田辺聖子さんのお誕生日
3月27日は田辺聖子さんのお誕生日だった。、ご存命なら94才。奇しくもその日、昨年12月に刊行された『田辺聖子18歳の日々の記録』の講演会が伊丹市立図書館ことば蔵で開かれた。編集担当の文芸春秋出版局の柘植学さんと田辺聖子文学館館長中 周子先生の対談である。
田辺聖子さんの死後、ご自宅の遺品の中から昭和19年から22年までの直筆日記が発見されて話題を呼んた。それがこの本にまとめられた。
内容は太平洋戦争末期、田辺聖子さんは樟蔭女専で学びながら、学徒勤労動員で働く日々から始まる。日本の敗色は濃いものの、まだ一般市民は「勝つ」と信じていた。田辺さんは日々の暮らし、学友とのあれこれを綴りながら、圧巻は第二次大阪大空襲の6月2日の記録である。東大阪の樟蔭女専の学内工場から自宅の大阪福島まで徒歩で帰宅した日である。帰る道道で見た大阪中心部が焼き尽くされたリアルな様子、そして自宅は焼失していた。最近のあたかもロシアによるウクライナへの武力侵攻の惨状と重なって来る。
そして終戦、終戦における軍国少女田辺聖子の漢文調の文は格調高い。
その年末、体調を崩していた父が死に、敗戦と生活苦の激動の日々が田辺さんに降りかかる。こうした日日をほぼ日記に残しておられた。
到底18歳の少女の筆ではない。後年の作家田辺聖子以上の決意に満ちた文である。
作家以前の気負った書き出しや表現も目立つが、この歳で客観的な観察や物語のカタチを作れる人は今もいまい。
中先生は日記の表現から、学生時代から作家の萌芽が見えた田辺聖子を論じ。さらに若き編集者柘植さんの編集者の眼差し、本造りのこだわりなど、田辺聖子さんの文学観を超えた話しが聴けた。
「絶対に作家になる」
強い決意はすでに学生の頃から胸に宿っていたのである。生涯700編近くの著作を残した田辺聖子さんの最後の本になるのだろうか。
もし生きておられたら日記は出版されただろうか。
と言うのは、田辺聖子さんが、後年自作の中で空襲の様子や焼けたビルの状態などをこの日記から転載されて、いわばネタ帳になっているらしいことも、編集途中でみえたという。