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ヴァーチャルライバーと春季うつの私 6日目 (日記)/黛ってスナフキンに似ている

ヴァーチャルライバー「黛灰(まゆずみ かい)」くんのパーソナリティを模倣し、春季うつを乗り越えるための日記 Part6。

※注
 この日記は大体の区切りで更新しているため、厳密に◯日目では無い。
 私は黛くんの動画を見始めて一ヶ月にも満たない、新参者です。
 黛灰リスナーの方がもしこの記事を見て、不快に思ってしまったらごめんなさい。

黛ってスナフキン?

ティーティー・ウー「でも、あなたはなんでも知っている人でしょう?」
スナフキン「君、あんまり誰かを崇拝するのは、自分の自由を失うことだよ。」

私は、ムーミンに出てくるキャラクターの「スナフキン」が好きだ。独りが好きで、独りでいる時間の大切さを知っていて、でもムーミン谷の仲間たちのことも大切に思っていて…。今日、なんとなくYouTubeでムーミンのアニメの切り抜きを見たんだけど、そこでスナフキンが放った言葉にどきっとして動揺してしまった。

私は黛灰くんのパーソナリティーを模倣する計画の為この日記をつけているが、そうして模倣することで自分の「自由」が失われることにはならないか?と、ハッとしたと同時に、スナフキンと黛くんは似ているな、と思った。

淡々と、そして理路整然とした言葉選びで話し、自分の考え・思想をしっかりと持っている。相手を突き放すように思われる発言や行動も、実際は相手の為を思ってのことだったり。私はなんでそのことに早く気付かなかったんだろう。落ち着いた話し方も、仲間思いのところも、黛くんと重なる。私が好きになるのは必然だったのかもしれない、と腑に落ちた。と同時に、所詮自分は自分なのだからあまりにも理想を追い求めすぎると破綻するな、と気づいた。

*

視聴したもの

  • 「【耐久】朝銀行に行くための耐久配信【にじさんじ/鷹宮リオン】」を見た。

  • 「【作業配信】仕上げ」を見た。

  • 「【Ever Forward】少女が独り、冷たい、どこかで。」(ゲーム実況)を見た。

【耐久】朝銀行に行くための耐久配信
鷹宮リオンさんの配信

色吉郎めっちゃ好きな鷹宮さん
鷹宮
「あれは、なんてんだろな…消えない、あの輝きは。流行りに左右されない。なんだろうね〜。常に戻ってきてほしいタイプっていうか。周期的に。」
「伝説なんだ。鷹宮さんの中でもう。」
鷹宮「伝説。めっちゃ好き。」
「…いやぁよかったなんかそういうの。他のライバーに残せるもの。」
黛が好きな曲
鷹宮
「なんか、めっちゃ好きー!みたいな曲ないの?」
「めっちゃ好きか…Queenの『ショウ・マスト・ゴー・オン(The Show Must Go On)』…かな。」
「“show must go on”っていうのはそもそも、向こうのことわざ?みたいなもので、直訳すると『舞台は続く』みたいな意味合いなんだけど、なんだろ、役者が、例え、舞台上でどんなミスをしたとしても、舞台を、舞台上から転げ落ちたとしても、それもまた芝居のうちで、役者が芝居をし続けている限りは、舞台は続くっていうような。“例え何があろうと舞台上にいる時点で、芝居をしている時点で舞台は続いているみたいな、意味合いの。言葉、だと俺は思ってて、解釈としては。」
鷹宮「演劇をする人が使う言葉なんや、ふーん。」
黛「うん。それをなんか、Queenの晩年、かな。に、もうこれ以上は声が出ないだろうとされていたタイミングで、歌い上げた曲の一つだった、ハズ。」
鷹宮「エモいな。ほえー。そうなんだ。」
「…っていうのも相まって、元気をくれる曲だなって。曲も力強い曲調だから、なんか、うーん、なんだろ、『なんかやっちゃったな』、『今日はうまくいかなかったな』みたいな時でも、それも含めて一つの作品にしてしまえばいいんだなみたいな。気持ちになれるというか。」
鷹宮「なるほどね。起承転結の承くらいで、『まだ終わってない、これから持ち替えせるぞ!』みたいな、気持ちを持ちつつ。へー。」
【耐久】朝銀行に行くための耐久配信【にじさんじ/鷹宮リオン】
〈https://youtu.be/4mmvuYMRMrQ〉より一部抜粋
The Show Must Go On
最後までやり遂げなければならない

 この慣用句の正しい意味は、「どんな逆境にあっても、計画され、もう始まったものは最後までやり遂げなければならない」という意味に使われます。
 ロック・バンド「クイーン」は1991年、この慣用句そのままを、タイトルにした曲をリリースしています。この詩には、繊細で多感なフレディ・マーキュリーが歩んできた苦難の人生、そして上り詰めた者にしかわからない重責と虚無感が感じられます。人生を舞台に見立てるのは、シェイクスピアからの伝統です。エイズのため死を意識していたフレディは、どんな困難にあっても、人生を全うする気概ととことん役を演じ切るショーマンの覚悟を、私たちに、そしてフレディ自身に語りかけています。

“Whatever happens, I’ll leave it all to the chance.” 
何が起こっても、それはすべて成るようにしかならない
“Does anybody know what we are living for?” 
「何のために生きているなんて誰にわかるのだ、誰にもわからない」
“I’ll overkill.” 
とことんやってみる
“The show must go on.” 
人生もショーも全うしなければならないんだ
(筆者訳)

 フレディは今も、音楽メディアを介して歌いかけてきます。魂をこめて。「何事も思うようにならないのは世の常だ。でも途中で投げ出すわけにはいかないんだ。命ある限り」と。
 フレディの Swan song のハイライト、それは文字通りThe Show Must Go Onであった、と思います。
「The Show Must Go On最後までやり遂げなければならない」十河克彰.新興出版社啓林館サイト
〈https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kou/english/alacarte/202007/index04.html〉より引用

【作業配信】仕上げ

黛の死生観
黛「俺これ前に話したけど、死ぬっていうのは、電車のホームから線路に落ちるようなもんだと思ってて。誰でもすぐに簡単に、一突きされるだけでそこに至ってしまうことだと思ってる、っていう話を。たまにすごい狭いホームとかあったりするけど、うん、そことかバランスを崩したら多分、落ちるんだろうなって思うのと一緒で、俺多分、このまま、このままの気持ちを抱えてたら、死ぬんだろうな、みたいな。っていう感じ。」
「『死ぬのに勇気がいる』みたいなの、あるけど、別にそんなことはなくて、ただ落ちるだけ…。(コメント「落ちることに勇気いるよ」) いやでも、事故のように、ころっと落ちてしまうことってあったりするけど、結局、自殺も事故なんだよね、みたいな。もちろん自殺って自分の意思で、自分の命を奪ってるってことは確かにそうなんだけど、いろんなことが、巡り巡って最終的にそうなった結果が、生じてしまったそれを自殺と呼んだだけで、多分、うーん。かなり事故に近い、ものだと思う。かなり事故に近いけど、人的な事故というか。事故に見せかけた他殺の場合でもあるし、それがまぁ事故でもあったりするし。」
【作業配信】仕上げ〈https://youtu.be/EgWq9D7G04U〉
より一部抜粋

【Ever Forward】少女が独り、冷たい、どこかで。

物語の核心に迫るシーン
黛「あぁ、じゃあこれは、コールドスリープ中に見てる、幻覚というか。生と死の狭間みたいなものなのかな。生き残されたものなんだからしょうがない。生きてるんだから生きるしかない。うん…。死ぬのも事故だし生きるのも事故だよ。だから、生きてる側は、事故って生きたんだったらもう生きるしかないな、あと。」
主人公の母親が、ラストシーンで語りかけるセリフ
I know, You’ll be OK without me.”「私がいなくても大丈夫だよね。」
【Ever Forward】少女が独り、冷たい、どこかで。〈https://youtu.be/ROPJCpRM5SM〉
より一部抜粋


視聴した感想

  • 鷹宮さんと黛くんのお喋りは聞いててとても心地よかった。黛くんが作ったキャラクターの色吉郎を気に入ってる鷹宮さんがツボで、切り抜き動画を見てはニコニコしてた。鷹宮さん、大学時代の友達になんか似てて可愛い。

  • 黛くんの死生観の話。これはとても共感したというか、同じように考えたことがあって、それこそ駅のホームで待ってる時なんかに、ここで落ちたら死ぬな、たまたま今落ちる要因がないから死なないけど、でもこうやって、常に「死」は近くにあると感じるというか。「そこにあるもの」というか。誰にでも起こりうる。自殺って、思い詰めた時に勇気を出して飛び降りるものでもないというか、全然死にたいという気持ちに至っていないのに、ふとホームから落ちてしまう、なんか不快で、みたいな。そういう気持ちになることがたまにある。たまたま今生きてるけど、「事故」らなかったから今ここにいる。言葉にするのが難しいな…。でも、なんとなくこの二年間くらい考えていたことに近いようなことを黛くんが言語化していて、少し驚いた。「生きているのも事故」かぁ…。なるほどね。残された側も、この先生きていかなければいけない、なんの頼りもなしに。それもある意味つらく苦しいことだね。

自分の日記

  • 黛くんの影響で、演劇についての本を読んでいる。もともと黛くんに惹かれたのも、彼がフィクションの彼を演じている動画を見て、そのやっていることの高度さに驚いたからだった。新しい視点が増えることはとても楽しい。生きがいが増える。この世になんとか留まっていられる“フック”が増える。演劇は日常生活にも応用できると知った。黛くんも、演劇の力を借りながら、今まで生きてきたのだろうか。なんだか切ないね。

  • 不思議なことが起きている。私は黛くんの配信を見る以外にも、普段通りラジオを聴いたり本を読んだりしているのだが、普段見てる世界に対する捉え方、感じ方が変わってきたように感じるのだ。何かを見たり、考えたりする時に、今まで見た動画で話していた黛くんの発言や考え方のアレコレが、読んでる本に書いてあることと不思議と繋がっていたり、今までも漠然と考えていたことが急に理解しやすくなったりと、“黛の思考のフィルターを通して世界を捉え直す“、というプロセスを経て物事を理解する、みたいなことがここ数日何度かあった。視界に入るものがよりくっきりと輪郭を帯びて見ることができるようになったような…。不思議な気持ちだが、知ることの楽しさ、学ぶことの楽しさを今実感している。その力添えを黛くんがしてくれている、という感じ。黛くんの考え方は色々と特殊で、初めて聞くようなこともあるんだけどすごく“ハッ”とさせられることがままある。うーん、文章にするの難しい。

  • これは黛灰というVチューバーを通して私の立て直しを図る日記だが、彼を通してさまざまな知見を得て、なんとか今元気で(元気かどうかはわからんが)やっていけているのでこの試みは概ね成功したと言えるのではないかと思う。もともと7日分くらいで終わろうと考えていたので、次の記事でこのタイトルでの日記は一旦終了しようと思う。


▼参考・引用

新興出版社啓林館サイト
〈https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/〉

にじさんじ鷹宮リオン オフィシャルチャンネル

にじさんじ黛灰 オフィシャルチャンネル

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