【頑張れ】の極意

元々人に対して「頑張れ」と言うことがあまりありません。
私にとって「頑張れ」と言う言葉には何処か寂しい響きがあるのでした。

それでもスポーツのシーンに、「頑張れ!」が飛び交うと、何か【じん】としてしまうのです。
もちろん寂しくて、ではありません。

それがどうしてなのか、考えてみました。

自分と誰か、誰かと誰か。

会話の中で「頑張れ」が出てくると興醒めしてしまうのです。

スポーツにおいて観客とプレイヤーは
恥ずかしい言い回ししかできないのだが

ひとつ

なのやな、きっと。

頑張れと言う言い方が
元々はメジャーなポジションにいたころ

人と人とは当たり前にひとつだったわけやろか(´Д` )
なので錦織さんがかけられた声援のように
かける方にとっても
かけられる方にとっても
ポジティブな受け入れ方が出来たのだな(´Д` )

それは世の中の流れのせいなのか
私なんか元々そうだったのか

人と人には距離ができて
前提から人と人とはひとつ。の概念が失われてしまってきたのかもしれぬ(´Д` )

頑張れ、という言葉が出た時の興醒めは
人と人とは独立した個体という現在のリアルな認識を
人が確認してしまう感覚のことなのかもしれぬ(´Д` )

人と人の会話において
本当に大切なのは言葉選びではないはずで
大人になればなるほどに
そこに掛け値なしの真意があるのかどうかなはずだが

頑張れ

が全く変形せずにその言葉の意味というよりも
その言葉のもつイメージ、または熱のようなところを
この世の中の流れとともに変化させているというところが実に興味深いではないか(´Д` )

頑張れ

を心からポジティブに使える人というのはいる。
そういう人って本当に《本当に本当の言葉通りに》優しい気持ちで言ってくれているのが解っていても興醒めする。
別の言い方でいうと、寂しい気持ちになる。

そんなのは私だけでええのや(´Д` )

世の中みんなそんなのはあかん(´Д` )

もっともっと寂しい(´Д` )

頑張れ、がマイナーでネガティヴなポジションにいるのが
人と人の間にある繋がりの希薄さ、
または個々の孤独をあらわす現象であるならば

頑張れ、をメジャーでポジティブなポジションにもっていくことが人と人との間にある繋がり、
掘り下げて表現するならば
種の繁栄に社会という仕組みを選んで一応の成功を収めた私達が、進化の中で置き去りにしてきた問題の一つである
精神の安定、属することに対する安心と不安。
この矛盾を解決するキーワードになりうるはずである


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