スーパームーンに叢雲

 色を移した葉の落ちる音。冬の足音が近づいてくるとは言うけれど、いわゆるその足音は、のっしのっしでもどしんどしんでもなく、しんと静まり返ったなかにそっと微細に鼓膜を震わすものなのだろう。大きな声で騒いでいては、その足音を聞き逃してしまう。わあわあわいわいというのも楽しいものだけれど、小さな季節の訪れを聞き逃してしまわないようにしたい。温度にともなって生物の活動力が低下し、しんと静まり返った冬の世界を、わたしたちはエアコンでファンヒーターでストーブであらゆる暖房器具でもってしてファンファーレを鳴らして凱旋する。

 なるほど夜は明るくなったけれど、一年中季節を通じて過ごしやすくはなったけれど、冬の寒さや夜の暗さに対する感受を失いたくない。煌々と輝くビルの明かりがないからこそ、夜空を針でついた星図を眺めることができ、何万光年と離れたもののが放つ、時さえ飛び越えてきた光を眺めることができる。

 先日、スーパームーン現象が見られるのだと聞き、物見高いわたしは数日前からわくわくしながらその日を待っていた。寡聞にして知らなかったがどうやら一年に一回ほどは見られるらしいのだ。ただ今年はことさらすごい、とのことだった。スーパームーンとはまた音引きの長い間の抜けた言葉だが、何がスーパーかといえば、月と地球との距離がたいへん近いということらしく、平素よりも明るく大きく見えるというのだ。雲などが掛かっていたり、周りが明るいとそこまで違いがわからないかもしれないと言われていたが、幸いその日は天気も良くわたしの住んでいる場所は山と海に囲まれた田舎で、街灯もほぼ無いものだから、天体観測としゃれこむまでもなく、家から少し離れた場所で月を眺めることができた。

 あたりに何も無い真っ暗な場所で眺めるその大きく明るい月は、本当に夜空にぽっかりと穴を開けたようで、その眩さに驚いて感じ入ったものだ。夜が暗くて当たり前であった時代であったならば、これは確かに心を奪われるものだろうと。そしてわたしもひとときながら、月が”くまなく”あるのを喜び、”雲隠れ”する月を惜しんだ。暗いなかで静かに明かりを湛える月の姿。それが月に”狂う”という気持ちを喚び起こすのであろう。日本語では月は”憑き”に通じ、英語では月”luna”は”lunatic”つまり狂人の中に表れる。

 それほどまでにも強い気持ちを失いつつあるのは、そしてそうした風情に対する感受性を失いつつあるのは、確かに惜しい思いがする。兼好法師が徒然草第137段でいうように「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」わたしたちは便利に浸かり過ぎていて、”不便”や”無い”ことに対しての経験をないがしろにしてはいないだろうか。「雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて花の行方知らぬ」ようなそんな思うに叶わぬ切情も、大事な一つの感情だと、わたしは思いたい。

 そうでなければこの生は、叶わぬ想いが多すぎる。叶わぬ想いの数の分だけ、月の明かりは磨かれる。そうした明かりで、精神の陰翳はようやくほんの少しだけ晴れるのだ。