創共協定または共創協定について(序)

 まず、昭和49年(1974年)12月28日に日本共産党と創価学会との間で結ばれた「創価学会と日本共産党との合意についての協定」の全文と、翌年(1975年)7月27日、協定が発表された際に付された双方同文の「経過について」という文書を引用する。(山下文男 「共・創会談記」1980年6月15日初版発行 新日本出版社 巻末資料 222‐224頁)山下文男氏は協定の共産党側の当事者の一人。創価学会側で協定の全文を引ける資料をご存知の方がいればぜひ教えていただきたい。(注)

創価学会と日本共産党との合意についての協定             創価学会代表野崎勲と日本共産党代表上田耕一郎とは、一九七四年十月末以来、数回にわたって懇談し、それぞれの組織の理念と性格、現在の活動と将来の展望、内外情勢などについて、広範かつ率直な意見の交換をおこなった。 
 その結果両者は、創価学会と日本共産党とが、それぞれの組織ならびに運動の独自の性格と理念、さらには立場の違いをたがいに明確に認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、日本の将来のため、世界の平和のため、そしてなによりも大切な日本の民衆、人民のために、それぞれの組織を代表して、左記の事項について合意した。(引用者注 原文は縦書き) 
一、創価学会と日本共産党は、それぞれ独自の組織、運動、理念をもっているが、たがいの信頼関係を確立するために、相互の自主性を尊重しあいながら、両組織の相互理解に最善の努力をする。 
二、創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する。                        三、双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。あくまで話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は、協議によって解決する。       四、双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。                     五、双方は、世界の恒久平和という目標にむかって、たがいの信条と方法をもって、最善の努力をかたむける。なかんずく、人類の生存を根底からおびやかす核兵器については、その全廃という共通の課題にたいして、たがいの立場で協調しあう。                        六、双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち、たがいに賢明な英知を発揮しあって、その危機を未然に防ぐ努力を、たがいの立場でおこなう。同時に、民主主義的諸権利と基本的人権を剥奪し、政治活動の自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう。 
七、この協定は、向こう十年を期間とし、調印と同時に発効する。十年後は、新しい時代状況を踏まえ、双方の関係を、より一歩前進させるための再協定を協議し、検討する。
一九七四年十二月二十八日                      創価学会代表 総務
 野崎勲 (宗教法人創価学会印)
日本共産党代表 常任幹部会委員
 上田耕一郎 (日本共産党中央委員会印)
経過について                           一、日本共産党宮本顕治幹部会委員長、創価学会池田大作会長と、それぞれ旧知の間柄であり、かねてから両者の隔意ない懇談を実現させたいという希望をもっていた松本清張氏の仲介で、昨年十月末、両組織の話し合いがはじまった。(引用者注 昨年とは昭和49年を指す)            昨年十月三十日、松本氏の立会いのもとに、日本共産党側から上田耕一郎常任幹部会委員、山下文男中央委員・文化部長、創価学会側から野崎勲総務・男子部長、志村栄一文芸部長とで第一回の懇談をおこなった。以来、松本氏宅において、十一月に一回、十二月に五回、合計して二十数時間におよぶ懇談がおこなわれた。                         その間、双方の組織、理念、運動の討議のなかから、それぞれの立場の違いを認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、世界の平和のため、日本の民衆のためにいくつかの合意点を確認することができ、それを文書としてまとめることとなった。            こうして上田、野崎のあいだで別掲の「日本共産党と創価学会との合意についての協定」がまとまった。この協定書は、双方の機関にはかられた上、十二月二十八日、両組織を代表して、上田、野崎が署名し、双方の組織による捺印がおこなわれた。
二、十二月二十九日、宮本委員長と池田会長が松本氏宅を訪問し、松本氏をまじえてなごやかに懇談がおこなわれた。
三、なお双方は、協定公表の時期については、協議しておこなうことをとりきめ、今回の発表となった。

松本清張氏は、「『仲介』者の立場について」で、宮本・池田会談を提唱した動機、お互いが認め合っており、理解しあえる余地があるはずで、選挙のたびに両組織の末端で無用な紛争が起こるのは国民のために何ら益のないことと思ったことや、仲介者は自分でなくても渡辺恒雄氏、草柳大蔵氏など他にも宮本・池田対談の提唱者がいたことなどをあげ、協定の締結から公表まで半年以上の間があったこともどちらかの「政局」ゆえの事情があったに過ぎず、秘密にする意図などないとして、「私の書いた経過とともに、『協定書』の全文を虚心坦懐に読まれることを望みたい。」とした。松本清張 「仲介」者の立場について 東京新聞 1975年8月9日 松本清張 社会評論集 講談社文庫所収 昭和54年(1979年)10月15日 第1刷発行

ただ協定書の締結から40年以上が経過した現在では、松本清張氏の希望通りに全文を虚心坦懐に読もうと思っても、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」がいかなる内容だったのか、まず原文を確認すること自体が困難だった。協定締結の日本共産党側の当事者だった山下文男氏の「共・創会談記」にたどり着いてようやく原文を確認することができた。しかし、創共協定について創価学会側の資料は乏しい。ほとんどないと言いたいくらいで、かろうじて創価学会年表で、共産党と協定を結んだことに触れている。

新・人間革命22巻に至ってはたった2頁足らずの言及があるだけだった。そのことについて、(内心ではひでぇ、と思っている)評価などはおいおい述べていくとして、ともかくこのnoteの読者の方にも「『協定書』の全文を虚心坦懐に読まれることを望みたい」し、そのことにいささかでも役に立てたら困難な仲介の労をとられた松本清張氏の恩にほんの少しでも報いることができるような気がする。そんな大げさでないにしても、忘れてはいけない先人の努力だと思うし、現在でもこの協定につき論じることは意味のあることだと考える。勿論、創価学会の側に多大な反省と日本共産党、松本清張氏に対する真摯な謝罪がなされる必要があることも論じていきたい。

(注)その後、聖教新聞縮刷版 昭和50年7月~8月 通巻第80号 昭和50年10月1日発行 聖教新聞社 に接した。昭和50年7月28日の紙面に協定の全文と経過についてが掲載されている。ただし、翌日(7月29日)の紙面には秋谷副会長(当時)の談話、いわゆる秋谷見解が掲載され、「共闘なき共存」が強調される。こうして創価学会側では、公表即空文化の動きで、あたかも共産党との協定などはじめから結ばなかったかのような扱いになっていってしまった。(’20.11.17注を付加)

(つづく)

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