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東大に4年間通ったのちの中退が親バレした時の話


あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす

渡辺のわたし 新装版
作者: 斉藤斎藤
出版社/メーカー: 港の人
発売日: 2016/09/08
メディア: 単行本(ソフトカバー)

明け方、の時間が好きだ。

僕は宵っ張りなので、というか昼夜逆転生活を送っていたほうが長かったくらいなので、明け方に街を歩くことが多かったのだけど午前4時とか5時の街がまだ動き出していないくらいの時間に、少しの罪悪感とともに、新鮮な冷たい空気を吸い込むのが好きだった。なんだかんだと一番思い入れのある街は大学生のころに住んでいた仙川の街で、僕は6畳間の和室を根城に大学生活をエンジョイ、していなかった。

大学に馴染めなかった。望むような学問ができなかった。塾講師が楽しくなった。夜勤のバイトが辛かった。自堕落だった。お金が無かった。彼女がうつ病になった。自分もうつ病になった。いろんな理由はあるけれど、それらすべてが黒い塊になって僕を飲み込んだ。少しだけ、当時付き合っていた人と過ごす時間と、塾で生徒と向き合う時間だけが、人間でいられた。だから大学から離れた仙川の街は、罪悪感を覚えながらも、僕が人間でいられた街で、本屋もスーパーも小さなゲームセンターも古びた蕎麦屋も、おしゃれな喫茶店も、百円ショップも、路地裏の古本屋も、ラーメン二郎も、通いつめたスーパー銭湯も、何もかもが今考えると愛おしく懐かしい。やり直せるものならやり直したいけれど、どうせでも僕は僕なので、あの当時の僕の学問には大学が要らなかったんだろう。もしくはあの当時の僕のやりたかったことは学問ではなかったのだろう。

他の人から見るとどうかはわからないけれど、あの時間はあの時間で僕にとって重要なものだったのだろう。

大人になったフリをして、それでもまだ子どもで、何も思うようにできなくて、誰かを助けたいと思っても助けられなくて、自分ですらも満足に助けることができないことを学んだ。自分の知識がいかに浅薄で、どれほどに自分が駄目な人間だったかを思い知った。

大学に行けなくなって、日々だけが過ぎていって、バイトをして。

親には、適当にごまかして。

4年目の夏に、ついに大学から連絡がいった。

ある朝夜勤のバイト明け、電話がかかってきた。

「あんた、大学行ってなかったんじゃね」

と。

予測していたのとは、違い母の声は怒気を孕んだものではなく、悲しみに満ちていた。

「気づいてあげられなくて、ごめんねえ」

と、そんなことを言われた気がする。

落ち込んでいた。母も、僕も。

数週間前の電話で、就活はどうするんね、と聞かれて、僕は、大学院に行こうと思うんだよね、なんて、タイムリミットのわずかしか残されていない嘘をのうのうとついていた。

 

しばらくの沈黙のあと、これからどうするの、という問いに、今バイトしている塾でそのまま正社員で雇ってもらえるということ、今付き合っている子と結婚しようと思っているということ、だから大丈夫と必死で伝えた。前者は本当で、後者は嘘になった。今思えばお前は勢いだけで何を言ってるんだ、と思うけれど、当時は自分なりになんとか安心させようと必死だったのだろう。ごめん、と言ったかどうかは覚えていない。

あなたの期待に応えられなくてごめん。期待していたよね。入学した時、あんなに喜んでいたものねえ。ごめん、僕はもうあの時から嬉しくはなかったんだ。自分には向いてないような気がしていた。別の大学に行くつもり満々で、受かるはずなんてないだろうと思っていたんだ。でも、喜んでくれたのは嬉しかった。父も珍しく嬉しそうだった。家族の誇りだっただろう。それを僕は。だらだらとのうのうとぬけぬけと。

心配させたくは無かった。追い詰められると嘘をついて回避する癖があったことは確かだけれど、あなたの息子は東京に行って、一人暮らしをしたら、うつ病になりました。大学にも行けていません、なんて言えなかった。だからただ、明け方に、マルボロメンソールライトをふかして、時間をやり過ごして、こんな時間に起きてて、こんなとこまで来て、おれはなにをやってるんだ、と自嘲と自省を繰り返していた。

 

その後、僕は、正社員としてしばらく勤めていた塾を、精神的な不調で辞め、しばらく広島の実家に戻っていた。死んだような目でふらふらとし、外に出ることもなく眠り続ける僕をどれだけ心配しただろう。何も言うことなく、世話をしてくれた。実家で休養を取っている間にいろんなことを思い出した。喘息持ちだった僕は夜中に喘息の発作を起こしては父に病院に連れていってもらった。口下手な父は付き添いをしてくれたけれど、話をするでもなく少し離れたところにいて、いつも月刊ジャンプか月刊マガジンを買ってくれた。小学生だったから、週刊の方が良かったな、と思っていたけれど、僕はもくもくとそれを読んで点滴が終わるのを待った。今思えば、月刊の方が分厚かったからかな。仕事終わりによくニコラスっていうお店のピザを買って帰ってくれたこと、ビックリマンシールを箱で買ってきてくれて、一日一個って約束をしたこと。ものすごく怒られて物置に閉じ込められたこと。母のこともたくさん思い出した。幼稚園のころのお弁当にいつも小さなカードに手紙を書いてくれていて、それがとても嬉しかったこと。一緒に祖母の家の近くにある年に一度のバザーに行って、たくさんおもちゃを買ってもらったこと。中学受験の時につきっきりで勉強の相手をしてくれたこと。そんなに裕福ではなかったけれど、振り返るとどれほどの苦労をかけて、どれほどの世話をしてもらって、どれほどの思いをかけてもらっていたのか。ふっと家を見渡すと、うちのきょうだいの写真がたくさん飾られている。6年ぶりくらいに戻った実家は、子どもの頃の思い出ばかりがあった。

高校生のころには見えなかった。子どものころに良くしてもらっていたことなど。親の期待も親の願いも何もかも。家が嫌いで、ただただ反抗心ばかりで。早くこの家を出るんだ。東京の大学に行くんだ。その一心で勉強をしていた。こんなにも、思いをかけられていたのに。

思い出ばかりの実家で、明け方に、子どもの頃に過ごしていた部屋で、煙草に火をつけて、ぼんやりとそんなことを思っていた。

 

今でもまだ、寛解とは言えないんだけれど、でも少しでも安心させてあげたい。あなたたちの子どもは曲りなりにもちゃんと生きていますよ。あなたたちの孫はこんなにかわいいですよ。だから、素直じゃないダメ人間だから、ありがとうとは言えないんだけれど、できるだけ実家に帰るよ。あの頃のような期待には添えなかったけど、それでもいちおうしっかりと仕事をしているよ。自分のやりたいことしかやりたくなくて、ぶつかることも多いけれど、それでも認めてくれる人がいて、なんとかかんとかやってるよ。

 

だから良かったと思っているんだ。もしあそこで挫折しなければ、僕はずっと家族のことが嫌いなままだったかもしれない。

何も思い出すことなく、自分は自分だけで生きてきたみたいな顔をして、鼻持ちならず傲慢に、自分が世界で一番えらいんだ、と思い続けていたかもしれない。弱い心のことなんか何一つ理解せず、与えられた幸運にも、与えられた思いにも気づかず。

だから、僕が学ばなくてはならなかったのはそこだったんだろう。大学なんかに行く前に、本当ならそのことを骨身に染みて理解していなければならなかった。

それだけは、良かった。

それすら忘れてのうのうと生きるような人生なんか、ごめんだ。

だからあの仙川の街と実家が僕にとっての大学で、学ぶべきものが詰まったもので、僕は必要な学びを得ることができた。今もまだ学び続けている。誇れるものはそんなにないけれど、足りないものはたくさんあるけれど、せめて誇れるように満ち足りるように学び続けようと思っている。

わたしは光の道を歩まねばならない。

あけがたの煙草の火のように、たとえそれが小さな光であったとしても。