「忠実なファンの支援による生計の実態」
私が2008年に翻訳したケヴィン・ケリーの「忠実なファンの支援による生計の実態」を クリエイティブコモンズ 表示-非営利-継承ライセンスにより、ここに掲載します。
(翻訳初出:七左衛門のメモ帳 2008年5月5日)
著者:ケヴィン・ケリー ( Kevin Kelly )
訳 :堺屋七左衛門
忠実なファンの支援による生計の実態
The Reality of Depending on True Fans
連絡を取ったアーティストのうちの一人が音楽家ロバート・リッチ(Robert Rich)である。私はファンとして(ただし「忠実なファン」ではないが)知っているだけだった。リッチは環境音楽の初期の先駆者で、1980年代初めのサンフランシスコ・ベイエリアのニューエイジ・ミュージック・シーンで影響力のあった人物である。彼は多作で、過去20年間に約40枚のアルバムを発売している。多くは他の環境音楽家との共同作品である。初期のアルバムには、彼がその名声を築いた「ヌメナ」("Numena")がある。最新のアルバムは「イレブン・クエスチョンズ」("Eleven Questions")で、これは自分のホームスタジオで仲間と7日間ぶっ通しで録音したものだ。
あなたの基本的主題(千人の忠実なファン)に大いに賛成する。熱心なファンの援助を開拓すれば、アーティストはロングテールの末端で生き延びられる。しかし、私の個人的な考察により調整を加えた現実主義を少し加味して、喜ばしい楽観主義を調節することができると思う。
私は30年近くにわたって、あなたが言うのと同様の前提に基づいて活動してきた。インターネットによってこの考えの実現性が高まるよりも前からである。私は妥協のない静かで内省的な感じの音楽を作りたかった。70年代半ばに、他の人の作品を初めて聞いて自分が深く感動したようなものを。サイケデリックな文化が一般化したことによる後遺症が続いていて、ある種のミームがアバンギャルドからポップカルチャーに流出した。そして古いモデルの出版社は、実験的な芸術形態をメインストリームに対して売り込もうと試みていた。こうして、シリコンバレーで育った若者の心の中には、ヨーロッパの宇宙音楽、ミニマリズム、バロック、民族音楽、インダストリアル/パンクなど意外な組み合わせのものが融合していた。実はそのような音楽の大部分は、世界的な流通と営業の恩恵を受けているのだが、当時、みんなは「アンダーグラウンド」だと思っていた。
要するに、私は古いシステムの後援者として成長した。サブカルチャーの境界を越えて急進的思想が拡大するのを、人口統計的な市場分析が阻害するようになる以前にである。実験的な文化がメインストリームに流出したことをきっかけとして、私は自分を深く感動させたのと同じようなアーティストになりたいのだと自覚した。費用がいくらかかっても、自分の個人的真実を語りたいと思った。この現代社会の複雑性と皮肉を受容しつつ、現代のシャーマンとしての役割を果たしたかった。
このような方向性をめざすと決めると、人はすぐに経済的な現実の暗さを考える。私は15歳くらいのとき自分に言い聞かせたことを思い出す。「一人を深く感動させることができるならば、数千人を楽しませながら何も意味あるものを残さないよりも良い。」この話はロングテールだ。この考えを千倍すれば、あなたの論考に相当すると思う。
1981年に私は自分の音楽の自費出版を始めた。ずるい流通業者から支払いを受けるのに苦労したり、アルバム販売を委託した店の状況を全部自分で記録したりしていた。何年かたって、いくつかの小さなレーベルが私への支援に興味を示してくれて、ようやく楽になった。彼らのインフラストラクチャーを利用できるようになった。ハーツオブスペースのようなレーベルや欧州のもっと小さなレーベルを通じて公開することで、私は多大な恩恵を受けたと思う。小さな会社が中くらいの漁網を投げてくれて、この種の音楽が好きだとは自分でも気づかなかった人たちの興味をひきつけることができるはずなのに、今にして思えば、私は独自の流通という壊れそうな枠組みのもとで、こっそりと活動していたのだった。
この小さな窓からの公開がなければ、私は「千人の忠実なファン」を得られたかどうか疑わしい。そして、おそらく日銭稼ぎの仕事を続けていたことだろう。オーディオ・エンジニアリングとマスタリングの技能を身につけていなければ、本当に飢えていただろう。インターネットの発展や新しい流通と宣伝の手段がなければ、ずっと前にあきらめていただろう。そういう意味で、新しい技術が私のようなアーティストに門戸を開いてくれたのだという意見には心から賛同する。ただし、そこには絶え間ない苦闘がある。
ロングテールで生き延びるアーティストは、他のことを何もしなくても幸せだという種類の人である。何か重要なことを伝えるためならば、安心と快適を犠牲にすることを厭わない人である。有意義だと感じるものをさがしている、世界でも数少ない人の目にとまることを期待しているのだ。それはいくらか孤独な存在であり、闇に向かって光を発する灯台の管理人に少し似ている。その行為が、見えない場所にいる誰かに役立つと信じている。
今、私は40代半ばだが、毎年2~3か月ほど自分で運転して全国を回って、聴衆が30人から300人規模の小さなコンサートを開いている。自分で予約係兼マネージャー兼契約代理人兼運転手兼設営スタッフをしている。誰かの家のソファで寝たり、たまには贅沢にも「モーテル6」という安宿チェーンに泊まったりする。
あなたの記事で「マイクロセレブ」という言葉を引用していたが、皮肉にもそれは私にぴったりのようだ。私はそれを自分で多少経験していると思っている。ツアーで会う600人ほどのうちの何人かが、ショーの後で私の所に来て、私の音楽が自分にとって非常に重要であるとか、それが自分の命を救ったとか、こんな画廊やプラネタリウムや図書館でなくて立派な3千席の劇場でなぜ演奏しないのか理解できない、などと話してくれるのを聞くとき、私はそう感じる。
実際の「マイクロセレブ」の生活は、頂上に着くたびに巨岩が山を転がり落ちて元に戻るという、シシュポスの運命によく似ている。ツアーが終わるたびに私は疲れ果ててしまうが、それでもいくらかの人がこの音楽にほんとうに多大な関心を寄せていると思うと力づけられる。しかし何か月の後には全ては元通り静かになって、CDやダウンロードの売上も低下する。もしも1年間、私が画期的だと考えるアルバムに集中する時間を取るならば、その静寂の時間はどんどん広がって大きな穴になり、関心も薄れていくだろう。そしてついに私が大胆な新しい方向への試みを発表した暁には、いつもの「千人の忠実なファン」に売ることが精一杯だろう。巨岩は山のふもとに戻って、また頂上に向かって転がし始める時が来たというわけだ。
さて、少し財政を考えてみよう。ダウンロードまたはCDの直接販売1回ごとに、およそ5ドル~10ドルが得られるとする。千枚売れば、その年の成果として最大1万ドルの売上を達成できる。それでは生活費にならない。たとえば、20回のコンサートを開けば、3~4ヶ月働いて約1万ドルの収益がある。それでは生活費にならない。
私の場合は幸運だ。そんな微々たる所得以外にも、追加の収入がある。たとえば、サンプルクリアランスや映像使用権や音響効果ライブラリのライセンス料など「マイクロセレブ」による収益、そしてスタジオでのマスタリングやエンジニアリング料の収入である。だから地元の清掃作業員と同じくらいのお金を稼いでいるが、1日働いた後でもそれほど臭くなるわけではない。(もし著作権法が消滅したら、このわずかな追加収入がなくなるのだ。したがって、情報の無料化に関する論争では、賛否双方に対して私は複雑な思いを持っていることをわかってもらえるだろうか。)
ハーツオブスペース時代の2万~5万枚の売上と比べると、インターネットのおかげで「千人の忠実なファン」へ直接販売するようになったので、今はもっとお金を稼いでいる。しかし、ハーツオブスペースがアルバム販売のために行った多大な宣伝活動による恩恵がなければ、私が今日、専業のアーティストとして生き残ることはなかっただろう。
私には約600人の「忠実なファン」と2千人の熱心な愛好者がいる。……そして、たぶんその周辺にはさらに多くの人たちも。私のデータベースには約3千人の名前が登録してあるが、大部分の人は2~3年に1度連絡をくれるだけだ。たまに新しい人が現れて、私の今までの全作品を買うこともある。この答えは簡単ではない。たとえばロシアには少なくとも500人以上の熱心なファンがいることがわかっているが、彼らは私に何も払ってはいない。みんな不正コピーを入手しているからだ。ロシアにいる4~5人の「忠実なファン」がそのことを知らせてくれた。多くの「ファン」は芸術に感動しても、それにお金を払わなければならないとは思っていない。あるいは、もしかしたら経済環境のせいで払えないのかもしれないし、便利さの法則の逆なのかもしれない。
新しく増える「ファン」の人数は、たぶん減少分とほぼ同じだろう。それぞれの人ともっと直接に交流できるはずではあるが、そうすると新しい芸術を創作する時間が少なくなる(半日を電子メールに使うことも珍しくない)。デジタル流通は、想定される価値や魅力を下げているように思われる。容易にアクセスできることは、それが特別なものであるとか、自分だけのものであるという感覚を減少させる。音質を圧縮したり物理的なアートワークがなかったりすることは、収集価値を低下させる。私はこのような力に対抗しようと努力している。高品質の音声を使ったり、聞く人に音源の重要性を知らせたり……しかしみんなが細かいことまで考えているとは限らない。
さらに注意を。この「忠実なファン」に対する期待にはだまされやすい。わずかな収入しかないのに、アーティストは様式の限界や先入観を超えようとして度を過ごし、貧困に陥る危険を冒すことになる。私は、発散的な(おそらくは予測不可能な)芸術の作家の一人として、ちょっとした名声を得ていたと思う。その視点から、期待を無視する気持ちと迎合する気持ちの間で、映画「キャッチ22」のような板挟み状態になっていた。同じ千人に対して演奏して、いつも同じ基本的なことを続けていれば、ついには「ファン」は飽きてしまう。今年の新作が去年とほとんど同じで、黒の色調がちょっと違うだけであれば、新作を買おうとは思わない。しかし、ファンには最初に自分を「忠実なファン」にした快適な領域というものがあって、お気に入りのアーティストがそれを超えて進んでしまっても、自分の快適な箱の中だけでしか注目の範囲を動かさないようである。あちらを立てればこちらが立たず、と言ったところだ。
私は干上がりつつある水たまりのオタマジャクシにはなりたくない。聴衆が少なすぎるときに特殊化すれば、その結果は絶滅である。もう少し説明しよう。
様式の限界という罠について、進化生物学は、種の多様性と同系交配の観点で一つの比喩を示している(E.O.ウィルソンの研究を参照)。一つの種で小集団が孤立すると、その形質は大集団とは別の進化を始めて、ついには新しい種を形成するに至る。しかし、この孤立条件下では遺伝的多様性は減少し、新しい環境に特化した種は環境変化に脅かされやすくなる。個体数が多いほど、同系交配に陥る危険度は小さい。同じ種の大集団との関係を保ち続けていれば、過度の特殊化の可能性は少なく、複数の環境で生存できる可能性が多くなる。
この比喩はアーティストと忠実なファンに関連がある。私たちの文化は様式と人口統計の考えにとらわれているからである。ファンの数が少ない状態で、アーティストがきわめて個人的な傾倒に依存すると、たった一本の木の果実にだけ頼って生きている動物のようになる。これは絶滅へのレシピである。人口統計の層区分は、小集団を他の集団から隔てている山脈に似ている。特定のファン層の間に、また、その人たちが愛する芸術の間に、障壁のない世界が良いと思う。雑種犬や他花受粉の世界を私は好む。いつも同じ人に聞いてもらうばかりでなく、より広い範囲の人たちが私の作品に興味を持ってくれると思えば、もっと気分がよくなる。
インターネットはアーティストにとって聴衆を増やすことができるツールであり、また、聴衆である個人にとっては、自分の趣味を広げるツールであり、新しい様式をさがすツールであり、そして驚くようなものが欲しければ、驚くものを見つけるツールでもある。ところが、インターネットは人口統計上の特定の狭い層に的を絞り、アルゴリズムで決められた嗜好や様式へ向かって人々を動かして、新しい考えを受け入れることを阻止するような仮説を増強するツールでもある。企業は人口統計モデルを使って、人々の展望を広げるよりも、むしろ人々の検索パターンを追跡して彼らの嗜好に迎合し、それを強化することがある。これはインターネットの技術に問題があるのではなく、資本主義の現実と人間心理の問題である。
多くの技術と同様に、インターネットは道徳的に中立である。私たちはその力を使って、既存の嗜好を強化するだけではなく、芸術的表現を拡大したり、少数派のアーティストが観客と直接交流して生活水準を改善したり、人々が驚くような、あるいは因襲を打破するようなものを見つけるのに役立てたりできる。自分でささやかな避難壕を掘るための新しいツールがあっても、飢えたアーティストはたぶん飢えたままだろう。でも過去にそうであったように、一部のアーティストはそのツールを使って砂の城を、すなわち偉大な芸術作品を作ることだろう。
-- ロバート・リッチ
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