「創価学会を斬る」に敗北した50年後の創価学会(上)

自らの保身のため、都合の悪い資料は公文書でも廃棄し続ける安倍政権と都合の悪くなった過去をなかったかのように改ざんし続ける創価学会。ブレーキ役どころか同じ穴の狢。類は友を呼ぶというが、輩は輩を呼ぶとでも言いたい。藤原弘達氏の「創価学会を斬る」から以下引用する。

「(公明党が)自民党と連立政権を組んだとき、ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを強力にファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働らく可能性も非常に多くもっている。そうなったときには日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。それがこれだけ厳しく創価学会・公明党を斬らざるをえない問題意識なのである。」「創価学会を斬る」296-297頁  藤原弘達 日新報道出版部 昭和44年11月10日発行  引用文の強調は筆者

創価学会による言論出版妨害事件は、まさにこの本が世に出ないように様々な画策をし、それがあかるみにでたことで次々と同様の創価学会を批判する書籍の出版妨害といえる事案が発覚、それが言論・出版の自由の侵害として被害を受けた当事者、政治家やマスコミも含めた当時の日本の社会から創価学会・公明党は激しい批判を浴びたのだった。

50年後の現在、藤原弘達氏の問題意識は的外れだった、創価学会を貶めるためだけの、あるいは昭和40年代当時の公明党の勢力拡大を削ぐことだけが目的の出版だった、と言い切ることができるだろうか。現在の政治状況に鑑みればむしろよく50年も前に自公連立の危険性をこれほど見事に言い当てたものだ、というべきではないか。創価学会・公明党にとって藤原の批判は苦すぎても飲むべき良薬だったのではないか。

藤原弘達氏が創価学会・公明党に対して出した結論は公明党を解散し、それまでの公明政治連盟に戻り、活動の場を参議院と地方議会に限定すべき、というものであった。(295頁)宗教団体の政治活動を禁止すべき(筆者は基本的にこの方向に向かうべきと考えている)というものではなく、いわゆる衆議院撤退論で、今ではむしろ穏当な部類の提言のようにも思える。勿論、昭和44年当時と現在とでは社会状況も衆議院の選挙制度も異なる。昭和42年に衆議院に初進出し25議席。「創価学会を斬る」が出版された昭和44年は衆院進出後2度目の選挙を年末に控えていた。(結果は47議席)中選挙区制度のもとで破竹の勢いだった当時の創価学会・公明党には藤原弘達氏の批判や提言を聞き入れる余地などなかったのだろう。しかし、歴史の皮肉というべきか、平成に入って公明党は解党し、新進党に合流、参議院議員の一部と地方議員で公明を作った。新進党の試みは失敗に終わり、公明党を再結成して現在に至っているが、民主党政権時には衆議院からの撤退も内々で検討されたとも聞く。会員が選挙の負担に耐えられないとも。

小選挙区制は英米のような二大政党制を目指し、政権交代を容易にする為として導入されたはずだが、現在ではむしろ死票の多さが民意を歪める弊害のほうが大きい感がある。政権交代可能な第二党を形成できない現状では、第一党が圧倒的に有利だし、与党の別動隊的な政党が一つあるだけで野党間の分断も容易だ。小選挙区の候補者を落とさないために政策度外視の妥協や密約を重ね続け、立党の原点を見失うくらいなら、衆議院から撤退し、平和、教育、福祉に特化して参議院で是々非々の立場を貫く、政権参加は閣外協力にとどめる、というのも一つの見識ではないか。もっともそれでは政権与党の旨味もなくなるが。

もともと創価学会の政治進出の際に、衆議院には出ないというのは当の創価学会自身が言ってきたことだった。戸田第二代会長、池田第三代会長ともに国政進出は参議院にとどめるとはっきり言明していた。のちに前言を翻したかたちになったので、藤原弘達氏にその自語相違も突かれた形になったものだがらその点は反論に窮したであろう。以下に該当する戸田会長、池田会長(当時)の発言ないし執筆箇所を引用する。(訂正)昭和36年以前に衆議院進出を否定していた週刊朝日 昭和31年7月29日号の戸田会長(当時)の発言、昭和35年6月、第三代会長就任直後の池田会長の発言を加えた。(20.4.22)

衆議院進出を否定 昭和31年 戸田第二代会長

週刊朝日 昭和31年7月29日号より

 「(前略)問 創価学会は昨年の地方選挙に五十二人当選者を出し、今度の参議院選挙にも進出が目立った。二十年後には、国会の過半数を制し、創価学会を国教にするといっているそうだが。
 戸田 そんなバカなことは考えていない。衆議院には候補者を立てない。(エヘン、エヘンとセキ払い。会長は、時々妙なセキ払いをするクセがあるようだ)日蓮精神にしなければならぬといっても日本中そうなるわけはない。ただ国立戒壇という国家の祈願所を作るだけだ。みんな、そういう気持ちになってほしいというわけだ。(後略)」

昭和35年 池田第三代会長 発言

 「(前略)創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団体ではありません。参議院のほうは、これはあくまでもあらゆる団体の代表が出て、衆議院のほうから回った、いろいろな法案というものを、厳正中立の立場で『これはよし、これはいかん』というふうに審議する立場ですから、これはかまわないわけです。各団体が出るところですから。(後略)」昭和35年6月10日 中部総支部幹部会 「衆院選に対する態度」会長講演集1巻86頁 昭和36年8月24日 初版発行 創価学会

これに対して衆議院は創価学会員も共産党、社会党、自民党などからきて信心している人もいるかもしれないのでどっちを応援するわけにもいかず、あくまで皆さん方の自由と決めたいとしてこれを学会の衆議院に対する態度とした。ただ、将来学会の最大の味方となって働く政治家がでればそれは応援しようとも皆に諮った。

昭和36年 池田第三代会長 大白蓮華 巻頭言

「(前略)しこうして、われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒をすすめるものではない。参議院ならびに、地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人材を送るものである。(後略)」昭和36年6月1日 大白蓮華巻頭言「文化局の使命 ㈠政治部」        巻頭言・講義集1巻33頁 昭和37年7月3日 初版発行 創価学会 

昭和39年 前言を撤回 政党化・衆議院進出を決議

「(前略)第四番目に、公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。(大拍手)それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定といたします。すなわち、創価学会の中に文化局があります。文化局の中に政治部が現在までありました。その政治部の使命については私は巻頭言で『われらは政党ではない。すなわち創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない。あくまでも参議院、地方議会政党色があってはならない分野に議員を送るものである』という意味の一文を書いておきました。したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うのであります。なぜならば、この十年間、わが同志である議員は、戦い、勉強し、一流の大政治家に育ってまいりました。恩師戸田先生も時きたらば衆議院へも出よとの御遺訓があったのです。(後略)」昭和39年5月3日 第27回本部総会  第六の鐘を鳴らそう 会長講演集11巻 175-176頁 昭和40年1月2日 創価学会発行 (引用文の強調は筆者)

(つづく)







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