地の底から発信する手記
今日は病院だった。先生に話すことがまとまらず、項垂れながら面談をした。
「〇〇さんは哲学の本とか読まれてると思うので言いますけど、それは“実存”にまつわる悩みなんですよ。普通の人はそういうこと考えてなくて、明日のあの予定どうしようとか、そういうことを考えてるんですね。みんなそういう問題に目を向けずに気晴らししているんです。」
私が現在の悩みについて(何をどう言ったのか記憶にないのだが)、ぐちぐちと話して帰ってきた返答がこれだった。これは今読んでる本でも書いてあることだったので、そうだよなー、と思いながら聞いていた。あまり考えすぎず、受動的な娯楽(ドラマや映画を見る)など“気晴らし”になることをした方が良いと助言された。
先生の話に出てきた「普通の人」を、私は心底羨ましく思う。ここでいう「普通」とは、世間的にいう普通、だが。何かしらの職業に就いていて、規則のある生活をし、たまに気晴らしをして過ごす。それぞれに悩みや困難は当然あるだろうが、それでも、そういう普通の生活、仕事があって給料がもらえて自立して過ごしている、ある程度充実して。私はそういう生活が、喉から手が出るほど欲しいと思っている。
最近見ているYouTuberの「コスメティック田中」氏。「この人は、現在の私の理想だな」と指をくわえながら動画を見ている。彼の活動がYouTubeで人気なことよりも、彼の日常、会社員としての日常があまりにも眩しすぎて、こうなれない自分に歯痒さを感じている。
しかし、現段階の私は「コスタナ」氏のように企業で働いたりというバイタリティはない。だから指をくわえて見ているしかないのだが、それよりもっと現在的な、今どう過ごすか、ということについて考えなければならない。
先生に言われたように私は現在哲学の本を読み漁っていて、そこに救いを求めていた。しかし、そもそも難解な上、誰も人生に対する問いへの回答を知らないのだから、永遠に同じところをぐるぐると周り、自分の頭の中だけが「世界」となってしまい、そんなことをしているとどんどん気が滅入ってきてしまう。今回先生と話して改めて、出口のない袋小路で彷徨い続けているのだと気づいた。答えの出ない問いについて、いつまでも自分の部屋の中で論理をこねくり回していても未来はない。「書を捨てよ、町に出よう」。結局「動く」しかないのだ。誰も私を救えない。自分を救えるのは、自分自身だけだ。
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