戦前の創価教育学会の大量検挙、いわゆる「21人」の検挙者について


 戸田城聖「創価学会の歴史と確信」(論文集 昭和35年)によれば、「天照大神をまつらぬという『とが』で、学会の幹部二十一人が投獄されたのである。」「二十一名のうち、十九名まで退転したのである。」「会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。」とある。(戸田城聖先生論文集 110-111頁 昭和35年8月23日初版発行 創価学会)

普通に考えると計算が合わない。21人のうち、19人退転したなら残るのは2人のはずで、3人残ったなら退転は18人。19人退転で3人残れば全員は22人。要するに21、19、3のいずれかが誤りと考える他ない。現在の創価学会は21人の逮捕者のうち牧口、戸田以外の19人を退転として矢島も退転者と悪罵している。

しかし、そうすると「会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。」との記述と合わない。「病めるウサギのごとく、穴居している」とまで評している矢島周平氏をわざわざ牧口、戸田、矢島と退転しなかった三人に挙げている以上、論文執筆当時の戸田の認識では矢島氏は退転ではない。

 「特高月報」で確認できる創価教育学会の検挙者は20名である。
昭和18年6月29日  陣野忠夫 有村勝次
    7月6日   牧口常三郎 戸田城外 矢島周平 稲葉伊之助
    7月20日  寺坂陽三 神尾武雄 木下鹿次 片山尊 野島辰次
昭和19年1月    中垣豊四郎 西川喜右衛門 岩崎洋三          昭和19年2月  神奈川で  堀宏  美藤トサ  森田孝  小林利重     福岡で 金川末次 安川鉄次郎 以上の計20名である。

 創価学会公式刊行物では逮捕者21名、その内訳として東京14名、神奈川4名、福岡3名との記述はどれも共通しているのだけれど、精確に21名を確定している書物は私が調べたかぎりでは見当たらなかった。

東京14名、神奈川4名、福岡3名で計21名になるので、この数字を今まで疑ってこなかったのだけれども、特高月報の20名の内訳は、東京14名、神奈川4名、福岡2名である。富士宗学要集9巻では福岡の検挙者に田中国之を加え、東京の検挙者につき西川喜右衛門を除き、本間直四郎を加えている。(富士宗学要集9巻432-433頁 創価学会 昭和53年12月20日発行 私のは昭和63年発行の8刷)

 昭和18年6月からの一斉検挙の前に、昭和18年4月、統制経済違反で本間直四郎と北村宇之松が逮捕されている(戸田城聖伝 富士宗学要集9巻)。本間直四郎は戸田の経営する平和食品社長(専務とも)で当時創価学会理事(創価学会秘史、戸田城聖伝)。容疑は砂糖の闇取引と(復刻版 戸田城聖 -創価学会- 日隈威徳 本の泉社 80頁)。戸田城聖伝、富士宗学要集では検挙者は21名でなくなる。

 ではどう考えたらよいのか。田中国之氏の名は特高月報にはない。拘留期間は昭和19年3月5日から19日までの2週間(富士宗学要集)。そして、聖教新聞九州支社発行の「先駆の誉れ」巻末年表には「八女の田中国之氏も拘置、取り調べを受ける」と記されている(148頁)。

他方、統制経済違反の本間直四郎は治安維持法違反ではないので特高月報に名はないが、逮捕され拘留期間は昭和18年4月から19年12月22日の1年8か月に及ぶ。戸田の投獄された幹部21人とは特高月報の20人と本間、北村から会長牧口を除いた数なのではないか。田中国之は戸田の勘定に入っていないのではないか。

 これとて戸田の二十一人との記述と整合性を持たせるための解釈に過ぎず、無理があることは否めない。真相は単に記述のミスにすぎないのかもしれない。ただ、特高月報に記されていない福岡の田中国之氏は取り調べを受けた会員の一人を何らかの意図(例えば21人の数合わせ)で後年、検挙者に加えたと思われる。また、富士宗学要集9巻で法難者一覧として21人挙げたうち、本文では触れている北村宇之松をその一覧表に載せず、特高月報に記載のある西川喜右衛門を除いて本間直四郎を加えたのも同様の意図かと思う。21人の検挙者のうち19人退転を牧口、戸田以外は退転とするのも矢島周平氏を退転者としたい思惑で精確ではない。

 戸田城聖が獄中で転向した幹部を退転と評することに異論はない。しかし、現在の創価学会執行部の人々が機関紙等で大仰にこの時期の人々の退転を罵ることに私には大きな違和感がある。あなたがた職業幹部に、拷問され、生死の瀬戸際に立たされた人達の転向を云々する資格などあるのかと。

退転と言っても、この人達の多くは戦後、創価学会に復帰している。いわば先輩ということになる。「創価学会秘史」によれば、戦後の創価学会の活動を確認できないのは東京では野島辰次、有村勝次、中垣豊四郎の三人とある。矢島周平氏は戸田が一時理事長を辞任し、翌年会長に就任するまでの間、後任の理事長に指名されているし、神尾武雄氏は昭和51年当時には本部参与となっている。

「創価学会の歴史と伝統」(聖教新聞社 昭和51年発行)所収の「初代会長牧口常三郎先生を語る」という座談会の中で、神尾氏は自らの獄中での転向についての慚愧の念と、取り調べで気絶するまで拷問され、その後水をかけられまた殴られるといった獄中での苛烈な日々の体験を赤裸々に語っている。

それを受けて司会者(聖教新聞社編集総局長 美坂房洋氏)は、「胸中に秘めた苦渋の吐露に、私たち、あとにつづく者こそ学び、そして肝に銘ずべきものを感じます。」と述べている。2008年当時、矢島周平氏を突如裏切り者として紙面で攻撃しだしたときの当時の創価学会執行部各氏の紙面での発言には、学びの形跡は微塵もみられない。当時の理事長のその後には皮肉を感じる。

 その後、戸田城聖先生講演集下巻 41-42頁に「ふりかえってみますれば、昭和十八年七月の六日に、私は初代の会長とともに『神札を拝んではあいならん。神さまなんか拝んでも、日本の国は勝てないぞ!』という学会の持論が問題となって、牢へはいりました。その時、投獄されたのは、幹部一同、幹部のみが十九人、その他を入れて二十数人であります。」「その難を耐えしのんで出てまいりましたのは、私ひとりでありました。」との記述に接した。「広布の大道を歩まん」と題した昭和30年4月10日の向島支部第二回総会での挨拶である。「幹部のみが十九人」とは二十一人から昭和30年当時には既に日蓮正宗に出家していた矢島周平氏や検挙前に「かれから幹部をうしなわしめ」た寺坂陽三氏を除いたのかとも思ったが、二十数人となると精確な確定は困難で、「創価学会の歴史と確信」執筆当時(この論文は上下に分けて大白蓮華に発表されたとある。上が昭和26年7月10日、下が8月10日 ただ筆者は当該大白蓮華は未見)から年月が経つにつれ退転しなかったのも獄死した牧口常三郎以外は自分だけだと言っており、変化がみられる(矛盾と言うべきか)。

真相は戸田城聖その人に直接尋ねるしかないのかもしれないし、私にはもはやその術はない。戦後の検挙者の動向につき、書き足しておきたいと思っていることがあるのだけれど、いったん公開しておこうと思う。











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