しゃぼん玉、高く

 善意を善意と受け取ることができなくなったら人はそれを大人と呼ぶのだろうか、善意を当たり前のことだと思い、平気でそれを踏み潰したり、裏切ったり悪意で返したり、社会ってのはそうゆうもんだよなんて大人はしたり顔でいうけれど、あんたらがそうしてんだろ、だから善意を善意で返せるような、感謝を感謝で返せるような、そんな社会だったらいい、ありがとうをありがとうで返せるような、それが最適解であるような、そんな社会であったらいい。

 地域社会の衰退によってコミュニケーションが断絶し、なんてゆうのはよく言われることだけど、継続的に顔を合わせることが少なくなれば、ゲームの試行回数が少なくなるわけで、一回こっきりの関係ならば、裏切ることが最適解かもしれない。ずっと顔を合わせていくのであれば、協調していくことが最適解になるわけで、会える人数が拡大したことによって、確かにコミュニケーションのチャンネルは増えたかもしれないが、何よりも問題なのは、裏切りが当たり前になることなのではないか。一回しかないから騙して裏切って善意を踏みにじる行為が当たり前になる。顔を合わせることの不自由さ、関係が継続することの不自由さはあるけれども、協調することが、善意を善意で返すことが当たり前になるならば、関係性の悪化を危惧することで世界が幸せになるならば、それにこしたことはないのではないか。そんなことを思う。社会を平和なものにするためには、継続的コミュニケーションの機会をとにかく増やしていくことで、それは利用したいときにだけ利用するような間欠的なものではなく、もっともっと豊かに対話を含み生活を含むものだ。

 生業という言葉から遠く離れてカタカナのビジネスになってしまったことで、仕事と生活は分断されて、カタカナのインターネットによって、地域は解体された。近代から現代へと移行するうちに廃れたと思われた分析主義は今もまだその勢いを失わず、世界を細切れに細分化する。豊かな総合性は失われ、効率だけを求め求めたその先は玉ねぎの中心のようにからっぽだ。効率を求めて何を得るのだろうか。分析をして一般化して、その過程で捨象されたそのすべてが本来必要なものだったのではないか。脳がその97%の働いていない部分でもってして残りの3%を動かしているかの如く、8割の怠けものの働きアリが残りの2割の勤勉な働きアリを存在たらしめているように、無駄なもの、という概念自体が、必要ないのではないだろうか。生活と仕事はひとつながりの人生で、生活と職業が合わさったものが生業だ。生活と結びついているからこそ、地域と結びつき、人と結びつく。釈尊が「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」というようにすべてのものは仏性を宿し、部分であり全体である、個人だ個性だというような固まった人間では、しなやかな世界には羽ばたけない。世界のエントロピーは増大する。固体から液体へそして気体へ。わたしたちの本質は仏教が説くような気体状の仏性の中にしゃぼん玉のように仮初めに形取ったもので、それを固体にしてしまっては、ただ落下していくのみだ。軽やかにしなやかに宙を舞い、光を鮮やかな七色にその面に写して、ただ一瞬をきらめくことが、美しい。ひとときのしゃぼん玉のような私は、現し世のしゃぼん玉に思いを馳せて高く高く舞い上がることをそっと夢見る。