創共協定または共創協定について (破)① 交渉前夜

 昭和43年(1968年)に文藝春秋誌で松本清張氏と池田大作創価学会会長(当時)が対談。以来、何度か対面する機会があり、宮本顕治共産党委員長とも知己だった松本氏が機会があれば宮本委員長といちど懇談してみてはと池田会長に勧めたと。他、対談に至る経緯を含め、事の顛末は、松本清張「『仲介』者の立場について」東京新聞 昭和50年(1975年)8月9日 のち 松本清張 「松本清張社会評論集」所収 講談社文庫(昭和54年 1979年)、「『創共協定』経過メモ」松本清張「作家の手帖」所収 文藝春秋(昭和56年 1981年)と山下文男「共・創会談記」新日本出版社(昭和55年 1980年)を読めば充分理解できる。特に「共・創会談記」は詳細。創価学会側の資料は乏しく「対論 日本における政治と宗教」野崎勲 高瀬廣居 財界通信社 (1995年)、「私の愛した池田大作」矢野絢也 講談社(2009年)、野崎氏は創価学会側の交渉当事者、矢野氏は公明党書記長として協定に対応しており(ただし、協定を骨抜きにするのだが)、参考になる。

 創価学会内部の動きや創価学会と公明党の協定の対応については資料が乏しい。新・人間革命22巻で2頁足らず、野崎氏も「対論 日本における政治と宗教」でわずかに語るのみ。矢野氏の記述も公明党側からのもので、そこから創価学会内部の動きを推測しうるに過ぎない。このように創価学会側に協定についての詳細な記録がないのは理由があると考えてよいと思う。現在では公然と暴力革命政党だとかハイエナとまで罵倒、敵視している共産党とかつては相互理解に最善の努力をする、お互いに誹謗中傷しないなどと約束した協定を結んだ過去などもう世間に、というか現在の会員によほど知られたくないのだろう。

 協定に関わった人物を含め、当時の創価学会、日本共産党の主な人物の昭和49年(1974年)、協定締結時における立場及び年齢を参考のため記しておきたい。年齢は、特に創価学会・公明党の側の人間関係を把握するために関係者の当時の年齢を確認しておくことは有用だと筆者は考える。

仲介者 松本清張 作家(1909-1992)65才 

日本共産党 宮本顕治 日本共産党委員長 (1908-2007) 66才      上田耕一郎 共産党交渉当事者 日本共産党中央委員 (1927-2008)47才  山下文男 共産党交渉当事者 日本共産党文化部長 (1924-2011)50才 

不破哲三 日本共産党書記局長 上田氏の実弟 (1930- )44才

創価学会 池田大作 創価学会会長 (1928- )46才
野崎 勲 創価学会交渉当事者 創価学会総務 男子部長 (1942-2004) 32才  志村栄一 創価学会交渉当事者 創価学会文芸部長 潮編集長 (1942- ) 32才

北条 浩 創価学会理事長 副会長 (1923-1981) 51才         秋谷栄之助 創価学会副会長 (1930- ) 44才

公明党 竹入義勝 公明党委員長 衆議院議員 元総務(1926- )48才 矢野絢也 公明党書記長 衆議院議員 元総務(1932- )42才

 このようにみてみると、当時32才の野崎氏がいくら優秀で、学会の知恵袋、有力な次代の会長候補と言われていたとしても、50才前後の上田・山下氏の共産党側に対し、交渉当事者として若輩感は否めないのではないか。北条・秋谷、竹入・矢野の各氏などよりも一回りほど下になり、創価学会の代表として適切な人選だったといえたのか、疑問に思える。しかし、野崎氏に交渉を担当させたのは池田会長の意向であった。ただ、若手の筆頭格とはいえ、野崎氏の当時の学会内での立場は、昭和40年聖教新聞社入社、昭和44年創価学会本部勤務、昭和47年12月に男子部長に抜擢されて2年足らず、会内に先輩幹部は数多おり、対する上田氏は共産党のナンバー3くらいか、格が違うと言えば違うはず。ただ、その点で共産党側が難色を示したということはなく、池田会長が上田氏を交渉役として指名するあたりも「いい線をいいますね」が同じ共産党の山下氏の評価だった。実際、松本氏、山下氏の交渉経過を読む限り野崎氏は上田氏とよく渡り合ったというべきなのだろう。むしろ、その後の顛末において創価学会内部や公明党の竹入・矢野氏等の先輩たちに対してこそ野崎氏の若さは仇になったというべきなのかもしれない。

 竹入・矢野氏は言論出版妨害事件ののち、創価学会の組織改革により、党と学会の役職の兼任を解き、学会の役職(2人とも総務)を辞退(昭和45年1月)、同時期に学会は昭和45年、副会長制を敷き、北条、秋谷、森田の3氏が就任、北条氏はその後、昭和49年、再び理事長に、副会長と兼任(理事長だった和泉氏は副会長に)。協定締結時の創価学会副会長は、北条浩、秋谷栄之助、森田一哉、和泉覚、青木亨、福島源次郎、山崎尚見、の7氏。野崎勲氏は男子部長・総務。公明党議員の創価学会役職兼任解消により、創価学会と公明党との意思疎通が疎遠になったことは否めなかっただろう。池田会長の公明党、竹入・矢野氏への不信感、不満の背景には政教分離したがゆえに公明党に口出ししにくくなり、党なかんずく竹入・矢野は好き勝手やっているとの認識が池田会長にあったことが考えられる。緊密な連携、あるいは逐一指示するといったようなことができなくなり、疎遠になったが故の疑心暗鬼とでもいうべきか。

 昭和49年の協定の前段階として言論出版妨害事件当時(昭和45年前後)も、松本清張氏、五島昇氏(東急創業者五島慶太長男、東急社長)などが宮本・池田対談を提案したが実現せずと。矢野氏によれば、池田会長の謝罪発言の前に(昭和45年5月3日以前)対談が試みられ、その際、共産党からか仲介者からかは不明だが、①言論妨害を認め、謝罪する②政教分離or自民党寄りを改める③竹入委員長の辞任、の条件が出され、矢野氏は大将の首を差し出すことなどできないと反対し、竹入委員長更迭後の後任の打診も断ったと述べている(「私の愛した池田大作」186頁)。松本清張氏は昭和50年の4年くらい前に対談の動きがあったが当時は条件がそろわず断念、それ以来手を引いていたと述べ(「松本清張社会評論集」127頁「作家の手帖」298-299頁)、共産党の側も言論・出版妨害事件が一応おさまった後のこととして対談の動きがあったが時期尚早と返事し実現せずと述べている(山下「共・創会談記」14頁)。松本清張氏と山下文男氏の記述は時期もほぼ符合している。矢野氏の記述はそれより一年程早いが、提案者も松本氏、五島氏とおり、対談の動きも複数回試みられていたようなので、言論出版妨害事件のころの一連の対談の動きをそれぞれ記したものといえそうである。ただ、野崎氏は言論出版妨害事件のころの会談の動きに触れず、時期尚早として実現しなかった対談の時期を昭和49年の夏、秋の出来事としており、(「対論 日本における宗教と政治」89-90頁)筆者はこの記述が事実か、疑問を持っている。

 昭和49年の協定締結の際に創価学会側が公明党にすら内密に交渉を進めたのは言論出版妨害事件のころの会談が流れた経緯があったからではないか。池田会長は公明党、特に竹入委員長が共産党との交渉の動きを知ると反対し、故に交渉ができなくなるとふんで公明党に内緒で話を進めたのではないだろうか。そうだとすればなぜ北条、秋谷氏ではなく若手の野崎氏に交渉を担当させたのかも理解できるように思える。北条、秋谷氏に交渉をさせればそのことが否応なく公明党側、竹入、矢野氏に漏れると思い、それを嫌ったのだろう、池田会長は。

 また昭和49年の対談のきっかけも志村氏(月刊誌「潮」編集長)から松本清張氏に持ちかけたもので、これも池田会長の意向であった。創価学会側の交渉担当者として野崎氏を充てたのも、共産党の交渉担当者として上田氏を指名したのも池田会長とのことで、このことに関し松本清張、山下文男氏のどちらの記述も同じ内容で、食い違いはない。この点も新・人間革命は松本清張氏の勧めとだけ述べ、池田会長の意を受けた志村氏の呼びかけであったこと、すなわち創価学会の側からの働きかけであったことに触れない。野崎「対論 日本における政治と宗教」も。さらに野崎氏は同書で上田耕一郎氏の名を松本氏が共産党の交渉者として考え、挙げたように述べている(90頁)がこれは、松本、山下両氏の著作の記述と矛盾する。野崎氏の記述は創価学会側から交渉を呼びかけた事実を隠すために、共産党の交渉者として池田会長が上田耕一郎氏の名を挙げたのを松本清張氏が挙げたかのように意図的にすりかえた記述だと筆者は判断している。

 このように、創価学会が引き起こした言論出版妨害事件のころ(昭和45年前後)の対談の動きに触れず、昭和49年の対談も創価学会側からの働きかけだった事実に創価学会や野崎氏がふれないのには理由がありそうである。言論出版妨害事件を引き起こし、徹底的に批判された過去から、共産党からの厳しい批判を何とか封じたいという会談の呼びかけの動機・思惑をみすかされるのが嫌なのではと筆者は推測している。そうだとすれば、宮本委員長との対談を望んだ池田会長の思惑は、共産党からの厳しい批判をどうにかして防ぐことができないかというようなもので、初めから次元の高い崇高な動機などではなかったのではないか。あるいは、政教分離で意思の疎通を欠き、池田会長の眼からは右に寄りすぎたとみられる公明党の路線を、共産党と協定を結び、そのことを既成事実として公明党に承認させることで党の路線を変更させ、もって竹入・矢野氏の執行部を交代させるといった、政治の主導権を公明党から池田会長が自らに取り戻す目論見だったのか。協定が実際に機能しなかった故か締結から四十数年が過ぎてもいまだ定説は定まっていないようにみえる。

(つづく)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?