬼門)の方向に温羅(うら)が祀られています。他の方角には隼人を中心とする海部(中国江南と貿易してた)や温羅や吉備津彦の妻や孝霊天皇、温羅の弟の王丹などが祀られています。
 吉備津神社の勉強会に参加して、本殿に上がらせてもらったことがあり、鬼の面も見せてもらったのですが、角が無い優しい顔をしています。
 古い時代の鬼の面は角が無いのが多い。
 

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(温羅の鬼面。岡山県の解説では額の角が失われていると言ってますが、最初から無いのか、わざと外したんじゃないかと思うけど)


 百済の皇子と言われる温羅が統治していた吉備国は、出雲の侵略と同時期に大和朝廷に平定されていきます。
 地域の神社伝承などを調べて、古代史を復元しようとするサイトがあるのですが、現地取材して足で稼いでいくと意外と真実が見えてくる訳です。
 事件は現場で起こってるではないですが、現地にそういう伝承が残されてることは多くて、それを繋ぎ合わせると古代の事件の全貌が浮かび上がって来ます。


 吉備を手に入れた吉備津彦(通称。元の名は五十狭芹彦命/ひこいさせりひこのみこと)は四道将軍と呼ばれる、孝霊天皇の皇子だったので、軍事大国で製鉄、海洋王国だった吉備国(鬼が島の宝として、塩田、製鉄、造船、備前焼、果物、広大な田畑などがあった)を得て、巨大な力を手にします。ヤマトタケルも吉備武彦の子孫で、武人の家系みたいですね。

 吉備氏は力を持ち過ぎたために、朝鮮出兵中に奥さんを天皇家によって強奪されるという嫌がらせを受けて反乱を誘発され、製鉄業を営んでいた山部は大和朝廷に取られて、備前、備中、備後、美作の四ヶ国に分割されていきます。
 都の星川皇子の反乱時に、吉備の軍船四十隻という記事があるので、遣唐使、遣隋使なども含めて、朝鮮出兵などには吉備の軍船などがないと立ち行かなかったようです。
 で、よく朝鮮半島に派兵されていて、吉備真備とか空海(香川県、讃岐のの佐伯氏という豪族出身で土木工事が得意で吉備にもいる)が遣唐使などで派遣されてるのもそういう理由です。 

 製鉄業を営んでいた山部というのは秦氏(総社市中心)なんですが、県北の美作とかでたたら製鉄も担っていたようです。大和朝廷併合後は大雨被害にあった真備町の吉備真備とか、和気清麻呂も輩出していて、和気清麻呂は
秦氏と組んで備前、美作を統治していて、美作のたたら製鉄、備前焼、備前刀(日本刀の半分を占める)、塩田などを運営してたようです。
 和気清麻呂を祀っている和気神社のイノシシ(狛猪がいる)は秦氏だと言われていて、道鏡に咎められて和気清麻呂が九州に左遷された時に、イノシシが数百頭が守護したと言われていますが、九州の秦氏だったと思われます。元々、秦氏は九州に上陸して東に移動しているので。

 和気清麻呂は元々、天皇家の親戚だし、だから「和気→別け」というのですが、天皇家から分かれたという意味で、鴨野別だとか吉備には吉備津彦などの子孫もいる訳だし。

 足守という地名があって、温羅のいた鬼ノ城(朝鮮式山城にリフォーム)や秦氏の本拠「秦廃寺」とか服部という地名(機織り)、葉田の葦宮(秦氏)には応仁、仁徳天皇が奥さんを訪ねてきたりしています。
 

 丹波の国も奈良時代に、丹波・但馬・丹後の3国に分割されました。
 丹波も吉備も東海辺りまで出雲文化圏で銅鐸文化圏、九州北部は銅矛文化圏などと言われていますが、AD200年頃に出雲の銅鐸文化圏が衰退していって、古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)がはじまります。
 
 どうも中国地方の移民というのは、縄文時代までは中国の江南地域から船で渡って来たの者が多く、九州の隼人は江南地域まで船で行ってたようです。
 朝鮮半島南部には倭人が住んでいて、前方後円墳などの遺跡、日本製のヒスイの勾玉などが多数出てきます。
 倭韓と呼ばれる人ですが、韓流時代劇から朝鮮半島の歴史を調べてみても、中国の満州ぐらいに扶余、高句麗という騎馬民族国家があって、その王族が南下して、百済を作って新羅もできる。
 朝鮮半島南部は最初は空白地帯というか、倭人が何となく住んでいた。

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 三韓と呼ばれる馬韓→百済、弁韓→任那日本府、伽耶、辰韓→新羅(秦氏)となっていくのですが、それ以前は辰国というのがあったとされている。
 

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 辰は紀元前4世紀から紀元前2世紀頃、青銅器および初期鉄器文化を基礎として朝鮮半島中心部地域に存在した初期集団として古朝鮮と共存し、以後に馬韓、弁韓、辰韓の三韓として鼎立したものと見られる。‥‥辰国は三韓の各部族の名称が生じる以前にあっただろうと推定される辰王勢力の部族連盟体である。 紀元前4世紀~3世紀頃から金属文化が漢江以南に伝わって南朝鮮の原始社会が崩壊し、新しい政治的社会が成立したが、これを辰国という。


 辰国(紀元前2世紀)=秦国かもしれず、時代的にも秦(しん、拼音: Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)なので、三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在してたというし、秦からの移民だと考えると何となく辻褄が合いそうです。

 南朝鮮にある造山古墳と同じ名称の古墳が吉備(岡山県)にもあるんですが、全国4位、全長350メートルぐらいのもので、海洋民族の倭人と百済、伽耶などの秦氏が連合国家を作ってるのが吉備だったりする。

 つまり、日本は出雲のように殷(商)ぐらいからの古くから中国移民と、東北、飛騨王国のような縄文王国が混血して、その後、百済、伽耶などの秦氏が移民してできた国ですが、大和朝廷は朝鮮系移民が飛騨王国の苗字の無い王族を天皇として担いでできた王朝のようです。
 東北の民族もそこに加わってるとは思いますが、その後、蝦夷と呼ばれて迫害されていくという話になっていきます。

 大和朝廷の出来方には謎が多いので、出雲大社は古代には丹波にあって、それが国譲りの際に島根県出雲に移ってというのが真相のようです。
 出雲の領土は少なくとも山陰、丹波丹後から北陸、新潟ぐらいまであって、四国、九州まで影響力があり、そのあたりの領土を大和朝廷に引き渡すというのが国譲りだったと思われます。 

 それとこの丹波、丹後地方に「元伊勢」(伊勢神宮の元のお宮)と呼ばれる「籠神社」(このじんじゃ)があり、その奥宮として「真名井神社」がある。
 そこには出雲大神宮と同じ立派な磐座がある。
 これが敦賀の「氣比神宮」の土公と呼ばれるものと同じで、やはり、立派な磐座です。


角鹿神社

摂社、祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、式内社、崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われる。

 「氣比神宮」には敦賀(つるが)の国名の元になった「角鹿神社(つぬがじんじゃ)」(やっぱり片隅にある)があるんですが、 任那の皇子である都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)が祀られている。

 当時、大和朝廷は軍事大国で任那に日本府があったようですが、任那(加羅)の皇子が敦賀に渡来して国を治めて、帰国の際、崇神天皇の諱(御間城/みまき天皇)の「みまき」を国名にするように言ったようで、それが任那の語源になったらしい。
 大和朝廷は鉄を供給していた任那(加羅)との取引関係があって、朝鮮半島の騒乱に加入していくようになったようです。

記録
『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている[1]。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという[1]。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)[1]。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする[1]。

2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした[1]。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったという[1]。

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える[2]。



 天橋立の観光を少ししようと思っただけだったのですが、天橋立を渡るとまさかの元伊勢があった訳で、丹後の一ノ宮だったりで非常に重要な神社でした。
 何となく舞鶴の辺鄙な宿を取ったのが結果的に良かったことになる。

 但馬にも新羅の皇子と言われてる天日槍(アメノヒボコ)の渡来伝説があり、都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)の渡来伝説と被ってる可能性がある。

 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)の一族が、天日槍(アメノヒボコ)と呼ばれていて、息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)の祖とされると言われている。
 鉄の産地ということなら任那(加羅)の皇子の方がすっきりするし、神功皇后の天日槍の一族なら、三韓征伐の理由がはっきりしてくる、自分の故郷が加羅になるので、朝鮮半島の騒乱に介入するのも分かる。
 任那、加羅は倭人などとの部族連合みたいなもので、統一王朝というより連合国家であり、後に新羅と高句麗が同盟して、任那、加羅、百済は滅びてしまって、日本に移民してくることになる。

 つまり、大和朝廷はこういう渡来人と関係、鉄などを供給してもらって、勢力を広げていったのでしょうね。その一環として、中国系に渡来人の王国でる出雲などを併合していったのが国譲り神話となっていったようです。
 話が長くなったので、この辺で終わりたいと思います。
 丹波、丹後、但馬は敦賀も含めて、そういう意味で非常に需要な地域だったようです。特に丹後半島は巨大古墳と鉄づくりを担っていた地域だったようです。
 

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Wikipediaに載っている考証は以下の様である。
名の「つぬが」については、新羅や加耶の最高官位「角干(スプルカン)」を訓読みしたことに由来するとする説が有力であり、またこの「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ/アッチ)」に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている。敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される。ただしその所伝に関しては、説話の時期・内容の類似性から蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)と同一視する説がある。

また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社(大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国国前郡の社は比売語曽社(大分県東国東郡姫島村)に比定される。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ、同一の神に関する伝承と見られている。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる[8]。



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日本人のルーツ倭韓(わかん)
まえがき 日本人のルーツ倭韓

 ここで述べることは、朝鮮半島の南端に倭国があったという前提からすべてが始まっている。この倭国とは『三国志』韓伝に出てくる「倭韓」のことである。『三国志』や『後漢書』がたびたび、馬韓や弁辰と境を接して南に倭人が住んでいた事実を記録しているのに、日本ではこの記録は軽視されてきた。『三国志』や『後漢書』の記述を認めないのであれば、日本の古代史はスカスカの状態になってしまい、確かなことは何も語れなくなる。『三国志』や『後漢書』の記述を認めるのか、認めないのか。それによって日本の古代史はまったく違ったものになってしまうからである。

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●朝鮮からの影響が大きくなるのは弥生後期以降
同時期の朝鮮半島は同じように江南から日本以上に大量の移民がありました。
朝鮮土着民を取り込み国家作りを初め馬韓、弁韓、辰韓といった三韓が日本の弥生時代中期にはできあがります。その後、ツングース族の南下によって朝鮮半島で国作りが行なわれたのは高句麗が出来て以降、AD300年以降の事です。日本に朝鮮半島から避難民が大量に押しかけたのはおそらくは弥生後期、古墳時代の始まるAD200年以降の事だと推察されます。
従ってそれ以前の朝鮮半島からの渡来は少数でかつ王族などはまだ誕生しておらず、日本列島に渡来していたとしてもはるかに影響力の小さい存在だったと思われます。
 
 
ここで見えてくるのは既に縄文晩期から日本に渡来し、縄文人と融合し既に稲作を始めていたのは中国であり、彼らが、朝鮮半島から渡来が始まるはるか700年以上前に日本列島で先住化していたということではないでしょうか。
 
 
日本の歴史は全て朝鮮半島から後で来た王族が書き上げた。だから古事記も日本書紀も中国の先住民の事にはほとんど触れていない。オオクニヌシなどは明らかに中国からの出と思われますが、それを朝鮮由来のスサノオの子とすることで、中国由来を消しているように思えます。
従って朝鮮からの渡来民と中国から先住していた移民は日本列島の中でしばしば争いになったのではないでしょうか?


縄文晩期とはどのような時代か?2~渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/07/1295.html



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