(続)憲法学が同性婚をどう扱ってきたか(過去の議論に向き合うことの意味)


前稿

の続編ということになる。

念のためだが、個人的なスタンスをあらかじめ述べておきたい。
私は、同性婚が認められない合理的な理由はなく、異性婚が認められる以上、それと同様に同性婚を認めるべきだと考える(ただし、そのことが法律婚を偏重する結果になるべきではないとも考える。この点はここでは詳論しない)。
そして、同性婚を認める上で、憲法24条は障害にならないと考える。憲法24条の「両性」「夫婦」という用語法は、確かに少なくとも制定当初「男と女」の一対の当事者を想定していたものであろうが、別にそうでなければならない(禁止)という書き方にもなっていないし、本条の趣旨は要するに両当事者の意思の尊重と平等にあり、「誰と誰」が婚姻するかについて特段の関心が向けられているとは思えない。「両性」を「男性と男性」「女性と女性」を含むと読んでも、「夫婦」を「夫と夫」「婦と婦」を含むと読んでも、憲法24条の規定の趣旨に反するとは考えられない。
制度的にも憲法が「婚姻」を一定の特別なものとして扱っていることは(それを制度的保障と呼ぶかどうかは別にして)間違いないと思うが、同性婚を婚姻に含めたとしても、異性婚が婚姻でなくなるわけでもなければ、異性婚を選択した当事者の権利が害されるわけでもない(「自分たちの関係こそが『婚姻』であり、彼ら彼女らの関係を『婚姻』と称することは認めない」というのは法的な保護に値する権利ないし利益とはいえないであろう)。
ただし、法律上の同性婚を認めないことが憲法24条に反するとまではいえないと考える。今後の社会の変化によってはそのように解すべき余地が生じることもあり得ると思うが、現状はそこまでいっていないというのが実際のところではないだろうか。
以上についての法解釈一般論とか、憲法9条の解釈態度との対比などという論点はここではおいておく(ちなみに私は9条については改憲論者である。24条についても改憲して同性婚を明確に認めるというのであれば当然賛成するものであり、ただ改憲せずとも同性婚は実現可能というに過ぎない)。

以上を前提として、私の考えからすれば「残念な」検討結果についても述べておきたいと思う。


前稿では、憲法学説において、辻村先生が、通説は「24条下では同性婚は容認されないと解してきた」と述べていることを手がかりに、「禁止説」は本当に唱えられていなかったのか?ということを考えた。

その後、文献を調べてみたところ(もっとも、私が調べられる範囲の文献など限られているが、別に特殊な文献ではない。他にもあるかもしれないが、網羅的な渉猟は本稿の目的外である)、たとえば次のようなものを見つけることができた。

「近時、同性愛者の婚姻をめぐり、ヨーロッパ各国ではこれを何らかの形で保護する立法上の新たな展開がある。日本では『婚姻は両性の合意に基づく』とする24条との関係で憲法問題となり、憲法改正が必要とされることがらである。」
(杉原編「新版体系憲法事典」(青林書院、2008年)391頁(清野幾久子執筆部分))

上記清野解説は2008年当時のものであり、「人権の主体」として「性的マイノリティーなど」について、約1頁半を使って、同性愛や性同一性障害に関する医学的知見、ICDやDSMの改訂,各国法制の動向、本邦の裁判例等を解説しており、性的マイノリティーの権利が憲法上保護されるべきことに意を用いたものであるが、その解説においてもこのように記されているのである。
もっとも、清野解説は、同解説の他の部分と対比しながら読むと、「同性婚の憲法上の可否」について、「深く検討した上で『禁止説を取る』という態度を明確にしたもの」という印象はうけない。ありていにいうとさらっとしすぎていて、文言はこうだから無理だろう、現実的じゃないし、みたいな感じで「流した」のではないかと思える。前稿の結論の繰り返しだが、「無関心は禁止と同じ」が、時代の変わり目でぽろっと出てきた、とでもいえるのではないだろうか。

また、同書の別の部分では次のような解説もある。
「24条は、一定の『婚姻』の形態を公序として認め、その形成と維持に保障を与えるものである。その形態とは、『婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立』としているところから、異性婚であり、『夫婦が平等の権利を有する』としているところから、一夫一妻制である。これが法律婚に限られるかどうかは、明示されていない。フランスでは、法律婚と同様に事実婚も法的に承認しており、日本でも将来的にはそのようなことも想定しうる。また、フランスでは事実婚を承認するPACS(連帯民事契約)法において、同時に同性婚にも異性婚の事実婚と同様の保障を認めている。日本でもそうした保障の余地もあろう。その際、解釈上は、2項が『個人の尊厳』を挙げていることから、究極的には13条から認められることになろう。しかし、同性婚の場合に、子どもとの関係において異性婚と全く同じ保障が与えられるかどうかは、議論を深める必要がある。」
(上掲書468頁(植野妙実子執筆部分))

これを明示的な禁止説と読むべきかというと必ずしもそうでもないと思うが、少なくとも「含まれる可能性を検討しようという姿勢自体が見受けられない」とはいえるだろう。
これも、たとえば憲法制定当初の50年代、60年代の解釈であれば、そもそも同性婚などという概念自体が(世界的に考えても)未発達であり、まったく想定外だったということで理解可能なのであるが、2008年の時点の解説で、しかも比較法的動向なども踏まえた上で、このような解説「しかなされていない」(とあえて表現しておく)のは、やはり前稿で述べた「空気」のなせる技だったのではなかろうか。

なお、はっきり述べておくが、私は、これらの論旨を(今日的視点から)批判したいわけではないし、また今日的視点からみても別に明確な誤りとも思わない。憲法の保護するところの婚姻とはアプリオリにそういうものであって、それ以外ではあり得ないという考え方も十分に成り立ちうると思うからである。あとは賛否の問題である。


同様に、割合早くから同性婚の問題を取り上げた憲法学説の一例を挙げておきたい。渋谷・赤坂「憲法1 人権」(有斐閣アルマ)の記述である。同書に着目したのはTwitter上で何人かの論者が取り上げていたことによるもので、前述のとおり網羅的な渉猟の結果ではないことをお断りしておく。
同書は現在第6版が最新であるが、現在、私の手元にあるのは2007年の第3版、2010年の第4版、2016年の第6版である。第2版と第5版は古本注文中なので、入手次第、追記したい。

※(追記3・2019.3.9追記)本書では、2000年の初版段階ですでに同性婚に関する記述があり、これはおそらく(少なくとも教科書としては)先駆的で充実した内容であるが、204頁に次のような記述がある。

「同性同士の『婚姻』が異性同士の婚姻と同程度に保障されると解することは憲法の文言上困難である。」

初版では同性婚に関する記述はこれだけであり、2版以下で現れる諸外国の例は挙げられておらず、そのまま重婚禁止(一夫一妻制)の合憲性の記述に繋がる。

この一文で、同書が「要請説」(同性婚の未法制化は憲法違反である)に立たないことは明確であるが、では「禁止説」(24条を改正しない限り同性婚の法制化は違憲となり認められない)なのか、「許容(非保障・立法裁量)説」(同性婚を法制化していないからといって違憲ではないが、現24条下で同性婚を法制化することは立法裁量上認められる)なのかは明らかではない。しかし、教科書という性格を踏まえても、2000年時点の同書に、そのいずれに立つか明確な私見があったようには思われない。しかし、以下の記述の変遷をみると、そもそも当初の見解は「許容説ではなかった」(すくなくとも、許容説を取るといえるほど見解は明確でなかった)のではなかろうか。

※(追記4・上記初版分の記述の追加に伴い、以下の2~6版に関する記述を改めた。2019.3.9追記)

2004年の第2版212頁、2007年の第3版224頁は次のように記されている。
「同性同士の『婚姻』が異性同士の婚姻と同程度に保障されると解することは憲法の文言上困難である。ただし、同性同士の婚姻あるいは『婚姻に準ずる関係(パートナー)』を認める国(スウェーデン・オランダ・ドイツ・フランス、アメリカ・カナダの一部の州等)が出現しつつあることは、このような従来の社会通念の根本的な見直しを迫っていると解される。」

「憲法の文言上困難」の一文はそのまま、ただし書きが追加され、諸外国の動向を踏まえると「社会通念の根本的な見直し」が必要であるとする。この文章の意味するところ、つまり社会通念が根本的に見直された結果、憲法としてはどうするべきだというのは必ずしも明らかではない。24条の解釈を変更すべきということなのか、24条を改正する必要があるということなのか。あるいは「そこまで何も言っていない」、要は未検討なのか、教科書としての性格上そこまでは記載できないということなのか。

2010年の第4版235頁では、わずかに記述の修正がみられる。
「同性同士の『婚姻』が異性同士の婚姻と同程度に保障されると解することは憲法の文言上困難である。ただし、同性同士の婚姻あるいは『婚姻に準ずる関係(パートナー)』を認める国(スウェーデン・オランダ・ドイツ・フランス、アメリカ・カナダの一部の州等)が出現しつつあることは、このような従来の社会通念に基づいた制度の根本的な見直しを迫っていると解される。」

「社会通念の根本的な見直し」が必要とされていたものが、「社会通念に基づいた制度の根本的な見直し」が必要という記述に変更されている。ここにどういうニュアンスの変更を読むべきなのかはよく分からない。この「制度」とは婚姻制度のことなのだろうか。そうだとすると、同性婚あるいはパートナー制度の「制度化」を求める趣旨とも考えられ、より一歩踏み込んだ記述ということになろうか。しかしそこまで読むのは深読みかもしれない。

※(追記)2013年の第5版では、第4版から記述の変更は見られない。(2019.3.6追記)

これが2016年の第6版248頁~249頁になると、社会情勢の変化を受けて大幅に記述が増やされている。以下、長いがほぼ全文引用する。
「同性同士の『婚姻』が異性同士の婚姻と同程度に保障されるのか。同性婚を認める国(引用注:多数の諸外国・州が列挙されているが省略する)が増加する中、アメリカ合衆国最高裁は、2015年6月26日、州政府が同性カップルに対して婚姻許可証を発給しないこと、他州で合法的に認められた同性カップルの婚姻を承認しないことを違憲とする判決を下した(Obergefell v.Hodges.なお裁判官の評決は5対4であった)。婚姻の権利は合衆国憲法が保障する基本的権利であり、その制限は適正手続条項に反すること、国の社会秩序の要となる婚姻につき同性婚と異性婚との間に違いはないこと、同性婚を不利に扱う行為は法の平等保護に反すること、を理由とする。その他、婚姻に準じる関係(パートナー)を認める国(引用注:同様に諸外国の列挙を省略する)もある。
日本でも、2015年、東京都の渋谷区は同性カップルを『結婚に相当する関係』と認める証明小を発行することも規定した条例(男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例)を制定した。また、同年、東京都世田谷区は、同性カップルが『パートナーシップ宣誓書』を区に提出すれば、区長は受領書を発行することを定める要綱を策定した。この問題は、より一般的に性的マイノリティの尊厳をいかに保障するか、という課題を性的マジョリティに対して、突きつけているのである。なお、民法には、同性婚を正面から排除する規定は存在しない。」

初版以来一貫して維持されてきた「同性同士の『婚姻』が異性同士の婚姻と同程度に保障されると解することは憲法の文言上困難」という文章が丸ごと削除され、「同性同士の『婚姻』が異性同士の婚姻と同程度に保障されるのか。」という問題提起で項が始められている。そして、はっきり見解を変更したという記述はないものの、わざわざ「民法には、同性婚を正面から排除する規定は存在しない。」という一文を付け加えている辺りから、「憲法上も同性婚を排除しなくてもよいはずである」という裏の意図が透けて見え、かなり許容説に近いニュアンスに移行しているというべきであろう。

これはあくまで教科書であるから、旧版の見解を変更するにせよいちいち断り書きをしないといけないという性質のものでないことは当然であるが、旧版の記述に親しんだ読者がいきなり現在の議論に接した場合、違和感を覚えるのも自然なことであろう。もっとも、先駆的に同性婚について触れていたからこそ記述を変更しなければならなくなったともいえるわけで、本稿は赤坂、渋谷両先生をいかなる意味でも批判するものではないことは付言しておく。


こうした検討を通じて得られる(と思われる)結論は、今日、同性婚に賛成する意見の中に、憲法24条が同性婚を認めない等という考え方は、憲法学的に「間違い」であるとか、そのような考え方は憲法学上「なかった」等といった主張が一部見受けられるが、そのような主張こそ「誤り」ではないかということである。
憲法学は同性婚に「無関心」であった。その無関心の内容は、「自由放任」ということではなく、結局「禁止」と変わらない「無関心」なのであった。それは、言ってみれば「そんなものが婚姻であるはずがない」という、世間並みの「当たり前」の感覚で24条を読んできた結果ではないか。引用の諸文献は、そういう「当たり前」の空気の中で「ソト」(比較法)から入ってきた「同性婚」という概念を咀嚼する過程であらわれたものではなかったか。そして、こうした「当たり前」こそマイノリティを抑圧する機能をもつ最大の社会的装置ではなかったか。


憲法を用いて社会制度を論じるにあたって、そのような過去を振り返らないまま、当然のように「許容」とか「保障」等と主張することが誠実といえるだろうか。私はそのような憲法の「使い方」には疑問を覚える。もちろん、仮に過去そうであったからといって、今その行いを改めてはならないはずもないことも付け加えておく。


前稿にもましてまとまりのないものとなったが脱稿とする。

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